第1話:郿塢
――初平二年(一九一年)、長安。
都が、西へ動いた。
董卓は、孫堅に洛陽の周りを脅かされると、天子を抱えて長安へ退いた。そして長安の西に、郿塢という城を築いた。城壁は長安のそれと同じ高さで、中には三十年分の穀物を積み上げたという。世が乱れて天下を取れば、それで天下を制する。取れなくとも、ここに籠もって一生を終える。董卓は、そう言って笑ったと聞いた。
呂布は、その董卓のそばにいた。
養子の契りを結び、護衛として、いつも董卓の後ろに立っていた。当代に並ぶ者のない武で、董卓を守る。それが呂布の役目だった。董卓は、呂布を自分の身代わりの盾と頼み、呂布もまた、董卓の威を借りて都に肩で風を切っていた。
だが、父と子の契りは、薄かった。
呂布が、董卓のもとへ来た道筋を、思えば、いつも胸の隅に残っていた。
呂布は、もとは并州の出で、刺史の丁原に仕えていた。丁原は、呂布を我が子のように可愛がり、主簿という、手元の文書を預かる近しい役に就けていた。その丁原を、呂布は、自分の手で斬った。董卓が都に入ったとき、呂布の武を欲しがり、金を贈り、位を約して誘ったのだ。呂布は、それになびいた。可愛がってくれた主の首を落とし、その首を手土産にして、董卓のもとへ来た。そうして、二人目の父を得た。
一人目の父を、欲のために殺した男が、二人目の父に仕えている。その二人目の父は、機嫌ひとつで、我が子に戟を投げる。
ある日、董卓が、些細なことで、かっとなった。
手近にあった戟を掴むと、いきなり呂布へ投げつけた。呂布は、身をひねってかわした。柄が壁に当たって、乾いた音を立てた。呂布は、すぐに膝をついて詫びた。董卓は、それで機嫌を直した。何事もなかったように、また酒を飲み始めた。
呂布は、頭を下げたまま、董卓の太った背中を見ていた。
いま、この男は、自分を殺そうとした。たまたまかわせたから、生きている。かわせなければ、戟は首に刺さっていた。父が、子に物を投げるか。投げた手を、すぐ忘れて酒を飲むのが、父か。呂布の中で、何かが冷えていった。
呂布には、もう一つ、隠していることがあった。
董卓の侍女の一人と、通じていた。露見すれば、ただでは済まない。あの短気な男が、戟ひとつで済ませるはずがない。呂布は、強かった。誰よりも強かった。その強い体の内側で、いつも、見つかることを恐れていた。
司徒の王允が、呂布に近づいてきたのは、その頃だった。
司徒とは、三公の一つ、宰相格の高い位だ。王允は、表向きは董卓に丁寧に仕えていた。その王允が、呂布と同じ并州の生まれだという縁を、丁寧に手繰り寄せてきた。何度か酒を酌み交わし、世間話を重ね、それから、声を低くして言った。
「君は、董卓に物を投げつけられたそうだな」
「……古い話です」
「古くはない。次は、かわせるとは限らん」
呂布は、答えなかった。
王允は、続けた。
「君は呂氏、董卓は董氏。もともと、血のつながりなど無い。父子の契りといっても、紙の上のことだ。いま君を殺そうと戟を投げた男の、どこが父か」
「……私は、董公の護衛だ」
「護衛が、主君に怯えて暮らすのか。君ほどの武を持ちながら」
呂布は、長いこと黙っていた。
強い男だった。誰も、呂布の武に正面から敵わなかった。その男が、太った主君の機嫌一つに、いつも怯えている。王允の言葉は、呂布の体の内側の、あの冷えた一点を、まっすぐ突いてきた。
また、父を斬るのか。
胸の隅で、丁原の顔が、一度だけ浮かんで、消えた。呂布は、うなずいた。
王允は、声をさらに落とした。近く、天子の病が癒えたのを祝って、宮中に大きな集まりがある。その日に、と囁いた。
外では、郿塢の方角に、夕日が落ちていた。三十年分の穀を抱えた城が、赤く染まっていた。




