第4話:奥の五人
――建安七年(二〇二年)五月、冀州鄴。
甄氏は、朝から、白い麻の布を裁っていた。
夫の父である袁紹が息を引き取って、三日が経っていた。屋敷の奥は、喪の支度で埋まっていた。死装束の布を裁ち、灯の油を絶やさぬように足し、弔いに来る者の名を書きつける。棺は、まだ閉じられていない。日を選んで葬るまで、遺骸は、広間に置かれたままだった。
甄氏は、この家の次男・袁熙の妻だった。
夫は、遠い幽州の任地にいる。嫁いだ翌年から、ずっとそうだった。夫のいない嫁が、夫の母に仕えて、屋敷の奥にいる。それが、この二年ほどの、甄氏の暮らしのすべてだった。夫の母を、劉夫人という。袁紹の正妻であり、末子の袁尚を産んだ人である。
その日の昼、劉夫人が、奥の女たちを、一間へ集めさせた。
集められたのは、五人だった。いずれも、袁紹が近ごろ寵愛した側室である。年かさの者でも、甄氏とそう変わらぬ歳に見えた。いちばん若い者は、まだ十六か、七だった。五人は、白い喪の衣のまま、床に並んで坐らされた。
劉夫人は、その前に立った。声は、静かだった。
「お前たちは、あの人によく仕えた。……あの人のところへ、行きなさい」
甄氏は、部屋の隅に控えていた。
言葉の意味が、初めは、頭に入らなかった。いちばん若い女が、床に手をついた。顔を上げ、何かを言おうとした。
「奥さま。わたしは、何も――」
「何もしていない。知っている」
劉夫人は、それだけ答えた。
廊下から、男たちが入ってきた。袁尚の付けた者だった。甄氏は、目を伏せた。伏せた視野の端を、白い衣の裾が、いくつも、引きずられていった。声は、思っていたより、短かった。
それが済むと、劉夫人は、鋏を持ってこさせた。
五人の髪を、根元から切り落とさせた。切った髪は、床にひとまとめに集められた。それから、墨を磨らせ、その顔に、塗らせた。
甄氏は、墨を磨る役に、あてられた。
水を落とし、墨を回した。黒が、少しずつ濃くなっていく。なぜ、そこまでするのか。分からないまま、手を動かした。劉夫人が、誰にともなく、言った。
「死んだ者に、目があったなら。……あの人が、下でこの顔を見て、それでも見分けられるものかどうか」
甄氏の手が、止まった。
妬みだった。死んだ夫が、地の下でこの五人と会うことを、この人は恐れている。恐れているから、髪を落とし、顔を塗り潰す。生きている者の妬みが、死んだ者の行く先にまで、手を伸ばしていた。
その数日のうちに、五人の家の者たちも、ことごとく殺された。
袁尚が、そう命じたという。母のした始末に、後から出る恨みが残らぬよう、根まで抜いた。父の座を継ぐと触れられたばかりの若い当主が、家の外へ向けて最初に振るった力が、それだった。
夜、甄氏は、劉夫人の部屋に呼ばれた。
劉夫人は、灯の下で、甄氏の顔を、長いあいだ見ていた。それから、言った。
「怖いか」
「……はい」
「正直な子だ。私は、あの人の妻だった。妻だから、あれをした。お前は、熙の妻だ。熙は、幽州にいる。……お前は、ここで、生きておいで」
甄氏は、頭を下げた。
下げながら、昼に見た白い衣の裾を、思い出していた。あの五人は、何もしなかった。何もせずに、ただ、この家のいちばん強い男に寵愛された。それだけで、その男が死んだ日に、命を落とした。
女の身は、仕えた男とともに上がり、その男とともに落ちる。上がるも落ちるも、自分では決められない。
甄氏自身も、この屋敷へは、家と家の取り決めで来た。会ったこともない男の妻になり、その男の顔を年に幾日か見るだけで、二年が過ぎた。
部屋へ戻ると、広間の灯が、まだ絶えずに燃えていた。
甄氏は、髪を解いて、指で梳いた。爪の際が、まだ黒く汚れていた。指の腹に、墨の匂いが残っている。昼に、床へひとまとめに集められた、あの黒い髪の山が、目の裏に残っていた。この家は、外の敵に攻められる前に、内側で、こういうことをする家になっていた。




