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三国志 ―正史群像―  作者: ソリトん
第三部 三つへの収斂(しゅうれん) / 第一章 河北の同士討ち

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第6話:漁夫を待つ

 ――建安八年(二〇三年)、豫州西平。


 辛毗は、曹操の陣に着いて、まず、旗の向きに、目を疑った。

 北を向いている旗が、一本も、なかった。陣は南へ張られ、荷駄も、斥候も、南へ向けて動いていた。荊州(けいしゅう)の劉表を討つ支度である。河北では、袁氏の兄弟が、いままさに食い合っている。その河北へ来てくれと乞いに来た使者の目の前で、曹操の軍は、河北に背を向けて、逆の方角へ歩き出そうとしていた。

 袁譚の使者として、降りたいと申し入れてから、幾日か過ぎていた。曹操は、すぐには会おうとしなかった。辛毗を陣に留め置いたまま、幕僚たちと、長く談じているらしい。その談議の中身が、やがて、辛毗の耳にも、洩れ聞こえてきた。

 この南向きは、はじめから、河北のために仕組まれたものだ、と辛毗は知った。

 その年の春、曹操は黄河を越え、黎陽で袁譚・袁尚の兄弟を破っている。勝ちに乗って、そのまま鄴まで攻め上がるべきだ、と諸将は言い立てた。それを、押しとどめた者が、一人いた。郭嘉(かくか)という、痩せた謀臣である。

 急いではなりませぬ、と郭嘉は説いたという。

 こちらが攻めれば、兄弟は、背中を合わせて助け合う。手を緩めれば、その背中で、また、争いはじめる。ならば、兵を南へ向け、劉表を討ちに行くと見せて、待てばよい。待っていれば、向こうから、変が起きる。起きてから、一度で片をつければよい――と。

 曹操は、その言を容れて、兵を南へ返した。

 辛毗は、その話を聞いて、しばらく、身動きが取れなかった。

 変とは、これのことだった。兄が弟に敗れ、平原に囲まれ、藁にもすがる思いで使者を仕立てて、南へ走らせた。その使者が、自分である。仕掛けられた待ちの中へ、袁氏の側から、自分の足で、歩き込んできた。降りたいと申し入れたその一言が、そのまま、河北を渡す合図になっていた。

 しかも、曹操の将たちの多くは、いまや、その南向きを、本気で望みはじめていた。

 いま、南には劉表がいる。荊州の豊かな地を、大きな兵で押さえている。まず、その南を平らげるべきだ、と多くの者が説いた。河北の袁氏の兄弟など、放っておいても、勝手に食い合って、痩せていく。急いで手を出すことはない、と。

 その中で、一人、逆を説く者がいた。

 荀攸(じゅんゆう)という、曹操の謀臣だった。辛毗は、その名を聞いたことがあった。天下は、いままさに乱れている。袁氏の兄弟が、肉親どうしで争っている、この時をおいて、河北を獲る機はない。いま南へ向かえば、兄弟はまた手を結び、傷を癒やしてしまう。乱れているうちに、乱れているものを獲るのだ――と、荀攸は説いたという。

 やがて、辛毗は、曹操の前に召し出された。

 初めて見る曹操は、思ったより、小柄な男だった。だが、その目だけは、辛毗が対座しているあいだ、一度も、揺れなかった。

 その傍らに、痩せた男が一人、坐っていた。

 血の気の薄い顔で、膝の上に手を置いている。時どき、思い出したように、軽く咳をした。あれが郭嘉だ、と辛毗は、案内の吏の目の動きで知った。南へ旗を向けさせ、河北の兄弟が咬み合うのを待たせている当人が、その席に、黙って坐っていた。

 曹操は、辛毗に幾つかを問うた。袁譚は、本心から降るのか。河北の内情は、どうなっているのか。そして、最後にこう問うた。


「袁尚は、平原を、落とせると思うか」


 辛毗は、腹を決めて、答えた。

 落とせるかどうかを案じている場合ではない、と辛毗は言った。兄弟が争い、年ごとに戦って、民は疲れ、倉は傾いている。天が、袁氏を内から滅ぼそうとしている。その滅びかけたものを、いま獲らずして、いつ獲るのか。乱れた家は、乱れているうちに取り、亡びかけた地は、亡びかけているうちに併せる。これを逃せば、兄弟はまた和し、河北は、また一つに固まってしまう――辛毗は、そう説いた。

 説きながら、辛毗は、己の言葉の冷たさに、ひそかに身がすくむ思いがした。

 自分はいま、袁譚を救うために来て、その実、河北そのものを、曹操の手に差し出している。袁譚も、袁尚も、この河北の地も、辛毗の一族が長く仕えた家のすべてが、この小柄な男の膳(ぜん)の上に載せられようとしていた。それを載せているのは、ほかならぬ、自分の口だった。

 曹操は、辛毗の言葉を、最後まで黙って聞いていた。

 それから、傍らの痩せた男へ、目をやった。

 郭嘉は、軽く咳をしてから、口を開いた。


「兵を南へ向けたのは、南のためではありません。あの兄弟に、背中を合わせる暇を与えぬためです。攻めれば結び、放てば咬み合う。……その使者が、こうして参りました。いま旗を返せば、一度で済みます」


 曹操が、短く言った。


「旗を、北へ」


 それで、決まった。袁譚の降を容れ、兵を北へ返す。さらに、曹操は、袁譚の娘を自分の子の嫁に迎える、と約した。婚姻で結び、援けの兵を出す。袁譚は、大いに喜ぶだろう。

 だが、辛毗には、見えていた。

 曹操は、袁譚を救うために、北へ動くのではない。兄弟が食い合って、両方が弱りきるのを待っていたのだ。弱った兄を援けるふりをして、まず弟を潰し、返す手で、その兄をも呑む。婚姻の約も、いまだけの絆だ。曹操は、袁譚を援ける将としてではなく、河北を獲る主として、黄河を渡ろうとしていた。

 辛毗は、曹操の前を下がった。

 役目は、果たした。袁譚は、当座、救われる。だが、その代わりに、辛毗は、己の一族の乗り換える先を、この目で見定めてしまった。強い方へ、賢い方へ、人は移る。地に根を張った名門が割れれば、そこに仕えた名士は、こうして、勝つ側へ流れていく。辛毗の家は、その日、静かに袁氏を離れ、曹操の側へ渡った。


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