第3話:兗州牧
――初平三年(一九二年)、兗州東郡。
夏のはじめに、東の空の下から、人が流れてきた。
はじめに来たのは、荷を背負った百姓だった。次に、県の役所を捨てた吏が来た。その次に、県城の門を開けたまま逃げてきた兵が来た。どれも、同じことを言った。青州のほうから、黄色い布を巻いた者たちが、州へ入った、と。
曹操は、その数を、幾度も問い直した。
百万、と誰もが言った。数えた者は、一人もいなかった。ただ、県が一つ、半日で呑まれ、次の日には、その隣の県から、人が流れてくる。数える暇のないものが、来ていた。
兗州には、州を監督する刺史として、劉岱がいた。
酸棗の壇の下で、袖で顔を覆って泣き、その晩から、宴の席で肉を裂いていた男である。盟が溶けたあと、劉岱は、同じ壇の下で泣いた太守の橋瑁を殺し、その兵を、そっくり自分のものにした。いま、兗州でいちばん多くの兵を抱えているのは、この男だった。
その劉岱が、討って出ようとしている、という。
鮑信の使いが、東郡へ着いたのは、その頃だった。
埃で顔の色の分からなくなった若い騎手が、馬を下りるなり、口上を述べた。済北の相を務める鮑信からの言伝である、と断って、覚えてきた言葉を、そのまま並べた。
「賊は、いま、百万を号しております。州の民は震え、こちらの兵には、戦う気がありません。この二つが揃っているうちに野で当たれば、数に呑まれます。――ただ、あの群れには、兵糧を積んだ荷車の列がありません。食う物を、掠めるほかに持っていない。ならば、いまは兵を養い、城を堅く守るがよい。戦おうにも当たる相手がなく、掠めようにも掠める物が無くなれば、あの群れは、必ず、自分から離れて散ります。散ってから、選んで討てばよいのです」
「刺史どのは、なんと」
「お聞き入れになりませんでした」
若い騎手は、そこで、初めて言葉を選んだ。
劉岱は、こう言ったのだという。州を預かる身が、州の焼けるのを城の中から眺めていて、あとで州の者に、なんと言えばよいのか、と。
曹操は、それを聞いて、しばらく黙っていた。
鮑信の言うことは、正しかった。飢えた群れは、待てば崩れる。曹操自身、同じことを考えていた。だが、劉岱には、待てぬ理由があった。刺史は、この州の土から生えた者ではない。朝廷から降ってきて、州を監督する官である。その官が、州の焼けるのを見て門を閉ざせば、州の大族は、明日から、その門の内へ穀を運ばなくなる。
外から来た者は、守れることを、見せ続けねばならない。
見せられなくなった日に、下からの支えが、音もなく外れる。曹操は、済南で、それをやられた側だった。
ひと月ののち、報せが来た。
劉岱は、野へ出て、黄巾に当たり、討たれた。
橋瑁を殺してまで兵を増やした男が、その増やした兵ごと、半日で崩された。兗州は、州を率いる者を、失った。
東郡の役所へ、供も連れずに、一人の男が入ってきた。
陳宮である。東郡の生まれで、州の吏を務め、州じゅうの名のある家に顔の利く男だった。座るなり、前置きを省いた。
「兗州は、いま、頭を失っています。刺史は死に、その兵は散った。あの百万を抑えられる者は、この州の内に、もう一人もいない。放っておけば、県は次々に焼かれ、大族は田を捨てて南へ逃げます。逃げた田は、二度と戻りません。――あなたが、州をお取りなさい」
曹操は、すぐには答えなかった。
東郡は、自分の兵で賊を斬って、自分の手で取った地だった。だが、いま手元にあるのは、その東郡の分の兵だけである。一州は、剣では取れない。剣で取れば、州じゅうの家が、その日から敵になる。
陳宮は、その沈黙を、待たなかった。
「兵が足りぬ、とお思いでしょう。東郡の分しかない、と。――兵で取るのではありません。渡されるのです。私が、州の者を説いて回ります。まず別駕――刺史の車のうしろに、別の車で付き従う補佐役です。それから治中――州の役所の文書と、人の割り振りを握る役。この二人がうなずけば、州の吏は、みな従う。あとは、郡を預かる者たちだ。あなたを、兗州牧――州を丸ごと預かる長官として、迎えさせましょう」
渡されるほかに、州を手に入れる道は無かった。
その代わり、渡すことのできる手は、いつでも、取り返すことができる。曹操は、卓の木目を、指の腹で一度なぞってから、顔を上げた。
「なぜ、私なのだ」
「あなたを好いているからではありません。この州を守れる者が、いま、あなたのほかにいないからです。私は、兗州の者です。守れる者に、州を渡す。それだけのことです」
陳宮は、笑いもせずに、そう言った。
好いてもいない男を、州ごと担ごうという。曹操は、その言い方を、二度、口の中で繰り返した。守れるあいだは、この舌が、州を自分のほうへ回してくれる。守れなくなった日には、同じ舌が、同じ手順で、州を別の誰かへ回すのだろう。
だが、いまは、その舌が要った。
「頼む」
「三日――いや、五日いただきます。馬を、二頭お貸しください」
陳宮は、それだけ言うと、出ていった。
待つあいだ、曹操には、することが無かった。
兵は、数えても、たかが知れていた。曹操は、蔵を検め、馬の脚を見て、それから、荀彧を呼んだ。司馬として、そばに置いている男である。
荀彧は、帳面を抱えて来た。
「兗州の、去年の収穫の写しです。県の数、戸の数、納めた穀。――百万を食わせる穀は、この州のどこにもありません。蔵を残らず開いても、ひと月ももちません。向こうは、それを知らずに来ています。知っていれば、青州を出ません。あの群れは、食う物のある土地を目指して動いている。目指した先に、食う物が無い」
荀彧は、そこで、いったん口を閉じた。
閉じてから、めくりかけた帳面の端を、指で押さえ直した。
「散るまで待てば済む話です。待てるだけの城と、穀があれば。――劉岱どのに、それが読めていなかったとは、思いません。読めていて、待てなかったのだと思います。待てば、州の者のほうが、先に離れていきますから」
曹操は、帳面の上の、細かい字を見た。
県の名と、戸の数と、穀の桝目。州というものは、この紙の上では、たったこれだけだった。その紙を渡されるために、いま、一人の男が、馬を二頭潰しながら、州じゅうの家を回っている。
五日目の夕方、東郡の城の外に、旗が立った。
鮑信だった。
済北から、自分の兵を連れて来ていた。そのほかに、州の役所の吏が、十人あまり。先頭で馬を下りたのは、鮑信ではなく、痩せた、年配の吏だった。万潜と名乗った。
「州の吏を束ねております。別駕、治中、以下、みな、そろって承知いたしました。これを、お渡しにまいりました」
万潜が捧げたのは、木の箱だった。
中には、州の帳面と、地図が入っていた。県の境が朱で引かれ、渡し場と、道と、蔵の在り処に、細かい書き込みが重なっていた。何代もかけて書き足されてきた紙だった。
「去年は、同じものを、劉岱どのにお渡ししました」
万潜は、顔色も変えずに、そう言った。
責めているのでも、詫びているのでもなかった。州の吏というものは、州が生き延びるために、来た者に、この箱を渡す。渡した相手が死ねば、次に来た者へ、また渡す。曹操は、その箱を受け取りながら、自分がこの州にとって何番目の預かり手なのかを、考えた。
鮑信は、その後ろに、黙って立っていた。
二年ぶりだった。酸棗のときより、少し肉が落ちていた。目だけが醒めているのは、あのときと同じだった。
「久しぶりだな、孟徳」
曹操は、箱を抱えたまま、その顔を見た。
済北の相が、なぜ、自分の郡を離れているのか。訊くより先に、鮑信のほうが口を開いた。
「郡を守っても、州が焼ければ、郡も焼ける。そんなことは、あんたのほうが、よく分かっているだろう」
鮑信は、それから、箱のほうへ、顎をしゃくった。
「二年前、酸棗で、あんただけだ、と言った。あれは、酒の後の話だ。誰も本気にしなかったし、あんたも聞き流した。――今度は、酒の話じゃない。州ひとつだ」
曹操は、答えなかった。
答える代わりに、目だけを、門の内に並ぶ、自分の兵のほうへ動かした。二年前に率いていたのは、五千だった。いまも、たいして増えていない。
「兵の数の話をしているんじゃないと、あのときも言った」
鮑信は、そう言って、肩ごしに、自分の連れてきた兵のほうを示した。
済北の兵は、ひどく地味な一隊だった。鎧の飾りも、旗の色も、揃って質素で、将らしい格好をした者が、一人もいない。
「あんたのところは、将も兵も、同じ鎧か」
「戦場で、将だけ目立つ格好をして、何の得がある。目立てば、狙われる。狙われて死ねば、兵が困る」
鮑信は、当たり前のことのように言った。
その後ろで、百人ばかりを率いているという隊長が、一度だけ口を開いた。于禁といった。
「賊は、朝と夕とで、陣の形が変わります。人が動くのではなく、村ごと動くからです。夜、火の数を数えても、意味がありません」
言うだけ言って、あとは黙った。曹操は、その名を、頭の隅に留めた。
こうして曹操は、東郡の一郡から、兗州一州を預かる身になった。
剣で取った郡と、舌と紙とで渡された州と。二つは、手触りが、まるで違った。
その夜、曹操は、灯の下で、万潜の箱を開けた。
帳面には、県の名と、戸の数が、細かい字で並んでいた。書かれているのは、税を納める者たちだ。いま州の野を埋めている百万は、この帳面のどこにも載っていない。載らなくなった者たちが、載っている者たちの田を踏み荒らしながら、西へ進んでいた。
曹操は、地図の、寿張という県の名の上に、指を置いた。




