第6話:八月
――中平六年(一八九年)八月、洛陽。
妹から、使いが来た。
何進は、その口上を、二度、聞き直させた。太后が、お会いになりたいと仰せです。奥へ、お越しくださいませ。それだけだった。
いつものことだった。この幾月、何進は、妹の簾の前へ、幾度も通った。通って、宦官を除けと説き、そのたびに、なりませぬ、と退けられてきた。今日も、同じだろう。同じであることが、何進には、少しも、苦ではなかった。
止められている、と何進は思う。
止められているあいだは、決めずに済む。二千からの首を、この手で落とすと決めれば、その恨みは、みな、己に来る。妹が止めるなら、止められた形で、済む。何進は、その形の内側に、長いこと、座っていた。
支度をしていると、袁紹が、来た。
「なりませぬ」
と、袁紹は言った。
「宦官の誘いに、丸腰で奥へお入りになるなど、なりませぬ。あれらは、追い詰められております。追い詰められた者が、最後に握っているのは、その奥の戸ひとつです」
「妹が、呼んでおる」
「太后の名を、借りたのです」
「借りられぬ。あれは、わしの妹だ」
何進は、笑った。
笑って、袖を払った。この貴公子は、四代続けて三公を出した家の子である。生まれてこのかた、獣をさばいたことも、血の匂いのする土間に立ったことも、あるまい。
「わしは、天下の兵を握る大将軍だ。宦官ごときに、何ができる」
袁紹は、答えなかった。
答えずに、門のところまで、ついてきた。何進は、それも、笑って、振り切った。
宮中の奥は、涼しかった。
外の八月の熱が、石の廊で、切れていた。何進は、そのひんやりした床を、踏んだ。妹の住まう奥である。ここへ来るのは、何度目か。数えたことは、なかった。
通された部屋に、簾は、なかった。
何進が、そのことに気づいたとき、後ろで、戸が、閉まった。
振り返る前に、人の気配が、四方から、寄ってきた。衣ずれの音だった。いつも、戸の外でしていた音である。呼べば来る。呼ばなくても、いる。その音が、いま、部屋の内側に、あった。
張譲が、前へ、出てきた。
「大将軍。お前は、我らを、根こそぎ殺すつもりだったな」
何進は、答えなかった。
答える言葉が、すぐには、出てこなかった。除く、とは、幾度も言った。だが、決めては、いなかった。決めていなかったものを、決めていたと言われている。何進は、そのずれを、口にしようとして、うまく、言葉にできなかった。
「天下は、濁っておる。濁しているのは、我らばかりか。お前の家は、どうだ」
張譲は、続けた。
「南陽の、獣をさばく家だ。その家の娘が、後宮へ入り、皇子を産んだ。誰が、入れてやったと思う。誰が、宮の内で、引いてやったと思う。我らがいなければ、お前の家など、いまも、血のにおいのする土間で、肉を、量っておるわ」
何進は、そのとき、初めて、腹の底が、熱くなった。
違う、と言おうとした。妹が皇子を産んだのは、妹の器量だ。己が大将軍に昇ったのは、賊を討った功だ。そう言おうとして――言えなかった。
言えなかったのは、それが、嘘だからでは、なかった。
半分は、本当だったからだ。あの白い手をした者たちが、母の腕に玉の腕輪を置き、弟の袖に何かを握らせ、そうやって、この家を、宮の奥まで、引き上げた。何進は、それを、知っていた。知っていて、見ないことにしてきた。
見ないことにしてきたものが、いま、正面から、名指されていた。
何進は、腰へ、手をやった。
剣は、なかった。奥へ入るのに、剣は、置いてくる。素手で、履を脱いで、身を低くして、聖なるものの近くへ出る。それが、ずっと守られてきた形だった。何進は、その形を、守った。守ったことを、この期に及んで、悔いはしなかった。
ただ、一つだけ、腑に落ちたことが、あった。
わしは、この戸の向こうを、知らなかった。
外の兵は、数えられた。旗も、糧も、数えられた。数えられるものは、何もかも、この手にあった。だが、この、涼しい石の廊の奥に、何があるのかを、ついに、一度も、数えなかった。
白い手が、伸びてきた。
肩を、押さえられた。思ったよりも、力があった。何進は、抗おうとした。獣を押さえる手を、この身は、覚えている。子どものころ、父の土間で、幾度も、押さえた。押さえられる側に回ったのは、初めてだった。
刃が、首の後ろに、当たった。
最後に浮かんだのは、妹の顔だった。簾の向こうで、長く黙っていた、あの黙りである。あれは、止めていたのでは、なかったのかもしれぬ。止められたがっている己を、あれは、見ていたのかもしれぬ。
それを確かめる前に、何進の見ていたものは、断たれた。
その首が、宮城の塀の外へ、投げ落とされた。
門の外には、何進の兵と、袁紹、袁術が、待っていた。大将軍は死んだ、お前たちの主は、もういない――塀の上から、宦官が、そう叫んだ。
門の外に、火がついた。




