第3話:帰る
――建安十三年(二〇八年)、鄴。
南へ下る道は、荒れていた。
乱が過ぎたあとの中原は、蔡琰が覚えているものと、まるで違っていた。田は荒れ、村は絶え、道の傍らには、白い骨が、草に埋もれていた。かつて、人と車で賑わった都のあたりも、いまは、崩れた土塀が、ただ、風に晒されているだけだった。父の生きた漢の世界は、蔡琰が胡地にある十二年のあいだに、こんなにも、痩せ細っていた。
帰る、と思って帰ってきた地が、もう、昔の地ではなかった。
蔡琰は、その荒れた道を、北の鄴へと運ばれた。曹操が、府を置く城である。かつての都ではなく、この北の城が、いまの漢の力の中心だった。蔡琰は、城の一室で、その曹操と、対面した。
曹操は、小柄な、目の鋭い男だった。
蔡琰の顔を見て、しばらく、父・蔡邕のことを語った。若い頃、蔡邕にどれほどのことを教わったか。あの学者の書いた文が、どれほど見事だったか。その蔡邕が、乱の中で死に、後を継ぐ子もないまま、その学問が、絶えようとしている。それが、惜しい、と曹操は言った。だから、旧友の娘を、金と玉を惜しまず贖い戻した、と。
「蔡邕どのの書かれた書は、いま、どれほど残っているか」
曹操は、そう、問うた。
蔡琰は、うつむいた。
父の書いた漢の歴史の竹簡は、乱の日に失われた。父が集め、父が書いた書物も、町とともに焼けた。それだけの話である。答えるのに、長い言葉は要らなかった。
「亡くなった父が賜りました書は、四千巻あまりございました。……胡の地へ流されるあいだに、一つも、残っておりません」
曹操は、何も言わなかった。
蔡琰は、顔を上げた。上げてから、続けた。
「ただ、いま、そらで覚えているものが、四百篇あまりございます」
卓の上の指が、止まった。
曹操が、言った。
「書き役を、十人つける」
蔡琰は、首を横に振った。
書き役といえば、みな男である。同じ部屋に坐り、口で伝えて、手を通して写させる。それが、この身の残りの日々の形になるのは、嫌だった。
「礼に、男と女は、手ずから物を受け渡さぬ、とございます。人ではなく、紙と筆を賜りますよう。きちんとした字でも、崩した字でも、仰せのままに、書きます」
曹操は、しばらく、蔡琰を見ていた。
それから、頷いた。それだけだった。
十二年、この身は、他人の手で運ばれてきた。運ばれた先で妻にされ、母にされ、金と玉で買い戻された。焼けても灰にならなかったものが、一つだけ、この頭の中に残っている。それを、どの手で紙へ移すかは、いま、自分で選んだ。
紙と筆は、その日のうちに、部屋へ運ばれてきた。
それから、曹操は、蔡琰の身の振り方を告げた。董祀という者に嫁がせる、と。屯田の兵を束ねる、下級の役人だという。乱で夫を失い――胡地の夫は、もう夫ではない――行き場のない身を、曹操は、そうして、一人の官吏の妻の座に収めた。
蔡琰の体は、また、動かされた。
胡の騎兵の手で、漢から胡へ。曹操の金と玉で、胡から漢へ。そして今度は、曹操の一言で、董祀の妻へ。乱世の女の身は、そのときどきの力の意のままに、あちらへこちらへと置き換えられていく。抗うすべは、なかった。ただ、蔡琰は、それを、遠くから己の身を眺めるように、静かに受けた。
城の一室に、一張りの琴が、あった。
蔡琰は、久しぶりに、その弦に指を触れた。十二年ぶりに触れる、漢の弦の音だった。低く、澄んだ音が、鳴った。父が弾き、幼い自分が、切れた弦を音で当てた、あの音である。帰ってきた、と思った。父の弦の音のもとへ、確かに帰ってきた。
だが、その澄んだ弦の音の底に、蔡琰は、別の音を聞いていた。
草原の胡笳の音である。低く、かすれて、泣くような、あの音。漢の弦の音を鳴らしながら、その裏で、蔡琰の耳は、いつまでも、胡笳を聞いていた。置いてきた二人の子の泣き声を聞いていた。乱世に引き裂かれた身は、こうして、帰ってきた。帰ってきて、なお、胸の半分は、北の草原に置いたままだった。
蔡琰は、弦から、指を離した。
音が、消えた。あとには、北の城の静かな夕暮れだけが、残った。漢の弦と、胡の笳と。二つの音のあいだで裂かれた身が、その裂け目を抱えたまま、この北の城で、また、生きていく。蔡琰は、窓の外の北の空を、しばらく見ていた。




