第10話:三十万
――建安九年(二〇四年)秋、冀州鄴。
崔琰は、獄を出て、三日目に、州の府へ呼ばれた。
二年、入っていた。高い場所に細い窓が一つあるきりの牢で、季節は、そこから差す光の角度だけで数えた。出されたとき、足が、うまく前に出なかった。城は、まだ、水と屍のにおいがしていた。
入れられた理由は、はっきりしていた。
袁紹が死に、兄弟が割れたとき、袁譚も、袁尚も、どちらも崔琰を欲しがった。崔琰は、どちらにも付かなかった。病と称して、二度、断った。三度目に、獄へ落とされた。冀州の名士が、家の割れ目のどちら側にも立たぬと言えば、両方から敵と見なされる。それだけのことだった。
牢から出してくれたのは、幾人かの口添えだったという。
その中に、陳琳という、袁紹の文書を書いていた男がいた。何度も願い出てくれた、と後で聞いた。崔琰は、その名を、覚えておくことにした。
府の広間は、袁紹が坐っていたころと、何一つ、変わっていなかった。
変わっていたのは、卓の向こうに坐っている男だけだった。曹操である。鄴を落とすと、みずから冀州牧――州を統べる長を兼ねた。かつて袁紹が坐った、その座に、家柄の低い成り上がりが坐っていた。
崔琰は、その日、別駕従事に取り立てられた。
別駕とは、州の政を助ける次官である。この州の名士を、いちばん高い席に据える。外から来た者が土地の家々を束ねるための、いちばん手早いやり方だった。崔琰にも、それは、分かっていた。
礼を述べて、顔を上げたとき、曹操が、言った。
「昨日、この州の戸籍を調べさせた。三十万は、兵に取れる。……大きな州だ」
座の者が、笑った。
河北四州の府である。そこに積まれた戸の数が、そのまま、これから曹操の下に立つ兵の数になる。得たものの大きさを、主が、声に出して確かめている。祝いの席では、当たり前の言葉だった。
崔琰は、笑わなかった。
牢の細い窓から見えていた夏を、思い出していた。城の外の壕から、水のにおいがした。城の中では、飢えて動けなくなった者を、日に幾度も、荷車が運んでいった。運ばれていく音は、牢の壁越しにも、よく聞こえた。城の半ばが、あの半年で死んだという。その者たちは、いま数えられた三十万の中には、入っていない。
崔琰は、膝を立て直して、まっすぐに、曹操を見た。
「いま、天下は裂けて、州も郡も、ばらばらになっております。袁氏の兄弟は、身内で刃を交えました。この冀州の民は、いまも野に骸をさらしたままです。……そこへ、朝廷の軍が参りました。この州の男も女も、まず何を聞けると思っていたか。仁の声です。土地の暮らしを問われ、泥の中から助け出されることです。その声より先に、甲と兵の数を数える。それが、この州の者たちが、明公に望んだことでしょうか」
広間が、静まり返った。
座の者が、いっせいに、体を伏せた。顔から、色が引いていた。取り立てられたその席で、取り立てた当人を、面と向かって咎めた者がいる。この場で斬られても、誰も驚かない。
崔琰は、伏せなかった。
曹操は、しばらく、崔琰を見ていた。それから、席を立った。卓を回って、崔琰の前まで来た。
そして、頭を下げた。
「――失礼をした」
それだけだった。
曹操は席へ戻り、次の議に移った。座の者は、まだ、伏せたままだった。
崔琰は、退がりながら、いま自分が何をしたのかを、ようやく、体で分かった。
牢の中の二年は、どちらにも付かぬための二年だった。出てきた最初の日に、自分は、新しい主に、この州の民の側から口を利いた。付かぬのではなく、付いたのだ、と崔琰は思った。付いた先は、この男ではない。この州の、野に骸をさらしている者たちのほうだった。




