第7話:易水
――建安十二年(二〇七年)冬、冀州易水。
易水のほとりに、陣が張られていた。
その一つの幕の中で、郭嘉が、床に臥せっていた。
碣石の海を見てから、幾日も、経っていなかった。帰路の途中、この易のあたりで、郭嘉は、ついに起き上がれなくなった。三十八になる年だった。天幕の中は、薄暗く、外の川の音だけが、絶えず、聞こえていた。
曹操が、幾度も、その枕元を訪れた。
将たちの陣を回るよりも、まず、この天幕へ足を運んだ。床に臥せった郭嘉のそばに腰を下ろし、長い時を過ごした。北を平らげた、これからだ、という時に、頭脳の柱が、一人、崩れかけていた。曹操の顔に、郭嘉は、隠しきれぬ憂いを見た。
「奉孝」
「……はい」
「医者を、代えた」
「幾人、代えても、同じです」
曹操は、それには答えなかった。
答えずに、天幕の垂れのほうを、しばらく見ていた。それから、低く言った。
「天下のことが片づいたら、後のことは、お前に頼むつもりだった」
郭嘉は、目を開いた。
この主が、そういうことを口に出すのを、初めて聞いた。府の誰にも言わずにいたことを、この薄暗い天幕の中でだけ、言った。言うということは、もう、間に合わぬと見ている、ということだった。
「殿。……南は、水です」
「聞いている」
「北の兵に、船を……早く、慣れさせてください。冬になる前に」
「ほかには」
「劉備を……あの男だけは、必ず……」
言葉が、そこで、切れた。
息が、続かなかった。荊州のことも、孫氏の江東のことも、まだ、山ほど言っておきたかった。劉表が死んだあと、あの州がどう割れるか。割れた州と、川向こうの孫氏とが、もし手を結んだら、どうなるか。北の海の向こうに待つ戦の形が、熱を持った頭の中に、切れ切れに浮かんでは、消えた。
だが、言葉は、もう、うまく、口から出てこなかった。
曹操が、何か、話しかけていた。その声は、聞こえた。だが、意味が、少しずつ、遠のいていった。この主に、南で勝ってほしい。あの大きな川の向こうで、老いた駿馬の志を遂げてほしい。その戦を、この目で見たかった。共に謀りたかった。
郭嘉は、曹操の顔を見上げた。
薄暗い天幕の中で、その顔だけが、こちらを、じっと覗き込んでいた。もう一度、何か、言おうとした。この先の南の戦で、気をつけるべきことを、一つでも、伝えておきたかった。だが、唇は、動かなかった。曹操の顔が、ゆっくりと、白い光の中に溶けていった。
川の音が、遠く、なった。
最後に見えたのは、自分を覗き込む、その主の顔だった。老いてなお千里を志すと、海の前で、うたった男。その男が、これから、南へ、大きな川の向こうへ、駆けていく。その千里の先を、もう、共には駆けられない。そう思ったのが、郭嘉の最後の思いだった。
天幕の光が、消えた。




