第12話:書いた者
――建安九年(二〇四年)秋、冀州鄴。
陳琳は、縄を打たれて、曹操の前へ引き出された。
五年前に自分が書いた一枚が、いま、その卓の上に、広げてあった。
鄴が落ちた日、陳琳は、逃げなかった。逃げる先がなかったからではない。逃げても、あの一枚は、天下じゅうの役所の門に貼られ、写しの写しが、まだ回っている。書いた者の足だけが逃げたところで、書いたものは、どこへも逃げない。筆で世を渡ってきた男の、それが勘定だった。
広間の床は、冷たかった。
座の端に、痩せた男がいた。獄から出たばかりの崔琰である。目が合った。崔琰は、わずかに、頭を下げた。陳琳も、下げ返した。この城で自分が最後にした仕事は、その男を牢から出させることだった。
曹操は、しばらく、何も言わなかった。
陳琳には、どの行で止められるかが、分かっていた。徐州の屍でも、墓を暴かせた一段でもない。祖父の名を出した、あの一行だ。
「あの檄だ。私を責めるのは、よい。……悪は、その身で止まるものだ。なぜ、父祖にまで及ばせた」
陳琳は、床に額をつけた。
弁解は、しなかった。あのとき、庭の堅い芽を見ながら、自分は迷った。迷って、書いた。この一行を落とせば、檄はいちばん効く一撃を失う――そう勘定して、筆を執り直した。効くと分かっていて、書いた。分かっていて書いた者に、言い開きは、ない。
「申し開きは、ございませぬ」
長い間があった。
陳琳は、床を見ていた。曹操の履が、卓の向こうからこちらへ動くのが、目の端に映った。近づいて、止まった。
「縄を解け。……これからは、私の名で書け」
陳琳は、顔を上げなかった。
記室――主君の文書を書く役に回された。袁紹の名で書いていた手が、そのまま、曹操の名で書くことになった。斬るより、使う。この男の勘定も、はっきりしていた。天下じゅうに自分の祖父を触れ回った筆を、自分の手元へ置く。置いてしまえば、その筆は、二度と、他人の名では書けない。
その日のうちに、陳琳は、書役の部屋へ入れられた。
最初に渡されたのは、一枚の草案だった。読むと、河北の今年の租と賦を出させぬという令と、土地を呑む強い家を重く罰するという令とが、並んでいた。これを清書して、州じゅうへ回せ、という。
陳琳は、筆を執った。
五年前、同じ手が、この州で、討たれるべき者の罪を並べた。いま、同じ手が、この州の家々に、今年は取らぬと告げている。書く相手も、書く中身も、裏返っていた。裏返っても、筆のほうは、少しも困らなかった。
困らないということが、この稼業のいちばん暗いところだ、と陳琳は思った。
書き上げて、陳琳は、顔を上げた。
「何枚、写しましょう」
「郡と県の、門の数だけ」
陳琳は、頭を下げた。
あの日、袁紹は、数えるな、と言った。何枚でも構わぬ、天下じゅうに撒け、と。この人は、門の数を数えている。撒くのではなく、貼る場所を、はじめから決めていた。
同じ紙が、同じ手から出て、行き先だけが、変わっていた。
陳琳は、墨を磨りはじめた。窓の外では、水の引いたあとの泥が、秋の日に、白く乾きかけていた。




