第5話:洛陽
――初平二年(一九一年)、洛陽。
陽人で勝った孫堅のもとへ、南陽から、報せが来た。
袁術が、兵糧を止めた、というのだ。
約束では、袁術が後方で兵糧を送り、孫堅が前線で戦う。その兵糧が、来なくなった。誰かが袁術に吹き込んだのだ。孫堅は猛将だ、もし洛陽を抜き董卓を討てば、次は虎を放ったようなもの、抑えが利かなくなる。董卓という狼を除いて、孫堅という虎を養うことになりますぞ、と。
兵は、たちまち飢えた。前線で勝ち続ける軍が、後ろから干上がらされた。
孫堅は、馬に乗った。
百里あまりを、一夜で駆け戻った。魯陽の袁術の陣に乗りつけ、地に図を描いた。程普は、その後ろに立っていた。
「私が、身を捨てて矢の中へ飛び込んでいくのは、上は国家のため、下は将軍の家の恨みを晴らすためです。私と董卓のあいだに、骨肉の恨みがあるわけではない。それを将軍は、人の告げ口を真に受けて、私を疑われる。兵糧を止めて、何をなさりたいのか」
袁術は、四代続けて三公を出した家の子だった。
立ち居も、物言いも、生まれの良さが滲んでいた。その袁術が、低い家から起った男に、地に図を描いて詰め寄られ、言葉を返せなかった。告げ口を真に受けたのは事実だった。孫堅の武を、内心、恐れていたのも事実だったろう。袁術は、ばつの悪そうな顔で、兵糧を送るよう命じ直した。
程普は、それを見ていた。
名門は、この武を使いたい。だが、使いきれないほどの武は、恐ろしい。使いたくて、恐ろしい。だから、前で勝たせておいて、後ろで干上がらせる。孫堅は、それを馬一頭で踏み潰した。今は、踏み潰せた。だが、いつまでも踏み潰せるだろうか。袁術の目の底に、消えない火が一つ、灯ったのを、程普は見た気がした。
兵糧を立て直した孫堅は、ついに洛陽へ入った。
都は、無かった。
董卓が焼いて、二百里にわたって、人の気配が絶えていた。宮殿は灰になり、役所は崩れ、暴かれた皇帝の墓が口を開けていた。天子の都が、骨だけになって横たわっていた。孫堅は、馬を下り、焼け残った宗廟の跡へ歩いた。崩れた土台の前に立ち、しばらく動かなかった。それから、兵に命じて、瓦礫を片づけさせ、祭壇を組み直させ、いけにえを供えて拝んだ。誰に命じられたのでもない。董卓が焼いた都の真ん中で、孫堅は一人、漢の宗廟を拝んだ。
兵が、城の南で、井戸を見つけた。
朝、その井戸の上に、五色の気が立ちのぼっていたという。兵が降りて探ると、底から、一つの小箱が上がった。中に、玉でできた印が入っていた。大きさは四寸四方、上には五匹の竜が彫られ、一つの角が欠けて、金で継いであった。文字が刻まれていた――受命于天、既寿永昌。天命を受け、永く栄えん、という意味だった。
伝国璽だった。
天子が、代々受け継ぐ印だ。これを持つ者が、天命を受けた証とされる。その印が、焼け落ちた都の井戸の底に、捨てられていた。董卓が天子を長安へさらっていく混乱の中で、誰かが井戸へ投げ込んだものらしかった。
程普は、孫堅がその印を手にするのを見た。
孫堅は、長いこと、それを手のひらの上で見ていた。顔は、何も語らなかった。喜びとも、畏れともつかない、奇妙に静かな顔だった。低い家から起った男の手のひらの上に、天子の印が乗っている。その絵を、程普は、長く見ていられなかった。
御せぬ武の手のひらに、天命の証が乗った。
その重みが、この男を、どこへ連れていくのか。井戸の上の五色の気は、もう消えていた。都は、ただ静かだった。勝ち続けた者の、栄光の真っただ中の、不吉なほどの静けさだった。




