第1話:酸棗
――初平元年(一九〇年)、兗州酸棗。
壇は、一夜で築かれた。
酸棗の野に、土を盛って高い壇が組まれ、その上で、諸侯が天に誓いを立てるのだという。曹操は、列の端からそれを見上げていた。盟主は河内にいる袁紹、と決まっていた。四代のあいだ三公を出した家の当主であり、車騎将軍の号を自ら名乗っている。だが当の袁紹は、この壇には来ていない。河内に大軍を置いたまま、動かない。
壇の上で誓いの言葉を読み上げているのは、臧洪という、まだ若い広陵の役人だった。声がよく通った。漢の朝廷が衰え、賊である董卓が天子を脅かし、歴代の皇帝をまつる宗廟を傾けようとしている。我ら有志、義の兵を合わせ、力を尽くしてこれを討つ。心を一つにし、命を惜しまず――。
声を聞きながら、諸侯は涙を流していた。橋瑁も、劉岱も、張邈も、みな袖で顔を覆い、声を殺して泣いていた。
誓いが済むと、その晩から、酒宴が始まった。
曹操は、宴の端に座っていた。
奮武将軍を代行する、という肩書きだけはあった。兵は、五千に満たない。陳留で衛茲という男が自分の財産を投げ出して集めてくれた、寄せ集めだ。それを率いてこの酸棗まで来た。来てみれば、酸棗だけで十余万の兵が集まっている。橋瑁、劉岱、張邈、その弟の張超、袁紹のいとこにあたる山陽の袁遺、済北の鮑信――それぞれが数万の兵を抱え、野は天幕で埋まっていた。
これだけの兵が、一つも動かない。
董卓は、すでに洛陽を焼いた。この二月、関東で兵が起こったと聞くや、董卓は宮殿に火を放ち、歴代の皇帝の墓を暴き、天子を長安へ引き立てて移した。都が、焼かれたのだ。天子が、さらわれたのだ。その報せに、天下は震えた。誰もが、どこへ向かえばよいか分からずにいる。
曹操には、それが好機としか見えなかった。
杯が回ってきたとき、曹操は立った。
「正義の兵を挙げて、世を乱す董卓を討つと、我らは天に誓った。これだけの兵が、もう集まっている。何を、ためらうことがある」
宴の声が、少し低くなった。曹操は構わず続けた。
「考えてもみてほしい。もし董卓が、東で兵が起こったと聞いて、王室の重みに寄りかかり、洛陽の要害を頼んで腰を据えていたなら、たとえやり方が道に外れていようと、これは厄介だった。だが董卓は、宮殿を焼き、天子を引き連れて逃げた。天下は震え、行き場を失っている。これは、天が董卓を滅ぼそうとしている時だ。一戦で、天下は定まる。失ってはならない」
誰も、答えなかった。
劉岱が杯を干し、橋瑁が肉を裂いた。張邈は、気の毒そうな目で曹操を見て、それから目をそらした。みな、さっき壇の上で泣いていた顔のまま、動こうとしない。曹操は、その一人ひとりの顔を、声を出さずに見て回った。涙は、本物だったろう。董卓を憎む気持ちも、本物だったろう。だが、自分の兵を一兵でも欠けさせて天下のために使う気は、ここにいる誰にもない。義は、皆が持っている。義のために死ぬ者だけが、いない。
曹操は座った。何も言い返さなかった。腹の底のものは、顔に出さなかった。出したところで、この大軍は少しも動かない。
宴がはねたあと、一人の男が天幕を訪ねてきた。
済北の鮑信だった。歳は曹操と近い。酒の匂いをさせず、目だけが醒めていた。
「孟徳。あんたの言うことは正しい。ここにいる連中の中で、世の乱れを鎮めて立て直せるのは、あんただけだ」
「買いかぶりだ。私の兵は五千だぞ」
「兵の数の話をしているんじゃない。袁本初を見たか。盟主と仰がれて、河内から一歩も出てこない。あれは、董卓が憎いんじゃない。董卓のいなくなった後に、自分がどう振る舞うかを、もう考えているんだ」
曹操は、答えなかった。袁紹のことは、洛陽にいた頃から知っている。子どもの時分からの知り合いだ。あの男が何を考えているかは、言われずとも分かった。分かるからこそ、口にしなかった。
鮑信は、それ以上は言わず、帰っていった。
天幕の外で、十余万の兵の焚き火が、どこまでも続いていた。これだけの火が燃えていて、その火は、一つも前へ進まない。曹操は、灯を消した。消してからも、外の火は、朝まで、一つも動かなかった。




