第3話:廃道
――建安十二年(二〇七年)夏、幽州盧龍塞。
田疇は、大軍の先頭に立って、廃れた道を指し示していた。
田疇は、この北の地の生まれである。乱を避けて、一族郎党を率い、山中の谷に隠れ住んでいた。幾度も、州や郡から役に招かれたが、そのたびに断ってきた。誰かに仕えて、位を得ることに興味がなかった。ただ、この地の死んだ者たちのことが、いつも、胸にあった。
烏桓は、かつて、この幽州で、さんざんに人を殺した。
乱のあいだ、塞の外から幾度も踏み込んでは、幽州の役人を殺し、民をさらった。田疇の知る者も、多く、その手にかかった。曹操が、その烏桓を討つために、道を求めてきたとき、田疇は、断らなかった。位や、褒美のためではない。死んだ者たちに報いる。そのためだけに、田疇は、この大軍を、案内すると決めた。
だが、道は、容易ではなかった。
海沿いの本道は、夏の雨で水に浸かり、人も馬も、通れなくなっていた。曹操は、その道の傍らに、立て札まで立てさせた。この道は、夏秋は水が出て通れぬ、時を待って改めて進む――と、あえて敵に見えるように、書かせた。烏桓に、曹操は道を諦めた、と思わせるためだった。
その立て札の前で、曹操が、田疇に訊いた。
「敵は、これを、信じるか」
「信じます」
「なぜだ」
「嘘ではないからです。あの道は、いま、本当に、水の下です」
曹操は、うなずいた。それ以上は、何も訊かなかった。
その裏で、田疇は、別の道を拓いていた。
盧龍塞から北へ抜ける、古い道である。前漢の頃には、使われていたが、もう二百年、打ち捨てられて、道の形すら、失われていた。田疇だけが、その廃道の在り処を知っていた。
「この山を削り、この谷を埋めれば、道になります。二百年、誰も通らなかった道です。烏桓は、まさか、ここから来るとは、思いますまい」
田疇は、曹操にそう告げた。
そこからが、地獄のような行軍だった。兵が、山を削り、谷を埋め、道を作りながら、進んだ。その長さは、五百里に及んだ。夏の雨が上がると、今度は、水がなかった。渇いた大地を、ひたすら掘って、井戸を求めた。
三十丈も掘ったところで、郷里から従いてきた若い者が、穴の底から、泥だらけの顔を出した。
「先生。出ました」
「どのくらいだ」
「掬えば、濁っております。半日、置けば、飲めるかと」
田疇は、その濁った水を、掌に受けた。
鉄と土の味がした。この水を、幾万の喉が待っている。掘っては進み、進んでは掘る。それを、幾日も、繰り返した。
その井戸の縁で、若い者が、ふと訊いた。
「先生。この道を通したら、あとは、どうなるのですか」
「どうもならん」
「では、なぜ、通すのです」
「……烏桓に、報いを負わせるためだ」
若い者は、それで納得したらしかった。
田疇は、納得しなかった。
背後で、中央の大軍が、山を削り、谷を埋め、井戸を掘りながら、自分の生まれた土地の奥へ、じわじわと分け入っていく。田疇が拓いたこの道を通って、都の権力が、塞の外の民のもとへ届こうとしていた。辺境が、中央に呑まれていく。その呑み込む力の先触れの道を、ほかならぬこの土地の自分が拓いている。
烏桓に、報いは、負わせたい。死んだ者たちのために。
だが、この道が拓かれたあとの北の地が、どうなるのかは、田疇にも、分からなかった。中央の大軍が、一度、塞の外へ手を伸ばせば、その手は、もう、引っ込みはすまい。土地は、そこにある。人も、そこにいる。ただ、その土地と人の上に、これまでとは違う、遠い都の重みが、覆いかぶさってくる。
道は、ついに塞を越えた。
長城の外のなだらかな草原が、大軍の前に開けた。田疇は、そこで、足を止めた。ここから先は、烏桓の地である。二百年、誰も通らなかった廃道の果てに、曹操の大軍は、ついに蹋頓の懐の奥深くへ、誰にも気づかれぬまま抜け出ていた。
賭けは、半ば、当たった。あとは、この身軽な兵が、備えのない敵を突けるかどうかだった。




