第2話:別れ
――建安十三年(二〇八年)、南匈奴の地。
発つ日が、来た。
蔡琰は、旅の支度を整え、天幕の前に立った。南から来た使者の一行が、待っていた。空は高く、草原の風が、蔡琰の袖を吹き抜けた。あとは、馬に乗って、南へ向かうだけだった。漢の地へ。父の生きた、書と弦の世界へ。
そこへ、二人の子が、走ってきた。
上の子は、事の意味を半ば分かっていた。母が、遠い南へ行き、もう戻らぬことを。下の子は、まだ、幼かった。ただ、母が、見知らぬ男たちと、どこかへ行こうとしている、それだけが、分かった。下の子は、蔡琰の脚にしがみついた。そして、その首に腕を回して、離れなかった。
「母さま、どこへ行くの。いつ、帰ってくるの」
蔡琰は、答えられなかった。
いつ帰る、とは、言えなかった。もう帰らぬ、とも、言えなかった。子の腕は、蔡琰の首に、固く巻きついていた。その小さな体の重みと、温もりとが、蔡琰の体に押しつけられていた。この重みを、この温もりを、置いて行く。南の父の世界へ。
蔡琰は、父の死のときにも、泣かなかった娘だった。
嘆息ひとつで死んだ父を送ったときも、町が焼け、書が灰になったときも、蔡琰は、泣かなかった。弦は変わらず鳴る、と、己に言い聞かせて、涙を飲んだ。十二年、胡地の風にも、泣かずに耐えた。その蔡琰の目から、このとき、涙が、こぼれた。
首にすがる子の腕を、蔡琰は、自分の手で、ほどいた。
ほどかなければ、行けなかった。ほどく手が、震えた。子が、泣き叫んだ。母の名を、胡の言葉と、たどたどしい漢の言葉とで、代わる代わる呼んだ。蔡琰は、その声に背を向けた。振り返れば、もう、一歩も、進めなくなる。振り返らずに、馬に乗った。
馬が、南へ歩き出した。
背後で、子の泣く声が、いつまでも、追ってきた。そして、その声に混じって、誰かが吹く胡笳の音が、風に乗って、遠く、聞こえた。低く、かすれて、泣くような音だった。草原に置いていく二人の子と、十二年の日々のすべてが、その一本の笳の音の中に包まれて、蔡琰の背を追ってきた。
蔡琰は、南へ南へと、馬を進めた。
胸の中で、何かが、引き裂かれていた。漢へ帰る喜びと、子を捨てる痛みとが、同じ一つの胸の中で、互いを引きちぎり合っていた。帰るということが、これほど、身を裂くものだとは、知らなかった。胡笳の音が、聞こえなくなるまで、蔡琰は、一度も、振り返らなかった。




