第1話:五色の棒
――熹平三年(一七四年)、洛陽。
長社の草が焼けるより、十年前のことである。
曹操が初めて官に就いたのは、二十歳のときだった。
孝廉――地方から推挙される、官吏の入り口である――に挙げられて郎となり、ほどなく、洛陽北部尉に任じられた。都の北の一画の、治安を預かる役――そのあたりの取り締まりの長である。若い官が、最初に踏む段の一つだった。
曹操の家は、家柄でいえば、妙なところにあった。祖父は、宮中で最も高い位まで上った宦官で、その養子が、曹操の父だった。宦官の家――そう見られていた。名門の名士たちは、宦官の孫だと言って、曹操を侮った。一方で、宦官たちは、曹操を、当然、自分たちの側の者だと思っていた。
その若い官が、着任して、まずしたことは、そのどちらの見込みをも、裏切ることだった。
曹操は、役所の門の左右に、五色に塗り分けた棒を、十数本、掛けさせた。
そして、布告した。
「夜、みだりに出歩くことは、禁じられている。この禁を犯す者は、たとえ、どれほど尊い家の者であろうと、この棒で、打ち据える」
都の夜には、もとより禁があった。だが、その禁は、力のある家の者には、あってないようなものだった。取り締まる側が、権勢を憚って、見て見ぬふりをする。だから、力のある家の者ほど、夜を、わがもののように歩いた。
その夜を、二十歳の北部尉が、一本の棒で仕切ると言い出した。
ほどなく、その棒が、使われる日が来た。
夜、禁を犯して歩く者があった。小黄門・蹇碩の叔父だった。
小黄門といえば、帝のそば近くに仕える宦官である。蹇碩は、その武勇を帝に愛でられた男だった。その一族となれば、都で恐れるものは、何も無い。叔父は、頼むところがあって、夜を歩いたのだろう。まさか、宦官の家に育った若い官が、宦官の一族に手を出すとは、思いもしなかった。
曹操は、その叔父を、門の前で、捕らえさせた。
縄を打たれても、男は、笑っていた。
「小僧。わしが、誰の縁の者か、知っておるか」
「知っている」
「知っていて、この縄か」
「知っているから、この縄だ」
曹操は、掲げたとおりに、五色の棒で、その男を、打ち殺した。
宦官の家に生まれた者が、帝に愛でられた宦官の一族を、みずからの手で、打ち殺した。
都は、粛然とした。
その後、夜、禁を犯す者は、絶えたという。力のある家の者も、若い北部尉の門の前を通るときは、口をつぐんだ。
だが、その静けさの下で、宦官たちは、曹操を忘れなかった。身内を棒で殺された恨みは、消えなかった。かといって、法どおりに禁を正した官を、表立って罰することもできない。
やがて、曹操は、都から出された。頓丘の令に移すという、栄転の形で。だが、それが、都の宦官たちから遠ざけるための措置であることは、誰の目にも明らかだった。
曹操は、頓丘へ発つとき、そのことを、ひとことも評さなかった。
なぜ、蹇碩の叔父を打ち殺したのか。宦官の側でないと示すためか。名を売るためか。あるいは、ただ、掲げた法を、掲げたとおりに用いただけなのか。その答えを、曹操は、胸の内から外へは出さなかった。宦官の孫でありながら宦官を打ち、名士に侮られながら名士よりも厳しく法を説き、そのどちらの側にも、身を置かなかった。
のちに都へ召し返され、議郎という官に就いたときも、同じだった。かつて宦官に排されて死んだ竇武や陳蕃ら、清らかな臣たちに着せられた無実の罪を、曹操は上奏して訴えた。その訴えも、容れられはしなかった。正しいことを正しいと申し立てるたびに、曹操は、中枢から少しずつ遠ざけられた。それでも、申し立てることを、やめはしなかった。
棒は、門に掛かったまま、残った。




