第1話:贖い(あがない)
――建安十三年(二〇八年)、南匈奴の地。
蔡琰は、天幕の外で鳴る、胡笳の音を聞いていた。
胡笳は、葦を巻いて作る、北の民の笛である。羊を追う者が吹き、風の強い夜に吹き、人が死んだときにも吹いた。低く、かすれて、どこか泣くような音だった。この草原へ連れてこられて、もう十二年になる。初めのうちは、その音が、耳に馴染まなかった。いまは、そのかすれた響きが、体の芯にまで、染みていた。
蔡琰は、この地で、左賢王の妻になっていた。
左賢王は、南匈奴の王の一族で、この草原の一角を束ねる者だった。乱の年に、漢の地へ攻め入った胡の騎兵が、蔡琰を捕らえ、北へ連れ去った。父を亡くし、書を焼かれ、町を焼かれた娘は、そのまま、草原の天幕の中へ放り込まれた。そして、この左賢王の妻となり、二人の子を産んだ。
子どもたちは、胡の言葉を、母より先に覚えた。
草原を、馬で駆けるのが、うまかった。肌は、日に灼けて、蔡琰の肌より、濃かった。それでも、蔡琰が、低い声で漢の歌を口ずさむと、子らは、天幕の隅で、じっと聞き入った。父の弾いた琴の調べを、蔡琰は、子らのために、幾度も、歌ってやった。弦はもう、手元になかった。だから、声だけで、漢の音を伝えた。
その朝も、蔡琰は、羊の乳を煮ながら、口ずさんでいた。
下の子が、寄ってきて、膝に頭を載せた。
「それ、どこの言葉」
「南の、遠いところの言葉」
「行ったこと、ある」
「……生まれたところだよ」
子は、それきり、何も訊かなかった。
訊かれても、答えようがなかった。父の家のあった町も、書を並べた部屋も、いまどうなっているのか、蔡琰自身が知らない。上の子が、天幕の入口の垂れを持ち上げて、こちらを見ていた。父に似て、目の細い子だった。何も訊かないところも、似ていた。
十二年のあいだに、蔡琰は、この草原の暮らしを憎みきれなくなっていた。
憎んでも、日は昇り、羊は草を食み、子は育つ。憎しみを抱えたまま母になることは、できなかった。蔡琰は、天幕の中で、胡の妻として、胡の子の母として、生きてきた。父の書いた漢の歴史も、切れた弦を音で当てた幼い日も、遠い、別の生のことのように、なっていた。
その日、南から、漢の使者が、来た。
五十がらみの男だった。道の埃で、衣の色が分からなくなっていた。天幕の前に敷物を敷かせ、その上に、金と、玉とを並べさせた。並べ終えると、居ずまいを正して、言った。
「丞相・曹操さまの名代で参りました。……蔡邕どののご息女を、漢へお返し願いたい」
傍らの者が、それを胡の言葉に直した。
曹操。その名は、この草原にも届いていた。いまの漢の政を束ねる、丞相の位にある男である。若い頃、蔡琰の父・蔡邕と親しかった、あの男だった。その男が、旧友の娘が胡地にあると聞き、金と玉を贈って、蔡琰を漢へ贖い戻したい、と言ってきている。
蔡琰は、鍋の縁を掴んだまま、動けなかった。
左賢王は、その金と玉を、じっと見ていた。
蔡琰は、夫の、その目を、天幕の陰から見ていた。夫が何を思っているのかは、その横顔からは、読めなかった。ただ、積まれた金と玉の前で、夫は、長いあいだ、黙っていた。やがて、顔を上げずに、蔡琰のほうへ、短く問うた。
「お前は、どうしたい」
蔡琰は、答えられなかった。
帰りたい、と言えば、この十二年を捨てることになる。帰りたくない、と言えば、それも、嘘になる。入口の垂れのそばに、上の子が立っていた。母の答えを、待っていた。
左賢王は、待たなかった。
使者のほうへ向き直って、言った。
「返す。……子は、渡さぬ」
「うけたまわりました」
使者は、それだけ答えて、頭を下げた。
話は、それで終わった。妻を返すか、返さぬか。それは、蔡琰の意思とは関わりのないところで、金と玉の重さと、王の胸算用とで、決められた。
蔡琰の体が、また、動かされる。
乱の年に、胡の騎兵の手で、漢から胡へ。そして今度は、曹操の金と玉で、胡から漢へ。蔡琰という一人の身が、そのときどきの大きな力の意のままに、国境を越えて運ばれていく。
帰れる、と思った、その一瞬あとに。
子は、渡さぬ――さきほどの一言が、遅れて、胸に届いた。贖われるのは、この身一つである。子は、胡の王の子だった。連れては、帰れぬ。漢へ帰るということは、この草原に、二人の子を置いていくということだった。喜びが胸に差した、まさにその同じ場所へ、氷のような痛みが、突き刺さった。
蔡琰は、鍋の下の火を、落とした。
手が、震えていた。上の子は、まだ、そこに立っていた。何も訊かずに、母を見ていた。
天幕の外で、胡笳が、また鳴った。
低く、かすれて、泣くような音だった。十二年かけて体に染みたその音を、蔡琰は、もう、じきに聞かなくなる。漢の弦の音のもとへ帰るのだ。帰れる。帰りたかった。だが、その帰る道は、二人の子を、この胡笳の鳴る草原へ置き去りにする道でも、あった。




