第6話:碣石
――建安十二年(二〇七年)秋、幽州碣石。
郭嘉は、輿の上から、その海を見ていた。
帰路だった。烏桓を砕き、遼東の首を受け取り、北の憂いは、すべて、絶えた。その帰り道に、大軍は、海辺の碣石に差しかかった。東の果ての大きな水である。郭嘉は、南の内陸に育って、これほどの海を見たことがなかった。灰色の波が、地の果てまで、うねっていた。
郭嘉の病は、もう、隠せなくなっていた。
北の寒さと、渇いた行軍と、慣れぬ水と土が、痩せた体を、芯から蝕んでいた。輿に乗せられ、運ばれる身になっていた。掌の血は、もう、隠しても仕方がなかった。それでも、郭嘉は、この海を、自分の目で見ておきたかった。
曹操が、馬を下り、高い岩の上に登っていった。
海に向かって、立った。秋風が、その衣をあおった。曹操は、しばらく、ただ、海を見ていた。それから、低く、うたうように、言葉を口ずさみはじめた。東の碣石に臨んで、この大いなる海を観る――と。
郭嘉は、輿の上から、その背を見ていた。
波が、山のように立ち、島々が、水の中にそびえている。草木は生い茂り、秋風が、もの寂しく鳴る。曹操の口から、その海の景色が、言葉になって、こぼれていった。五十を過ぎた男が、北の果ての海を前に、なお胸を張って立っていた。
そして、曹操は、うたった。
「老いた駿馬は、厩に伏していても、心は千里を、駆けている。年老いた勇士も、その日暮れに、なお、胸の志は、やまぬ――」(老驥伏櫪、志は千里に在り)
郭嘉は、その言葉を聞いた。
老いた駿馬は、厩に伏していても、志は千里に在り。もう若くはない。髪には、白いものが混じり、体も、昔のようには、動くまい。それでも、この男の心は、なお、千里の先を駆けている。北を平らげて、それで満ち足りる男では、なかった。曹操の目は、この海のさらに向こうを見ていた。
やがて、曹操が岩を下りて、輿のそばへ来た。
「見えるか」
「見えます。……水ばかりで」
「この向こうにも、地はあるのか」
「ございましょう。ですが、殿が行かれるのは、あちらではありませぬ」
曹操が、こちらを見た。
郭嘉は、輿の上で、少しだけ、体を起こした。
「南です」
「なぜ、分かる」
「顔に、書いてございます」
曹操は、笑わなかった。
笑わずに、しばらく郭嘉を見て、それから、馬のほうへ戻っていった。否と言わないのが、この主の肯定だった。
南だ、と郭嘉には、分かっていた。
北の憂いは、絶えた。次は、南――大きな川の向こうの、まだ見ぬ地だ。劉表の荊州が、その先で、待っている。そして、その荊州には、あの御しがたい劉備が、身を潜めている。この主は、北の海を見ながら、もう、南の戦を思っている。老いた駿馬の心は、とうに、次の千里へ走り出していた。
郭嘉は、輿の上で、静かに目を閉じた。
この主は、まだまだ、駆ける。北の果てのこの海から、南の川の向こうまで、この男は、なお、天下を追って、走り続ける。それを見届けたかった。だが――郭嘉は、掌の血の乾いた痕を見た。この身が、その千里の先まで、付いていけるかどうかは、もう、危ういところに来ていた。
海風が、冷たかった。
曹操のうたう声が、波の音に混じって、遠く聞こえた。老いてなお、志は千里に在り。その千里を共に駆けたい、と郭嘉は、切に思った。思いながら、体の芯から、力が、抜けていくのを、どうすることも、できなかった。




