第5話:西からの風
――中平六年(一八九年)、洛陽。
都に、いっとき、安堵が流れた。
西の陳倉の囲みが解け、王国の賊が散ったからだ。だが、その安堵は、長くは続かなかった。賊を討つために送られた董卓が、賊が散っても、涼州の荒い兵を抱えたまま、都にほど近い西に、居座りつづけていたからである。荀彧は、安堵しなかった。
その頃から、都の市に、見慣れぬ顔が増えた。
麦が荷を持って行くと、隣で銭を数えている男の言葉が、聞き取れないことがあった。西の言葉だという。日に灼けて、砂を含んだ声だった。買うのは、干した肉と、粟と、麻縄ばかりで、絹には手を伸ばさない。旅の商人ではない、と魚を売る老人が言った。あれは、兵の使いだ、と。
西の陣が、都で買い物をしている。
買っているのは、都に長くいるつもりの者が買うものだった。
麦が、それを宿で話すと、荀彧は、筆を置いた。
「孫堅という男が、長沙で郡の境を越えた、という話を聞いたか」
「いえ」
「賊を討つためなら、境を越えても咎められぬ。董卓も同じだ。賊がいるあいだは、兵を抱えていても、誰も咎められぬ。だが――」
荀彧は、そこで言葉を切った。
だが、賊がいなくなったら。麦は、前に荀彧が言ったことを、思い出した。境を越える者を、咎める者が、いなくなる。
帝の体は、目に見えて弱っている、と都ではもっぱらの噂だった。帝が崩れれば、その兵を、その州を、誰が握るかで、天下は割れる。割れ目の西の縁には、もう、軍を手放さぬ男が、一人、立っていた。
荀彧は、窓の外の、都の灯を見ていた。麦も、その横で、同じ灯を見た。灯はおびただしく、美しく、そして、その一つひとつの下で、何かが静かに切り売りされていた。麦には、その灯が、長社の夜に見た火と、どこか似て見えた。まだ燃えてはいない。けれど、いつ燃えてもおかしくない、乾いた灯だった。
第三章 切り売り ――完。




