第7話:呑まれる前に
――中平六年(一八九年)八月、洛陽。
袁紹と、弟の袁術が、兵を率いて宮中へ攻め入った。
大将軍を殺された、その仇を討つという名目だった。だが、それは、もはや仇討ちではなかった。
兵は、宦官と見れば、片端から斬った。逃げる者を追い、伏す者を引き出し、その日のうちに、二千を超える宦官が殺された。袁術は、南の宮の門に火を放った。袁紹は、北の宮の門を閉ざし、中に逃げ込んだ者を、一人残らず狩った。髭のない男というだけで、宦官と疑われて斬られた者もいた。宮中は、血と、悲鳴と、煙で満ちた。
曹操は、その修羅を、近くで見ていた。
大路の角で、一人の男が、引き倒されるのを、曹操は見た。
三十がらみの、痩せた男だった。髭が、なかった。それだけの理由で、兵に襟を掴まれ、膝を地につかされていた。
「違う。私は、違う」
「髭が無い」
「宮の門で、薪を数える役だ。門の外だ。奥へは、一度も入ったことがない」
「帳面に、名がある」
兵は、それ以上は聞かなかった。聞く耳を持つ者は、この夜、都のどこにも、いなかった。
男は、叫ぶのを、やめた。
やめて、震える手で、みずから、袴の紐を解いた。地に膝をついたまま、大路の真ん中で、下帯まで、外した。そして、そこを、掲げるように、兵のほうへ、突き出した。
兵が、覗き込んだ。
しばらくして、行け、と顎で示した。男は、袴を抱えたまま、四つん這いで、路地の暗がりへ入っていった。立ち上がろうとして、幾度か、転んだ。
曹操は、その一部始終を、馬上から、見ていた。
助かった、と思った。次に、助かったとは何だ、と思った。あの男は、今日、宮の門で薪を数えていた。それだけの男である。その男が、生き延びるために、大路の真ん中で、己の股を、他人に検めさせた。検めた側も、検められた側も、明日には、そのことを、覚えていないだろう。都の帳面にも、載るまい。
二千という数だけが、後の世に、残る。
残らぬほうの一人が、いま、路地の暗がりで、袴を穿き直している。曹操は、目を、逸らさなかった。逸らさずに、次の角へ、馬を進めた。
宦官を除く、という一事のために、どれだけの刃が振るわれたか。
元凶の一人を、一人の獄吏に引き渡せば足りたはずのものが、いま、宮城を焼く火になっていた。罪の有る無しは、もう、誰も問うていなかった。宦官の顔をしている、というだけで、殺された。袁紹は、その火の中を、剣を提げて歩いていた。名門の貴公子の顔に、ためらいはなかった。
曹操は、その横顔から、目を離さなかった。
この男は、正しさを、勢いで押し切る。勝っているあいだは、それでよい。皆を引き連れて、いちばん速い道を行く。だが、いつか、その勢いが通じない壁にぶつかったとき――この男は、どうするのか。答えは、まだ、どこにも無かった。やがて袁紹の背が、火の向こうへ消えた。消えてからも、曹操は、しばらく、そちらを見ていた。
血煙の中から、宦官の幾人かが、逃れ出ていた。
張譲らである。彼らは、最後の楯として、幼い帝と、その弟の陳留王とを連れ出していた。聖なる身を抱えて、夜の中を、北の、北芒という山のほうへ、落ちていった。
帝が、都を出た。
宦官を除こうとした火が、帝そのものを、宮城の外へ吐き出していた。武を持たぬ宦官が、最後に握っていた奥の戸――その戸の向こうから、聖なる身を抱えて、夜の山へ逃げた。いちばん弱い者が、いちばん重いものを抱えて、逃げていた。
そして、その帝の落ちていく先、都の西からは、招かれた外兵が、いままさに近づいていた。
涼州の、軍を手放さぬ男の軍が。
曹操は、まだ洛陽にいた。
逃げる帝も、近づく外兵も、止める術はなかった。二月前、自分が見たとおりの敗けが、いま、ちょうどこの形で、都に降りてこようとしていた。火は、招かれて、来た。
曹操は、燃える宮城を、最後に一度だけ振り返った。
ここには、もう、留まる意味はなかった。中央は、間もなく、いちばん強い兵を持つ者のものになる。その下で、宦官の孫と侮られながら校尉を続けるか。それとも――。
曹操は、踵を返した。いずれ名を変えてでも、ここを出る。自分の兵を持てる地へ。誰の身内でもない自分が立てる場所は、この燃える都の中には、もう無かった。
第四章 招いた火 ――完。




