第5話:近づく蹄
――中平六年(一八九年)、洛陽。
召された兵が、四方から都へ近づいてきた。
いちばん速かったのは、涼州の董卓だった。軍を率いて東へ進み、都にほど近いところまで来て、そこで動きを止めた。止めたまま、宮中の様子をうかがっていた。并州の丁原は、都の北の渡し場に火を放った。夜空が赤く染まり、その火は、洛陽の城壁の上からも見えた。宦官を誅せ、という威しの火だった。
陳琳は、府の楼の上から、その火を見た。
あの座で、自分が言ったことを、思い出した。外から兵を呼ぶのは、刀の柄を人に握らせて、自分は刃のほうを掴むようなものです、と。目をふさいで雀を捕まえるのと同じでございます、とも言った。座は、静かになった。静かになっただけだった。
言葉は、届かなかったのではない。届いて、通り過ぎた。
袁紹は、勢いづいた。
外の兵が近づくにつれ、袁紹は、何進に、次々と手を打たせた。洛陽の各所に兵を置き、宦官の身内を捕らえさせた。
そして、帳面を作らせた。
その帳面を書いたのは、陳琳である。
紙と、墨と、筆が、卓に用意された。
書けと言われたのは、名であった。宮中に仕える宦官の名を、一人残らず、位の高い者から順に書き出せ、という。
陳琳は、書いた。
張譲。趙忠。上のほうは、都の者なら誰でも知っている名である。書き進むうちに、筆は、じきに知らぬ名に入った。宮の門で薪を数える者。厠を掃く者。灯の油を継ぐ者。名簿を繰って、書き写すだけの仕事になった。
途中で、一度、手が止まった。
罪を書く欄が、無かった。
これまで陳琳が書いてきた上奏には、必ず、その欄があった。誰が、いつ、何をしたか。それを書いて、はじめて、人を裁く文になる。この帳面には、名と、位しか、無い。
陳琳は、傍らで待っている使いに、訊いた。
「この者たちの罪は、何と書きましょうか」
「罪は、要らぬ。名と、位だけでよい」
「それでは、裁きの文には、なりませぬが」
「裁くのではない。数えるのだ」
使いは、袁紹の府から来た者だった。
陳琳は、うなずいて、また筆を進めた。書かねば、別の者が書く。別の者が書けば、この帳面は、もっと雑になる。そう思うことにして、書いた。二千を超える名を、書いた。
宮中では、宦官たちが、息をひそめていた。
彼らには、兵が無い。外から来る武にも、宮城を囲む兵にも、太刀打ちできない。座していれば、帳面のとおりに、いずれ殺される。
追い詰められた者は、何をするか。
陳琳は、書き上げた帳面を封じながら、そのことを考えた。兵を持たぬ者が、最後に握っているもの。それは、宮中の奥――太后の住む、女と幼い帝のいる、その奥への、出入りの自由であった。武を持つ者は、そこへは、たやすく踏み込めない。聖なるものの住む奥は、刃の入らぬ場所とされてきた。だが、宦官は、その奥に、いつでも入れる。
いちばん弱い者が、いちばん奥の戸を握っている。
外から武が押し寄せ、内では迷う大将軍がいて、その奥に、追い詰められた者がいる。火種は、もう、揃っていた。
陳琳は、封じた帳面を、使いに渡した。
渡してから、しばらく、自分の手を見ていた。墨が、指の腹に残っていた。洗っても、その日は、落ちなかった。
外では、近づいてくる蹄の音が、夜のあいだじゅう、止まなかった。




