第2話:東郡
――初平二年(一九一年)、東郡。
曹操は、ようやく、自分の手で取れる土地の前に立っていた。
黒山賊という、山に拠る賊の群れが、魏郡から東郡へと、十余万でなだれ込んでいた。黄巾の乱の生き残りが、山に逃げ込み、賊となって膨れ上がった者たちだ。その頭の白繞が、東郡の県を次々に襲っていた。東郡の太守は、これを防げず、ただ城に籠もっていた。
曹操は、手元の兵を率いて、東郡へ入った。
十余万という数を、曹操は、目で数える気は無かった。
代わりに、日で数えさせた。斥候に、群れの先頭が県境の村へ入ってから、しんがりが通り過ぎるまでを、見させたのである。先頭が村の西へ入ったのは、朝だった。しんがりが東へ抜けたのは、日の傾く頃だった。丸一日、道が塞がっている。十余万という数は、目には、そういう形で見えた。
通り過ぎたあとの県を、曹操は、馬で抜けた。
蔵の戸は、蝶番ごと外されていた。臼が、ひっくり返っている。土間には、煮炊きの跡が、いくつも残っていた。鍋を置いていったのではない。担いでいく余裕が、無かったのだろう。柱に、まだ実の入らぬ穂が、少しだけ引っかかっていた。田を、刈るのではなく、むしっていったのだ。
人は、いなかった。
殺されたのではなく、逃げたのである。南へ抜ける道の土に、新しい足跡が、幾重にも重なっていた。子どもの、小さな足跡も混じっている。その先の県は、すでに門を閉じているという。門が開かなければ、外に溜まるほかない。
曹操は、その道の口で、しばらく馬を止めた。
止めたまま、何も言わなかった。やがて手綱を返し、来た道のほうへ戻った。
群れの正体も、じきに分かった。
山で、冬を越しきれなかった者たちだった。雪の消えるのを待って、下りてきたのだ。荷車は、ほとんど無い。山では、車で運ぶほどの物を、持てないからである。持っているのは、鍬と、鎌と、どこかの武器庫から奪った刀と、飢えだった。県に入り、蔵を破り、その場で煮て、食えるだけ食う。食い終われば、次の県へ動く。備えの無い県は、半日で裸になった。
白繞というのは、その群れの、いちばん大きな束の名にすぎなかった。
束は、いくつもあった。互いに、命じ合ってはいない。ただ、食い物のあるほうへ、同じ向きに流れているだけだった。軍ではない。だが、軍より、始末が悪かった。潰そうにも、そこに、頭が無い。
曹操は、城に籠もらなかった。
籠もれば、群れは素通りして、東の県を食う。それに、籠もる城は、曹操の城ではない。中には、防げなかった太守がいる。曹操の兵は、五千に足りなかった。この五千を、どこに置くか。それだけが、この戦の中身だった。
選んだのは、濮陽の西だった。
河の流れが変わったあとに残された、古い堤がある。
人の背丈より高く、上には柳が生えていた。堤は、群れの来る道と、ゆるく並んで、二里ばかり続いている。曹操は、そこへ、歩兵を伏せさせた。騎は四百ばかり、堤の切れたところの、柳の陰に置いた。
日が高くなる頃、道の西の端に、埃が立った。
曹操は、堤の上の草に、腹ばいになっていた。
土は、まだ湿っていた。肘の下で、去年の枯れ草が折れた。すぐ横で、若い兵が、息を詰めすぎて震えていた。曹操は、その肩に手を置いて、そのまま、待った。
先に、刀を持った男たちが通った。
次に、鍬を担いだ者が通った。そのうしろに、掠めた穀を積んだ荷車の列が、細く長く続いていた。荷車のあたりで、道は、いちばん細くなる。曹操は、その列が、目の下に来るまで、待った。
待って、立ち上がった。
「荷を突け。人は、追うな」
堤の上に、伏せていた兵が、いっせいに立った。
賊が、それを見上げた。見上げてから、声が上がるまでに、間があった。堤の上の兵は、下りずに、まず射た。矢は、人ではなく、荷車の牛に当たった。牛が暴れ、車が横倒しになり、破れた麻袋から、穀が道に散った。
散った穀を見て、列が、割れた。
前を歩いていた者が、うしろへ戻りはじめたのである。飢えた者は、こぼれた食い物のほうへ、寄る。頭を叩けば、群れは前へ逃げる。だが、荷を叩けば、群れは、自分の中へ、折り重なる。
そこへ、柳の陰の騎を、入れた。
四百である。十余万の中へ入れば、影も残らぬ数だった。
だが、押し合って詰まった列に、横から棒を差し込めば、列は、その一点で折れる。折れたところから、うしろの者が、道の外の田へ、逃げ出した。逃げ出す者が、まだ進もうとする者を、押し返した。押し返された者も、走りだした。
曹操も、堤を駆け下りた。
馬の脚が、道端の麻袋を蹴散らした。目の前を、鍬を担いだ男が、担いだまま走っていった。斬るまでもなかった。あの男は、もう、こちらを見てもいない。
白繞の旗が、どこにあったのかは、最後まで分からなかった。
旗らしいものは、いくつも立っていた。どれも、県の役所から奪った布を、竿に結んだだけのものだった。頭を討ち取る戦には、ならなかった。頭が見えなくなった、というだけで、群れは、崩れた。
半日で、道が、空いた。
空いた道に、倒れた荷車と、牛と、こぼれた穀と、動かなくなった者とが、残った。逃げた背は、田を突っ切って、西の丘のほうへ散っていく。まだ、いくらでも見えていた。
隊長の一人が、馬を寄せてきた。息が上がっていた。
「追わせてください。いまなら、日の暮れるまで、いくらでも追えます。あれだけ散っていれば、こちらの損は、ほとんど出ません」
曹操は、首を横に振った。
振ってから、顎で、自分の兵のほうを指した。堤を駆け下り、道を突き、田へ入りかけた兵たちは、すでに、隊の形を失っていた。追えば、もっと散る。散った兵は、日が暮れれば、帰り道の村へ入る。入れば、蔵を破る。賊のやったことを、そっくり同じ手つきで、やる。
隊長は、指された先を見て、口をつぐんだ。
それに、追って斬れる数は、たかが知れていた。
二里追って、百を斬る。残りの十万は、明日も、どこかの県で、蔵を破っている。この五千を、丸のまま、次の県へ運ぶことのほうが、今日斬る百よりも、重かった。
曹操は、倒れた荷車のほうへ、馬を向けた。
散った穀を、集めさせた。破れた麻袋を繕わせ、生き残った牛に積み直させ、轅の折れていない車を選ばせた。焼け、とは言わなかった。焼くための薪を抱えかけていた兵が、途中で、手を止めた。
隊長が、馬の上から、その手つきを見ていた。
「……返すのですか」
曹操は、答えなかった。
答える代わりに、集まった車の列の頭を、賊の下りてきた道のほうへ、向け直させた。列は、来た道を、逆に上っていった。運び込まれた先は、この夏、蔵を破られた県の門の前だった。門は、しばらく開かなかった。開いてから、県の吏が出てきて、車の数を、二度、数え直した。
隊長は、腑に落ちぬ顔のまま、その後ろに立っていた。
曹操は、そのまま、東郡の県を、一つずつ取り返していった。
その働きを、袁紹が、朝廷に取り次いだ。
曹操を、東郡の太守に。――こうして曹操は、一郡を預かる身になった。
冀州から来た使いが、印を置いていった。
銅の印と、それを結ぶ組み紐である。手のひらに載るほどの、小さなものだった。曹操は、しばらくそれを転がしてから、腰に結んだ。
ただ、曹操は、それを喜びきらなかった。
この太守の位は、袁紹が取り次いで得たものだ。つまり、自分はまだ、袁紹の名の下にいる。袁紹が立てた将の一人として、東郡を預かっている。冬の河内で見た、あの版図を語る男の、版図の一隅を、いま自分が守っている。いつか、その下から出る。だが、今はまだ、その時ではない。
黒山賊の頭は、白繞ひとりではなかった。
山には、まだ于毒ら、別の頭がいる。そして、その黒山の賊すべてを束ねる頭が、張燕という男だった。百万を号し、山々にまたがって、朝廷からは平難中郎将の号さえ受けている。賊でありながら、官の名を持つ。曹操は、その名を、頭の隅に留めた。山に拠る、束ねきれぬほどの、土を失った民。それを束ねる張燕という男。いつか、向き合うことになるかもしれなかった。
郡の役所は、東武陽に置かれていた。
曹操は、その城壁の上に立って、自分の手にした土地を見た。
帝が与えた地ではない。宦官の縁でも、名門の名望でもない。賊を斬って、自分の手で取った地だった。済南の相は、上から預けられて、上の恨みで追われた。だが、この東郡は違う。ここは、自分の兵で守り、自分の差配で治める、初めての土地だった。
風が、河のほうから吹いてきた。
壁の下には、刈り跡の田が、地の果てまで続いている。田を仕切るあぜだけが、細い線になって、残っていた。
石段を、上がってくる足音がした。
荀彧だった。小脇に、帳面を挟んでいる。曹操の隣に並ぶと、同じ壁に手を置いた。曹操が見ていたのは、西だった。賊の下りてきた方角である。荀彧が見ていたのは、壁の裾から始まる、田だった。
曹操は、西の尾根を、指で示した。
峰と峰のあいだが、一箇所だけ、切れ落ちている。次に下りてくるなら、そこからだった。切れ目から先に、道は一本しかない。指は、その一本をなぞって、河の渡し場のあたりで止まった。渡し場を押さえ、堤に兵を置けば、この夏と同じ手が、もう一度使える。
指を下ろしても、荀彧は、そちらを見なかった。
「その頃までに、麦を蒔き終えたいのです」
曹操は、隣を見た。
賊の話をしていたつもりだった。荀彧は、まだ、下の田を見ている。
「同じ話をしております」
荀彧は、帳面を開いた。
県ごとに、戸の数が、細かい字で並んでいる。その横に、朱で、短い線が引かれていた。線の引かれた県が、この夏、蔵を破られた県だった。
「賊が山から下りてくる、と人は言います。ですが、順序は、逆です。田を捨てた者が、山へ上がるのです。この秋に蒔く種の無い家は、来年の春、山にいます。于毒の下に、その名で。――ですから、あの穀を焼かずに返されたのは、こちらにとって、幸いでした。返された穀を、食う分と、蒔く分とに、いま分けさせてください。蒔く分まで食ってしまった家には、郡から貸します。秋のうちに蒔ければ、その家は、山へ上がりません」
「何戸ぶんだ」
「三千戸ほど。郡の蔵では、足りません。足りない分は、この郡の大きな家から借ります。借りれば、貸した家は、この郡が続くことを、望むようになります。――それに、穀を返された県は、覚えております。次にこの旗が門の外に立ったとき、閂を外すのは、その県です」
曹操は、笑った。
貸したほうが、縛られる。返したほうが、門を開ける。この男は、そういう順序で、人を数えていた。県の名も、戸の数も、蔵の桝目も、その順序に並べ替えるために、帳面に書き取られているのだった。
曹操は、壁から手を離した。
離して、荀彧のほうへ、向き直った。
「文若。明日から、あなたが司馬だ」
軍の帳面と、人の割り振りとを、まとめて預かる役である。曹操が兵を出しているあいだ、郡のことは、この男が決めることになる。
「承知しました。一つ、お願いがあります。次に賊を破ったときも、穀を焼かずに、返していただきたい」
曹操は、眉を上げた。
今日、そう命じたばかりだった。荀彧は、それを見て、首を横に振った。
「今日は、そうなさいました。急いでいるときに、同じことができるかどうかを、伺っております」
曹操は、答えなかった。
答える代わりに、また、西を見た。日が、尾根の向こうへ落ちかけている。
壁の下の田のあちこちに、細い煙が、いくつか立ちはじめていた。逃げていた家が、戻ってきて、火を焚いているのだった。荀彧は、その煙を、一つずつ数えているようだった。
曹操は、その数を、聞かなかった。
聞かなくても、この男は、明日には、それを帳面に書き込んでいる。曹操が数えるべきものは、別にあった。西の尾根の切れ目までの道のりと、そこを塞ぐのに要る兵の数である。二人は、同じ壁の上で、しばらく、別々のものを数えていた。




