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三国志 ―正史群像―  作者: ソリトん
第四章 招いた火

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第2話:奥の借り

 ――中平六年(一八九年)、洛陽。


 拝礼の音は、いつも、戸の向こうから聞こえてきた。

 何太后は、その音を、簾の内で聞いていた。額を地につける音と、衣の擦れる音。それが、幾人ぶんも重なって、床を伝ってくる。天下でいちばん高いところに、いま、自分は座っている。座って、こうして、拝まれている。

 南陽の、獣をさばく家に生まれた娘が。

 幼い帝に代わって政を執る、という。

 だが、決めごとは、みな、文書になって届いた。尚書の役所を通り、士人たちの名が並び、最後に、何太后が、印を押す。押す前に、その中身を、誰かが噛み砕いて説明する。説明するのは、いつも、傍らの者たちだった。会ったこともない士人の名と、その名の下に並んだ理屈とを、間に立って、口移しにする者たちが。

 その傍らの者たちに、何太后は、借りがあった。


 何年前になるか。先帝の寵を分け合った女が、皇子を産んだ。

 王という姓の、美しい女だった。その女は、産んだのちに、死んだ。薬を、盛られたのだ。

 盛らせたのは、何太后である。

 先帝は、烈しく怒った。后を廃する、と言い出した。その怒りの前に、宦官たちが、そろって進み出た。額を地につけて、幾度も、幾度も、赦しを乞うた。あの者たちが床に伏しているあいだ、何太后は、簾の内で、息を殺していた。

 廃立は、沙汰やみになった。

 あの日、この身は、あの者たちの額に、救われた。そして、あの女の遺した皇子は、姑の手で育てられた。忘れようとしても、その子が、宮の中を歩いていた。

 その姑とも、最後まで、合わなかった。

 先帝が身罷ったあと、二人の太后が、奥に並んだ。姑は、あの女の子を推した。何太后は、我が子を立てた。並んだ二人は、初めのうちは、言葉を選んで話した。やがて、選ばなくなった。

 いちばん終いに、姑は、こう言った。


「お前が、いま威張っていられるのは、兄を頼りにしているからだろう。驃騎将軍に言いつければ、その兄の首など、すぐにでも、ここへ持って来させられるのだよ」


 何太后は、答えなかった。

 答えずに、その言葉を、そのまま、兄に伝えた。

 その先は、あっという間だった。姑の甥が死に、姑が宮を出され、帰る道の途中で亡くなるまでに、いくらも、かからなかった。

 奥の争いに、勝った。

 だが、勝ったのは、この身では、なかった。兄の兵が、勝った。姑の言った、そのとおりだった。いま威張っていられるのは、兄を頼りにしているからだ――あの捨て台詞だけが、当たっていた。


 その兄が、今日も、奥へ来た。

 簾を隔てて、大きな影が、座った。窮屈そうに、身を縮めていた。話は、いつもと同じだった。宦官を、根こそぎ、除く。


「あれらを、除かねばなりませぬ。今を措いて、機は、ありませぬ」


 兄の声には、力があった。

 だが、その力は、兄自身から出ているものではない、と何太后には分かった。誰かが、そう言えと、兄に言わせている。袁紹という名を、何太后は、幾度か聞いていた。四代続けて三公を出した家の子だという。


「なりませぬ」


 と、何太后は言った。


「宮中の奥を、あの者たちが取り仕切るのは、漢の家の、古くからの決まりです。今日、明日に、廃せるものではありませぬ。それに――先帝が、身罷られたばかりです。この身が、士人たちと、じかに顔を突き合わせて、政を執れとでも、言われるのですか」


 簾の向こうで、兄が、黙った。

 その黙りを、何太后は、聞いていた。長い黙りだった。怒って黙っているのではない、と分かった。

 兄は、止められている。

 止められて、困っている顔ではなかった。むしろ、逆だった。決めれば、兄が決めたことになる。二千からの首の恨みを、兄が負う。だが、妹に止められたのなら――兄は、決めずに、済む。

 この人は、私に、止められたがっている。

 何太后は、そう思った。思って、口には出さなかった。出せば、兄は、今度こそ、決めねばならなくなる。

 兄は、それ以上は言わずに、退がっていった。


 入れ替わりに、母と、弟が来た。

 母の腕には、見慣れぬ玉の腕輪があった。どこから来たものかは、訊かなくても分かった。弟の何苗(かびょう)が、母の後ろで、しきりに、同じことを言った。兄上は、昔を忘れている。この家が、ここまで来られたのは、あの者たちの口添えがあればこそだ、と。

 何太后は、母の腕輪を、見ていた。

 この家は、獣の血のにおいのする家だった。それが、宮の奥まで来た。来る道のどこにも、士人はいなかった。手を引いてくれたのは、いつも、あの、白い手をした者たちだった。

 母と弟が退がると、奥は、静かになった。

 戸の外で、衣ずれの音がした。あの者たちである。いつも、そこにいる。呼べば来る。呼ばなくても、いる。

 何太后は、簾の内で、目を閉じた。

 拝む音が、また、どこかで始まっていた。額を地につける音が、幾つも重なって、床を伝ってくる。その音は、大きかった。

 音の下で、決めねばならぬことは、何一つ、決まっていなかった。


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