第3話:梁東
――初平二年(一九一年)、豫州梁東。
南には、義の溶けるのを待たず、ひたすら北へ進む男がいた。
孫堅である。
程普は、その後ろにいた。低い家から起ち、刀ひとつで侯の位まで上がった男に、なぜ付くのか、理屈はいまだにない。下邳の県庁の前で顔を覗き込まれ、手を見られ、名を呼ばれた。それだけのことで付いて、もう何年になる。孫堅は今、南陽にいる袁術の下に身を寄せ、その推薦で破虜将軍を務め、豫州刺史を兼ねていた。袁術が兵糧を出し、孫堅が前線で戦う。そういう約束だった。
孫堅は、北へ向かった。董卓の本軍が、まだ洛陽の周りに残っている。それを突くつもりだった。
梁東で、徐栄に当たった。
滎陽で曹操を破ったのと、同じ将だ。だが孫堅は、そのことを知らなかったろう。孫堅は、ただ前へ出た。徐栄は、待っていた。
戦は、孫堅の負けだった。
徐栄の兵は、孫堅の隊を三方から囲んだ。寄せ集めではなかった、孫堅の兵は。だが、数で劣り、地の利で劣った。囲みは、じわりと縮んだ。程普は、馬上で刀を振るいながら、味方が崩れていくのを見た。孫堅は、なお前を向いていた。退こうとしない。城壁を誰の許しも待たずに一人で登った、あの時の目のまま、囲みの厚い方へ、馬を向けようとしていた。
ここで死なせるわけにはいかない。
程普は、孫堅の馬の手綱を掴んだ。数十騎で、囲みの薄い一角へ突っ込んだ。董卓の兵の槍を払い、味方の死体を踏み越え、囲みを破って逃げ道を切り開いた。
囲みを抜けても、追撃は止まなかった。
孫堅は、いつも赤い頭巾を被っていた。戦場でよく目立つ。董卓の騎兵は、その赤を目印に、執拗に追ってきた。赤い頭巾を追えば、孫堅がいる。
馬を並べて駆けながら、一人の将が、孫堅に並んだ。
祖茂だった。孫堅の、いちばん近くにいる将の一人だ。
「将軍。その頭巾を、私にください」
「何」
「赤を追っているのです、奴らは。赤が二つに分かれれば、半分は私を追う。その隙に、お逃げください」
孫堅は、すぐには渡さなかった。
馬を駆けさせたまま、祖茂の顔を見た。祖茂は、もう手を伸ばしていた。孫堅は、頭巾を解き、祖茂の手に押しつけた。何も言わなかった。言葉を交わす間も、なかった。
祖茂は、赤い頭巾を被り、馬の向きを別の方へ変えた。董卓の騎兵の半分が、赤を追って祖茂の方へ流れた。孫堅は、頭巾を脱いだ頭で、闇の中へ駆けた。程普は、その脇を駆けながら、一度だけ、後ろを振り返った。赤い頭巾が、追手に囲まれて、小さくなっていくのが見えた。
祖茂は、追い詰められると、馬を捨てた。墓地の中へ走り込み、焼け残った柱に頭巾を被せて、自分は草の中に伏せたという。董卓の兵は、柱の赤を遠巻きに射続け、近づいてみて、人でないと知って、去った。祖茂は、生き延びた。だが、それを程普が知ったのは、ずっと後のことだ。
その夜、孫堅は、生き延びた兵を集め、一人ずつ名を呼んだ。
負けても、それをやめなかった。死んだ者の名を呼び、生き残った者の肩を叩いた。下邳の列でやっていたのと、同じことを、敗走の果ての野営で、孫堅はしていた。
程普は、思った。この男は、勝っても負けても、同じ顔をしている。御せぬ武――誰にも抑えられない武というのは、こういうことかもしれなかった。負けて、なお折れない。折れないまま、また前へ出る。




