第7話:峴山
――初平三年(一九二年)、荊州襄陽。
盟が溶けたあと、孫堅は、袁術の下へ戻った。
程普も、その後ろに従った。伝国璽を得ても、孫堅の立場は、変わらなかった。相変わらず、四世三公の名門・袁術の、いちばん鋭い刃として使われる身だった。洛陽で一番乗りを果たし、璽まで手にした男が、それでも、自分の土地を持たぬ一将のままだった。低い家から起った者は、どれほど働いても、名門の道具の枠を、出られなかった。
その袁術が、こんどは、南の荊州を欲した。
荊州には、劉表がいた。宗室の名分と、荊州の大族との合作で、豊かな一州を、静かに治めている男だ。袁術は、その荊州を、力ずくで奪おうとした。そして、その先鋒に、また、孫堅を立てた。
孫堅は、漢水を渡り、劉表の将・黄祖を、たちまち打ち破った。
勢いのまま、襄陽の城を囲んだ。黄祖は、城を出て野で戦い、また敗れ、峴山のほうへ逃げ込んだ。孫堅は、その逃げる黄祖を、追った。
程普には、いやな予感があった。
孫堅の追い方は、いつもの追い方だった。宛の城壁を誰よりも先に登り、区星の一万へ手勢だけで突き入った、あの追い方だ。勝ちが見えると、孫堅は、誰よりも前へ出る。供の整うのを待たず、軽い身なりで、獲物を追って駆ける。御せぬ武とは、勝ちの匂いを嗅いだとき、いちばん御せなくなる武だった。
峴山は、木の深い山だった。
孫堅は、わずかな供だけを連れて、その木立の中へ、黄祖を追って馬を乗り入れた。程普が止める間もなかった。
木立の中に、黄祖の兵が、伏せていた。
逃げると見せて、山の木々の間に、射手を潜ませていたのだ。孫堅の姿が、木の下に入った、その一瞬だった。四方の木陰から、矢と、投げ落とされる石とが、雨のように降った。
孫堅は、馬の上から、崩れ落ちた。
程普が駆けつけたときには、もう、遅かった。木漏れ日の下に、孫堅が、倒れていた。あちこちから射込まれた矢が、その体に立っていた。低い家に生まれ、刀ひとつで侯にまで上がった男が、名も知らぬ伏兵の矢で、木立の中に、あっけなく事切れていた。まだ、四十にもならぬ歳だった。
程普は、その傍らに、膝をついた。
下邳の県庁の前で、顔を覗き込まれ、手を見られ、名を呼ばれた。あの日から、この男に付いてきた。理屈は、何もなかった。ただ、この男の御せぬ武に、惹かれた。その御せぬ武が、いま、御しきれぬまま、木立の中で止まっていた。
賊が消えても、その軍は残る――程普は、いつか自分がそう思ったことを、思い出した。
賊を討つ武は、賊が消えても消えない。だが、その武を持つ当の男は、こんなにも呆気なく、消える。残るのは、軍と、遺された者だけだ。孫堅の御せぬ武は、ついに、誰にも御されぬまま、勝ちを追う途中で、自分から死地へ駆け込んで、終わった。
孫堅には、二人の息子がいた。
長子の孫策は、まだ十七だった。父の亡骸を引き取り、故郷に近い地へ葬ると、孫策は、涙を拭いて、袁術のもとへ、頭を下げに行った。父の遺した兵を返してもらい、父の得た伝国璽を懐に、もう一度、袁術の下から、始めるために。
程普は、その若い背を見た。
父によく似た、明るい目をしていた。だが、父の武を、そのまま継いだだけの子なら、父と同じように、勝ちを追って、どこかの木立で死ぬだろう。この子は、どうか。程普は、亡き主の御せぬ武を看取った目で、その息子の背を、見つめた。
孫堅の刀は、峴山の木立に、置いてきた。
だが、孫堅の兵は、残った。程普も、残った。残った者たちは、まだ十七の、父譲りの明るい目をした若者の後ろに、もう一度、並び直した。低い家から起った家の武は、父から子へ、御せぬまま、受け継がれていく。
第一章 溶けた盟 ――完。




