第3話:軽き位
――中平六年(一八九年)、洛陽。
董卓が都に入って、ひと月もせぬうちに、帝が、挿げ替えられた。
麦が、それを知ったのは、やはり、水を汲む列の中でだった。
帝が、退けられたのだという。北芒で怯えていた年上のほうの帝――劉弁が、位を降ろされ、弘農王という名にされた。代わりに、あの九つの弟、陳留王が、新しい帝に立てられた。
董卓が、それを決めた。
ひとりの武人が、決めた。
麦には、それが、どういうことなのか、しばらく分からなかった。
村にいた頃、地主が、田を引く牛を見比べて、こちらは老いた、あちらは若い、と取り替えることがあった。弱った牛を退け、力のある牛を繋ぐ。麦の頭に浮かんだのは、その光景だった。だが、すぐに、それは違う、と思い直した。牛は、牛だ。取り替えてよい。だが、いま取り替えられたのは、世のいちばん上に座る、聖なる身ではなかったか。空のように遠く、誰も手を触れられぬはずのものではなかったか。
その遠いものを、馬の汗のにおいのする武人が、手を伸ばして、つかんで、取り替えた。怯えるほうを下ろし、よく喋るほうを上げた。まるで、牛を見比べるように。
帝とは、これほど軽いものだったか。
麦は、村にいた頃に空を見上げて感じていた重みと、いま目の前で起きていることの軽さとが、どうしても、ひとつにつながらなかった。重いと言われていたものほど、容易く動かされる。宦官のときも、そうだった。いまも、そうだった。
退けられた帝の母――何太后も、ほどなく死んだ。
殺されたのだ、と人は言った。誰がとは、みな、声をひそめるばかりで、はっきりとは口にしなかった。だが、誰の手かは、言わずとも知れていた。臨朝して、幼い帝に代わって政を執っていた女が、その兄の大将軍を宦官に殺され、いままた、自らも、外から来た武人の意のままに、消された。
麦は、何太后の顔を、見たことがなかった。それでも、ひとりの女が、いちばん上の近くまで昇って、そのいちばん上の軽さに巻き込まれて、消えていったのだということは、分かった。
董卓は、相国になった。
臣下のいちばん上、という位だと、荀彧が短く教えてくれた。それだけではない。董卓は、剣を帯び、履をはいたまま、帝の御前の殿上に上ることを許された。剣履上殿というのだ、と。
麦には、それの何が大事なのか、はじめは分からなかった。だが、荀彧の言い方で、分かった。
臣下は、帝の前に出るとき、刃を置き、履を脱ぐ。素手で、裸足で、身を低くして、聖なるものの前に出る。それが、ずっと守られてきた形だった。董卓は、その形を、踏み越えた。剣を提げ、履をはいたまま、人を斬る道具を腰にしたまま、いちばん上のもののすぐ前に、立った。
外から来た武が、聖なるものの上に、刃を提げて立っている。
麦は、北芒の話を思い出した。馬上から童を見比べた、あの武人。あれが、いま、剣を提げて殿上にいる。
その頃から、荀彧は、役所へ行かなくなった。
守宮令の役を、棄てたのだ、と麦は知った。荀彧は、それを、誰に告げるでもなく、騒ぐでもなく、ただ、静かに棄てた。
ある夜、荀彧は、わずかな荷をまとめながら、麦に言った。
「袁紹どのは、董卓と決裂して、都を出て、冀州のほうへ走られたそうだ。曹操どのも、名を変えて、ひとりで都を抜けられたと聞く」
荀彧の声は、低く、落ち着いていた。
「中央は、もう、空だ。誰のものでもない。いや――兵を握る者の、ものになった。今日は董卓の、明日は、董卓を斃した者の。ここに留まって仕えるべき漢の中央は、もう、無い」
麦は、荷を結ぶ荀彧の手を見ていた。
都に来たばかりの頃、荀彧は、この中央の底を、ひとつひとつ見て回るような目をしていた。売官の御苑も、宦官の専横も、天下を州ごとに切り売りする政も。荀彧は、それを、見極めようとしていた。そして、いま、見極め終えて、手を引こうとしている。
澄ませようとして、澄まなかった。荀彧は、そういう類の人ではなかった。荀彧は、澄まぬと見極めた水からは、静かに上がる人だった。
「麦」
荀彧が、手を止めて、麦を見た。
「潁川へ帰る。一族を連れて、ここを去る。お前も、来るか」
麦は、うなずいた。
考えるまでもなかった。麦には、荀家のほかに、行くところは無かった。だが、うなずいたあとで、麦は、ひとつだけ、胸の隅が痛むのを感じた。潁川へ帰る、と荀彧は言った。帰る。だが、その帰る先の潁川も、ずっとそこに居られる場所ではないのだ、ということを、このときの麦は、まだ知らなかった。




