第8話:落城の女
――建安九年(二〇四年)、冀州鄴。
足音は、廊の端から、近づいてきた。
甄氏は、屋敷の奥に坐ったまま、それを数えた。
城が落ちる音は、思っていたのと、違っていた。叫び声も、悲鳴も、遠かった。近くで聞こえるのは、板を踏む足音と、物を倒す音ばかりだった。半年、水に浸かり、飢えつづけた城が、ようやく静かになった。その静けさの中を、知らない男たちの足音が、奥へ奥へと入ってきた。
この半年で、屋敷の中も、痩せていた。
家人は、逃げるか、飢えて動けなくなるかした。残っていたのは、劉夫人と、甄氏と、幾人かの老いた女たちだけである。夫の袁熙は、遠い幽州にいる。義弟の袁尚は、囲みを解きに来て破れ、北の山へ逃げた。
甄氏は、逃げなかった。逃げる先が、なかった。
劉夫人が、廊下の奥から戻ってきた。手に、灰を掴んでいた。
「顔を、汚しなさい」
甄氏は、その手から、灰を受け取った。
髪を留めていた飾りを抜き、束ねを解いた。解けた髪が、肩から胸へ落ちた。灰を、頬に、額に、こすりつけた。指が、震えていた。二年前の昼に自分が磨った墨のことを、思い出した。あのとき五人の顔に塗られたのは、死んだ者に見分けられぬための墨だった。いま自分が塗っているのは、生きている者に見つけられぬための灰だった。
「泣いておきなさい。泣いている女は、後回しにされる」
劉夫人は、そう言って、自分の顔にも、灰をなすりつけた。
二人は、奥の一間に坐った。老いた女たちが、その後ろで、身を寄せ合った。足音が、廊下を近づいてきた。戸の前で、止まった。
入ってきたのは、若い将だった。
まだ二十にもならぬ顔だった。甲を着けたまま、供の兵を戸口に残して、一人で、部屋の中ほどまで来た。目が、老いた女たちの上を、ひととおり滑った。それから、劉夫人の後ろでうつむいている甄氏のところで、止まった。
「そこにいるのは」
「……熙の妻でございます」
劉夫人が、答えた。声は、平らだった。
若い将は、動かなかった。
甄氏は、うつむいたまま、その沈黙を数えていた。このまま顔を伏せていれば、この男は行くだろう。行けば、次の者が入ってくる。次に入ってくる者が、この男よりましだという保証は、どこにもない。城が落ちた日の奥の間で、女に選べることは、多くない。ただ、一つだけ、選べることがあった。誰に見つけられるかを、いま、自分で選ぶことだった。
甄氏は、顔を上げた。
乱れた髪を、両手で掻き上げ、後ろへ流した。袖から布を出して、頬の灰を拭いた。額を拭い、目の下を拭い、口のまわりを拭った。拭き終えると、布を膝の上に置き、まっすぐに、その若い将を見た。
怯えて見せることも、媚びて見せることも、しなかった。
若い将の喉が、動いた。
「……名は」
「甄と申します」
「曹丕」
若い将は、自分の名だけを、そう告げた。曹丕というその名が、曹操の子のものだと甄氏が知ったのは、後のことである。告げてから、若い将は、戸口の兵を振り返った。この一間には手を出すな、と短く命じた。それだけで、出ていった。廊下を戻る足音が、遠ざかっていった。
劉夫人が、甄氏の手を握った。
その手は、冷たく、強かった。
「もう、死ぬ心配はない」
甄氏は、答えなかった。
答える代わりに、膝の上の布を見た。灰で、黒く汚れていた。
その日から、甄氏の身は、動かされていった。
袁氏の屋敷を出て、曹氏の屋敷へ移された。運ぶ荷は、ほとんどなかった。城が変われば、城の主も変わる。城の主が変われば、その城に残された女もまた、新しい主のものになる。それが、この乱世の女の身の上だった。抗うすべは、なかった。
ただ、二年前の五人と、自分とを、甄氏は、幾度も並べてみた。
あの五人は、仕えた男とともに落ちた。自分は、仕えた家が落ちるその日に、落とした側の子へ顔を上げて見せて、生き延びた。分けたものは、賢さでも、徳でもない。顔を上げるか、伏せたままでいるか――半分の呼吸ほどの違いだった。
移される車の上で、甄氏は、一度だけ、北を見た。
夫の袁熙は、まだ、生きている。生きている夫を残して、その妻の身が、勝った側へ運ばれていく。甄氏は、北から目を戻した。目を戻した先には、崩れた城壁があり、その向こうに、秋の空が、広く白んでいた。




