第1話:弾劾
――建安十二年(二〇七年)春、冀州鄴。
郭嘉は、自分の名が呼ばれても、顔を上げなかった。
朝の議の席である。呼んだのは、上座の曹操ではなかった。座の中ほどから、静かに立ち上がった、まだ若い男の声だった。陳群という。潁川の名門の生まれで、父も祖父も、天下に名の知れた人物だった。その陳群が、手を揃え、まっすぐ正面を向いて、立っていた。
「軍師祭酒の郭嘉について、申し上げます」
軍師祭酒――軍議に加わり、謀りごとを預かる役である。
郭嘉は、床の木目を見ていた。
「郭嘉は、身の持ち方が、乱れております。夜ごと酒に浸り、幾日も家に帰らず、士人の礼を、まるで守りませぬ。私が申し上げるのは、これで四度目です」
座が、静かになった。
誰も、笑わなかった。笑えば次は自分の番だと、この座の者は、みな知っていた。陳群は、声を荒らげなかった。荒らげぬまま、見たこと、聞いたことだけを、一つずつ、並べていった。並べ終えると、頭を下げて、座に戻った。
郭嘉は、そのあいだ、姿勢を変えなかった。
弁解も、しなかった。言われたことは、どれも、本当だった。酒は飲む。家には帰らない。士人の礼は、守っていない。守る気も、なかった。名門の家に生まれた者は、生まれた日から、守るべき形を、一揃い渡される。郭嘉には、渡されたものが、何もなかった。あるのは、頭一つだった。
上座から、曹操が、口を開いた。
「聞いた」
それだけだった。
それから、曹操は、陳群のほうへ目をやった。
「よく、言った」
それきりだった。裁きも、罰も、なかった。議は、そのまま、次の件へ移った。
この主は、いつも、そうだった。陳群の正しさを褒め、郭嘉の乱れを罰しない。褒めるのも、罰さぬのも、同じ一つの勘定から出ている。府には、法度を口にする者が要る。頭の切れる者も、要る。両方を並べて飼っておく。それだけのことだった。
議が散じたあと、郭嘉は、廊で陳群に追いついた。
「四度目、だったか」
「四度目です」
「よく、数えている」
「数えております。次も、申し上げます」
陳群は、足を止めて、こちらを見た。
怒ってはいなかった。人を憎む顔を、この男は、しない。だから、始末が悪かった。
「あなたを、憎んではおりません」
「知っている」
「憎まぬから、言うのです。法度が、人によって曲がるなら、それは、もう法度ではありません。殿は、あなたの乱れごと、召し抱えておられる。それは、殿の器でしょう。ですが、器の中で、乱れが、そのまま通ってよい道理は、ありませぬ」
郭嘉は、笑った。
この男の言うことは、いつも、正しい。正しさが、鋭い刃物のように、まっすぐ立っている。そういう刃物を、府の中に立てておくのが、どれほど値打ちのあることか、郭嘉には、よく分かっていた。
「あんたのような男が、一人もいなくなった府を、俺は知っている」
「河北ですか」
「そうだ。あそこでは、諫めた者が、獄で死んだ。田豊という男だ。正しいことを言った者が、殺されて、正しくないことを言った者が、残った。残った連中で、あの人は、負けた」
陳群は、黙って、聞いていた。
「だから、あんたには、やめろとは言わん。せいぜい、数えてくれ」
「数えます」
「五度目は、しばらく、先になるかもしれんぞ」
「なぜです」
郭嘉は、答えなかった。
答える代わりに、口を押さえて、咳をした。長い咳だった。喉の奥から、鉄の味がした。陳群は、その咳が収まるまで、その場を動かなかった。それから、一礼して、去っていった。
郭嘉は、その背を見送った。
この男は、いずれ、人を測る物差しを、自分の手で作る側に回るだろう。作った物差しは、きっと、家の名を、そのまま位に置き換える形になる。潁川の家に生まれた男が作るものとは、そういうものだ。そのときには、頭一つで拾われた自分のような者の座は、どこにも、なくなっている。
もっとも、と郭嘉は思った。
その頃まで、自分が生きているとは、限らない。
北の話が、近い。塞の外へ出る話である。北は、寒いと聞いた。




