第11話:仁の声
――建安九年(二〇四年)秋、冀州鄴。
数日後、崔琰は、曹操の供をして、城の外へ出た。
牢を出て、まだ半月と経っていない。馬に乗るのは、二年ぶりだった。鐙に足をかけて体を持ち上げる、そのひと動作で、腿が震えた。城門を出るまで、崔琰は、鞍の前輪を握っていた。
行き先は、袁紹の墓だった。
土は、まだ新しかった。曹操は、馬を降り、供物を置かせ、墓の前に立った。それから、声を上げて泣いた。涙が、頬を流れていた。若い頃、この二人は洛陽で共に遊んだのだ、という話を、崔琰は聞いたことがあった。
「……本初」
それきり、あとは、言葉にならなかった。
泣きやむと、曹操は、袁紹の妻に会った。
供の者が、櫃を幾つも運んできた。取り上げてあった屋敷の家人が返され、蔵から出した宝物が、その場で戻された。絹と綿とが、別に積まれた。劉夫人は、白い喪の衣のまま、地に膝をついて、それを受けた。
「これからの食は、官から出す」
「……ありがたく存じます」
声は、平らだった。
崔琰は、少し離れて、それを見ていた。
城の奥で、袁紹の死んだ日に何があったかは、鄴の者なら、うっすらと聞いている。牢の中にいた崔琰の耳にさえ、髪の話が届いていた。その女が、いま、絹を受けて頭を下げている。誰が誰を弔うのか、この場では、もう分からなくなっていた。
泣いているのは、本当だろう、と思った。同時に、この一部始終を、鄴の城の者が、幾百と見ている。四代にわたって三公を出した家の当主が、南から来た男の手で、墓の前で丁重に扱われている。それを見た者が家へ帰って、家の者に話す。そうやって、この州の家々に、話が回っていく。
本当であることと、効くこととは、別ではなかった。同じ一つの動作が、両方だった。
その秋のうちに、二つの令が、州じゅうの門に貼り出された。
崔琰は、鄴の南の門まで、みずから歩いて見に行った。
紙の前に、人が集まっていた。字の読める者は、少ない。府から出た吏が、声を張って、読み上げていた。崔琰は、その後ろに立った。読み上げが終わっても、人は散らなかった。前にいた老人が振り返り、崔琰の衣を見た。府の者だと分かったらしい。
「……今年は、取らぬ、と読めましたが」
「そう書いてある。河北は袁氏の難に遭った。今年の租と賦は、出させるな。……そういう令だ」
「去年の分は」
「去年の分も、来ない」
老人は、しばらく、口を動かさなかった。
それから、隣の男の袖を引いて、同じことを言わせた。二度聞いて、ようやく、うなずいた。うなずいてから、地面を見た。今年の穀を、取られずに済む。それを信じるまでに、この老人は、二度、人に言わせなければならなかった。
紙は、もう一枚、並べて貼ってあった。
土地を持つ強い家が、貧しい家の田を安く買い集め、あるいは借りた金の形に取り上げることを、重く罰する。そう書いてあった。
そちらの前には、誰も、立っていなかった。
府へ戻ると、待っている者がいた。
鄴の東に田を持つ家の使いだという。若く、身なりがよかった。崔琰の前に坐ると、はじめは水害の話をし、次に今年の穀の出来の話をし、それから、二枚目の令のことを、遠回しに切り出した。
「あの令は、いつまで続くものでございましょうか」
「令に、いつまでとは書いていない」
「……袁氏のころは、そこまでは、なさいませんでした」
「そうだな。そこまではしなかった」
使いは、それ以上は言わずに、帰っていった。
崔琰は、その背を見送った。
前の令は、州じゅうの家に喜ばれる。後の令は、州じゅうの大きな家に、嫌われる。喜ばせる相手と、抑える相手とが、はっきりと分けてあった。まず一年、取らずに恩を売り、そのあいだに、地の大きな家が地面をさらに呑むのを、法で止めておく。
外から来た者が、根を張った者を、どう買い、どう抑えるか。
その手順が、二枚の紙に、順序どおりに書いてあった。
崔琰は、府へ戻る道で、袁紹の墓の方角を、一度だけ振り返った。
あの人は、この州の家々に頭を下げさせることは、できた。下げさせたあと、その家々をどう扱うかを、ついに決めなかった。決めなかった主の州を、決める男が、いま、受け取っている。
崔琰自身も、その受け取られたものの、一つだった。




