第4話:白狼山
――建安十二年(二〇七年)八月、白狼山。
張遼は、その山の尾根に馬を進めたとき、思わず、手綱を引き絞った。
眼下の草原が、埋まっていた。
烏桓の騎兵だった。数万か、あるいは、それ以上か。蹋頓の本隊が、白狼山の麓に群れをなしていた。塞の外の廃道を抜けた曹操の軍と、袁氏を匿う烏桓の大軍とが、この白狼山で、互いに思いがけず、鉢合わせしたのだった。
張遼の背にあるのは、身軽な先手の兵だけだった。
重い荷を捨てて、速く駆けてきたぶん、兵の数は、心もとない。後続の本隊は、まだ、はるか後ろにいる。数だけを見れば、烏桓の大軍に呑まれておかしくなかった。味方の兵の顔に、怯えが走るのが、張遼にも、見えた。この数の差では、と。
だが、張遼は、敵陣を見て、別のものを感じていた。
烏桓の大軍は、確かに数は多い。だが、その陣は、整っていなかった。突然の遭遇に備えを固める間もなく、ただ、人と馬が、草原にばらばらに群れているだけだった。号令も、隊列も、まだ、行き渡っていない。数は多いが、束ねられていない。烏合の群れだった。
後方から、曹操が、馬を進めてきた。
高い所に立って、しばらく、敵陣を見下ろしていた。
「幾らある」
「数万。あるいは、それ以上かと」
「陣は」
「整っておりませぬ。号令が、端まで届いておりません」
曹操は、もう一度、眼下を見た。
「では、崩れる」
そして、自らの将旗を、張遼に差し出した。
「行け」
張遼は、その将旗を握った。
主が、味方の怯えを見ず、敵の乱れだけを見て、この自分に、全軍の先鋒を託した。かつて呂布の下にいて、下邳で降ったこの身に、曹操は、幾度も、こうして大事な役を預けてきた。武人にとって、それが、何よりの報いだった。張遼の内で、怯えが、退いた。代わりに、熱い塊が、こみ上げた。
振り返って、張遼は、背後の兵に言った。
「数を見るな。この旗だけ、見ていろ」
張遼は、その将旗を高く掲げ、馬腹を蹴った。
尾根から、草原へ向けて、まっすぐに駆け下った。数を頼まず、乱れた敵の、そのいちばん厚いところへ、先頭を切って突っ込んだ。身軽な兵が、その背を追った。整わぬ烏桓の群れに、束ねられた刃が、上から、突き刺さった。
烏桓の大軍が、崩れた。
束ねる者のない群れは、いったん崩れると、脆かった。張遼の突撃に、幾万の騎馬が、なだれを打って、逃げ散った。
戦が収まった頃、曹純が、返り血に濡れた馬を寄せてきた。
「王の首は、こちらで獲った」
「蹋頓か」
「逃げるところを、追いつめた。うちの騎兵は、足だけは速い」
曹純は、そう言って、顎で張遼の後ろを指した。
「もっとも、先に崩したのは、そちらの一頭だ」
「一頭で崩れるほど、緩んでいたのだ」
「緩ませたのは、こちらではないぞ」
束ねる王を失って、烏桓の抵抗は、そこで、終わった。
草原に、二十万を超える、胡と漢の民が、残された。
王を失い、逃げ場を失った烏桓は、こぞって、曹操に降った。塞の外で、袁氏と結んで中央に牙を剥いた辺境の民は、こうして、一日の戦いで、砕かれた。そして、その降った騎兵たちは、やがて、曹操の軍に組み込まれ、天下に聞こえた名騎として、中央の戦に駆り出されていくことになる。
張遼は、荒い息の下で、返り血に濡れた将旗を、曹操へ返した。
武が、すべてを決めた戦いだった。数でも、地でもなく、乱れた群れへ、束ねた刃を真っ先に突き入れる、その一騎の勇が、二十万を砕いた。こういう戦いが、まだ、できる。張遼は、それを誇りに思った。ただ、そう思う一方で、胸のどこかに、かすかな予感もあった。
辺境の民さえ、こうして、中央の軍に呑まれて、組み込まれていく。
やがて、武で天下を分ける戦いは、こんなふうに大きな仕組みの中に束ねられていくのかもしれぬ。一騎の勇が、なお、ものを言う。だが、それが、いつまで続くか。張遼は、返した将旗が、曹操の手で、また高く掲げられるのを見ていた。




