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三国志 ―正史群像―  作者: ソリトん
第五章 呑まれた都

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第4話:去る者

 ――中平六年(一八九年)、潁川。


 潁川へ戻った荀彧は、すぐには、落ち着かなかった。

 郷里の家々を回り、年長の者、一族の主だった者を訪ねては、同じことを説いて回った。麦は、その荷を担ぎ、その後ろを歩いた。


「潁川は、四方に戦う地だ」


 荀彧は、集まった一族の前で、そう言った。


「天下に変が起これば、ここは、必ず、兵と兵がぶつかる地となる。洛陽にも近く、南北の道が交わる。守るに易い山も、退くに広い野も無い。早く、ここを去るべきだ。土地を捨て、家を畳んで、戦の及ばぬ地へ移るべきだ」


 集まった者たちは、黙って聞いた。だが、うなずく者は、少なかった。

 麦には、その気持ちが、痛いほど分かった。

 ここには、田がある。先祖の墓がある。生まれた家がある。隣には、何代も前から隣だった家がある。それを、捨てよ、と言われている。まだ来てもいない戦のために、いまある暮らしの、すべてを置いていけ、と。

 ひとりの老人が、ぽつりと言った。戦が来るかどうかも分からぬのに、墓を置いて、どこへ行けと言うのか。荀家の若いのは、都で学のつきすぎて、土のにおいを忘れたのではないか――そう言って、笑う者さえいた。

 荀彧は、言い返さなかった。ただ、深く頭を下げて、では、せめて用心だけは、と言って、その家を辞した。


 結局、荀彧に従って潁川を去ると決めたのは、荀家の宗族と、ごくわずかの者だけだった。

 もっとも、荀家の者が皆、この潁川に固まっていたわけではなかった。荀彧より年上の甥で、荀攸(じゅんゆう)という者は、早くから都に出て官に就き、この地にはいなかった。一つの家が、乱れていく世の、あちこちに分かれて根を下ろしている。荀彧が潁川を捨てるというのは、そのうちの一本が、南から北の冀州へ、まるごと植え替えられるということだった。

 麦は、出立の朝、荷車に荷を積みながら、留まる者たちを見ていた。彼らは、去る者たちを、見送りに出ていた。気をつけて、また会おう、と声をかけ合っていた。誰も、これが今生の別れになるとは、思っていなかった。麦も、思いたくなかった。

 だが、麦の胸の底には、洛陽で見た、あの涼州の兵の列が、消えずに残っていた。砂のにおいのする兵。賊が消えても消えぬ兵。あれが、いつか、この四方に開けた潁川の野を、馬の汗のにおいを連れて、踏みに来る。荀彧は、それを見ていた。麦には、まだ霧の向こうのようにしか見えなかったが、荀彧の目には、もう、はっきりと見えているのだった。


 荷車が、北へ向けて、動き出した。

 冀州のほうへ、と荀彧は言った。あちらに、一族を迎えると言ってくれる者がいる、と。麦には、その地のことは、何も分からなかった。ただ、北だ、ということだけが分かった。

 麦は、荷車の後ろを歩きながら、一度だけ、振り返った。

 潁川の野が、朝の光の中に、しずかに開けていた。麦が生まれ、土を耕し、荀家の麦を育ててきた地。麦という名は、その地の、たわわに実る穂から来ていた。その地が、後ろへ、ゆっくりと退いていった。

 麦は、前を向いた。

 荷車の先には、荀彧の背があった。荀彧は、振り返らなかった。まっすぐに、北を見ていた。

 土地は、置いていく。墓も、田も、生まれた家も。だが、荀家は、残る。家がある限り、麦には、担ぐべき荷があり、従うべき背があった。土に根を張る暮らしを捨てて、麦は、家とともに、根の無い旅へ出た。

 外から来た武が、都を呑んだ。その都から、根を張ろうとしていた者たちが、根を抜かれて、流れ出していく。麦も、その一滴だった。

 道の先で、何が待っているのか、麦は知らなかった。

 ただ、肩の荷の重みだけが、村にいた頃と、少しも変わらずに、そこにあった。



第五章 呑まれた都 ――完。



第一部 完。


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