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三国志 ―正史群像―  作者: ソリトん
第九章 地と人

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第16話:降る者たち

 ――建安五年(二〇〇年)、官渡。


 烏巣の火は、官渡の、両方の陣から、見えた。

 張郃(ちょうこう)は、その赤い空を、袁紹の本陣で見上げていた。

 河北の将である。袁紹に仕えて、久しい。あの火が何を意味するかは、見た瞬間に分かった。張郃は、袁紹の前に進み出た。


「烏巣へ、全てをお向けください。曹操が、自分で行っております。あの男が自分で出た以上、勝ち負けは、あそこで決まります。ここに残す兵は、要りませぬ」


 だが、郭図が、別のことを言った。


「烏巣へ兵を割くより、手薄になった曹操の本陣を叩くほうが、早うございます。本陣が落ちれば、曹操は、帰るところを失う。烏巣を焼いたところで、帰る先が無ければ、あの五千は、野で干上がりましょう」


 袁紹は、卓の縁に、両手を置いていた。

 張郃は、その手を見ていた。灯が低く、指の影が、卓の上に長く伸びていた。袁紹は、どちらの顔も見なかった。しばらくして、口を開いた。


「……両方だ」


 張郃は、聞き返しかけて、やめた。


「烏巣へは、騎を出す。多くは要らぬ。淳于瓊には、一万余がついている。一万余が、五千に破られるということが、あろうか。……本陣は、郃と、覧とで、攻めよ。攻めれば、曹操は帰る。帰れば、烏巣の火も、それきりだ」


 誰も、何も言わなかった。

 袁紹は、それきり、口をきかなかった。

 烏巣へは、わずかな騎だけが送られた。本陣へは、張郃と高覧が向けられた。どちらにも、兵は出た。どちらにも、足りなかった。

 張郃は、それを承知しなかった。承知しないまま、命じられて、出た。


 曹操の本陣は、堅かった。

 守っていたのは、曹洪だった。かつて滎陽の敗け戦で、曹操に自分の馬を譲り、走って逃がした、あのいとこである。曹洪は、少ない兵で、張郃と高覧の攻めを、受け止めた。

 張郃は、何度も、寄せた。

 寄せて、跳ね返された。土塁は高く、壕は深く、守る側の兵は、退がらなかった。留守の陣とは思えぬ手応えだった。攻めながら、張郃は、北の空を、幾度も見た。赤みは、消えるどころか、広がっていた。

 やがて、報せが来た。

 烏巣が、焼け落ちた。淳于瓊は、討たれた、と。

 張郃は、攻めの手を止めた。

 止めて、しばらく、動かなかった。烏巣が焼けた以上、河北の十万は、明日から食えない。食えない軍は、戦えない。この本陣を、たとえ今日抜いたところで、明日には、自分たちのほうが、飢えて崩れる。

 背後では、郭図が、すでに動いているはずだった。

 烏巣への救援を渋らせたのは自分ではない、張郃が力を尽くさなかったからだ――そう吹き込むだろう、と張郃には分かった。負けたとき、名門の陣で誰が先に責めを負わされるかは、田豊が獄へ入れられたときに、もう見えていた。

 思ったとおりのことが、思ったより早く、耳に入った。

 本陣から下がってきた吏が、馬を寄せて、低い声で告げた。郭図どのが、主公の前で、こう申されました――郃は、味方が敗れたのを喜んで、口の利き方まで無礼になっております、と。

 張郃は、うなずいて、その吏を帰した。

 驚きは、無かった。読んでいたことが、そのとおりに起きただけである。ただ、読んでいたことと、実際に言われたこととのあいだには、一つだけ、違いがあった。読んでいるうちは、まだ、引き返せる。言われてしまえば、もう、引き返せない。

 高覧が、張郃を見た。

 張郃は、うなずいた。それだけで、話は済んだ。二人は、攻めの手を引き、使いを立てて、曹操へ降ることを、申し出た。攻め道具を焼き、兵を並べ直させ、そのまま、曹操の陣へ向かった。


 曹操の陣の門は、しばらく、開かなかった。

 罠ではないか、と疑われているのだ、と張郃には分かった。門の内で、人が行き来する気配がした。張郃は、馬を下りて、待った。後で聞けば、守将の曹洪は、最後まで疑っていたという。受けよ、と言ったのは、傍らにいた荀攸だった。張郃らは心底、袁紹を見限っている。この降りは、本物だ、と。

 やがて、門が、開いた。

 張郃は、剣を外して、差し出した。

 受け取る側の兵が、無言で、それを受けた。張郃の顔は、動かなかった。悔しさも、安堵も、そこには出ていなかった。ただ、剣を手放したあと、一度だけ、北を振り返った。振り返って、すぐに、向き直った。

 名門の大軍を支えていた将たちが、こうして、雪崩を打って、崩れはじめた。

 地も、兵も、穀も、勝っていたはずの袁紹の大軍が、兵糧の火ひとつで、根こそぎ、崩れた。


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