第3話:網と引き金
――光和七年(一八四年)、潁川。
冬のあいだに、母が死んだ。
繕いかけの麦の衣を、膝に置いたままだった。麦は、それを着た。袖の縫い目は、途中で止まっていた。
春になると、黄色い布の男たちが、前にも増して村を回った。今度は、病を癒すだけではなかった。
東に、張角という者がいるという。
その下に、三十六の方という組があり、それぞれに何万という人がつながっている。青州、徐州、幽州、冀州――名も知らぬ遠い土地の名を、男たちは数え上げた。同じ黄色い布を巻いた者が、この国じゅうに、何十万といる。そう聞いて、村の者の目の色が変わった。
飢えても、納めるばかりだった者たちだ。自分が、何十万のうちの一人になれる。それは、護符の水よりも効いた。
隣の女が、まず布を巻いた。
残った子を失った女だ。麦の前に立って、しばらく顔を見てから、言った。
「一緒に、来い」
「……どこへ」
「来年ではない。もう、甲子の年だ。行けば、食える。行かねば、ここで死ぬ。お前の母も、そうやって死んだ」
麦は、首を振った。
なぜ振ったのか、自分でも分からなかった。ただ、丘の上の、あの情けの声が、どこかで引き止めた気がした。
女は、笑わなかった。前に護符の水を飲んだときのようには。ただ、布を巻き直して、東へ歩いていった。
その布が、急に意味を変えた日が来た。
洛陽で内応するはずだった馬元義という男が、捕らえられて裂かれた、という報せだった。同じ道の弟子の、唐周という者が、密告したのだという。
計画が露見した以上、待てば皆殺しにされる。東の張角は、約束の日を待たず、布を巻いて一斉に起った。
黄色い布は、もう病を癒す印ではなかった。頭に巻いて、官の蔵を破り、役人を殺して回る印になった。人はそれを、黄巾と呼んだ。
報せは、潁川にも届いた。
近くの郡が焼けている。役所が破られ、太守が逃げた。麦の村からも、布を巻いた者が、続けて出ていった。畑には、誰も残らなくなった。
麦は、荀家の畑の畦に立って、東の空を見ていた。煙が、一本、また一本と立ちはじめていた。世が改まる、と道士は言った。改まるというのは、こういうことなのか。麦には、まだ分からなかった。




