第2話:賭け
――建安十二年(二〇七年)夏、冀州鄴。
郭嘉は、その日の評定を、末席から見ていた。
河北は、もう、ほとんど平らいでいた。鄴が落ち、袁譚が南皮で斬られ、袁氏の地は、あらかた曹操のものになった。去年は、袁紹の甥の高幹が并州で叛いたが、それも、壺関を攻め落として、鎮めた。北で曹操に逆らう地は、もう、数えるほどしか残っていなかった。
残った、その一つが、塞の外にあった。
北へ逃げた袁尚と袁熙が、烏桓の王・蹋頓を頼って、そこに匿われている。烏桓は、長城の外の騎馬の民である。袁氏は、代々、この烏桓に恩を売り、縁を結んできた。その縁を頼って、兄弟は、塞の外から、幽州の境を、たびたび荒らしていた。漢の民が、幾万も、さらわれ、殺され、あるいは連れ去られた、という報せが、絶えなかった。
これをどうするか。
「塞の外まで、追う要が、ございましょうか」
声を上げたのは、曹洪だった。曹操の一族の将である。戦場では前へ出るが、勘定にはうるさい男だった。
「長城の外は、遠うございます。道は険しく、水も乏しい。そんな辺境まで、大軍を引いて出れば、都の許が、空になる。その隙に、南の劉表が、劉備を使って、許を突いてきたら、どうなさる。袁氏の残り火など、放っておいても、塞の外で、いずれ痩せて消えます。わざわざ、危ない橋を渡ることは、ございますまい」
諸将の多くが、頷いた。
それが、この座の空気だった。北の果てまで出て、留守を突かれる。武人の勘としては、まっとうな恐れである。
郭嘉は、それを違うと見ていた。
曹操が、末席の郭嘉に目を向けた。どう思う、と、その目が問うていた。郭嘉は、痩せた体を、前に傾けた。近ごろ、咳が止まらぬ。もともと、丈夫な質ではなかった。それでも、頭だけは、いつも通り、冴えていた。
「劉表は、動きませぬ」
郭嘉は、そう言い切った。
諸将の目が、末席に集まった。郭嘉は、続けた。劉表という男は、荊州の豊かな地に座って、客と談じるのが好きなだけの男だ。天下をみずから取りにいく気概はない。そして、あの男は、身のうちに、御しきれぬ荷を抱えている。劉備だ。
劉備は、いま、劉表のもとに身を寄せている。
だが、劉表は、その劉備を信じてはいない。信じていないから、大きな兵を預けられない。かといって、小さく使えば、劉備のような男が、大人しく働くはずもない。劉表は、劉備を持てあましている。持てあましたまま、身動きが取れずにいる。だから、我らが北へ出ても、劉表は、劉備に兵を預けて許を突かせる、などという思いきったことは、できはしない。
「劉表は、劉備を御せぬ。御せぬ者を、背に置いたまま、動けはしませぬ。ゆえに、南は、案じるに足りませぬ」
「動かぬと、言い切れるか」
「言い切れます」
曹洪が、口をつぐんだ。
郭嘉の人を見る目だった。
地図の上の兵の数ではなく、その地に座る男の器を読む。劉表が何をし、何をしないかを、劉表その人の性根から言い当てる。曹操が、幾度も舌を巻いてきた、この若い謀臣のいちばんの武器だった。
問題は、北の攻め方だった。郭嘉は、身を乗り出して、言った。
「兵は、速さがすべてです。重い荷を、みな置いていきましょう。身軽な兵だけで、一気に塞の外へ抜け、蹋頓が備える前に、その喉元を突く。遠く、速く、思いがけぬところから――それだけが、辺境の敵を、討つ道です」(兵は神速を貴ぶ)
重い荷を捨て、軽装で、道なき道を速く行く。
誰も予期せぬ速さで、塞の外の敵の懐へ飛び込む。危うい賭けだった。水の乏しい辺境で、身軽さと引き換えに、蓄えを捨てる。読みが外れれば、全軍が、渇きと飢えで、塞の外に朽ちる。だが、その賭けに、郭嘉は、勝てると見ていた。
曹操が、口を開いた。
「水は」
「道の途中に、いくらかは、ございましょう。足りねば、掘ります」
曹操は、しばらく、黙っていた。
それから、立ち上がった。
「出る。荷は、置いていけ」
諸将が、なお危ぶむのを、曹操は、退けた。郭嘉は、その決断の速さを、末席から見ていた。この主は、賢い言を握りつぶさない。良いと見れば、危うくても、その手を取る。袁紹とは、そこが、まるで違った。
評定が、散じた。
郭嘉は、立ち上がろうとして、また、咳き込んだ。掌に、かすかに血が滲んだ。北は、寒い。水も、土も、南育ちの身には、合うまい。郭嘉は、それを、掌の内に握り込んで、誰にも見せなかった。賭けを説いた者が、その賭けの旅に耐えられぬかもしれぬ――そんなことを、いま、口にするわけには、いかなかった。




