第15話:烏巣の火
――建安五年(二〇〇年)、烏巣。
空の端が、灰色になった。
曹操は、そこで、手を上げた。
五千は、抱えてきた薪を、下ろした。
烏巣の営は、低い土の塁と、鹿角――枝を尖らせ、外へ向けて組んだ柵とに、囲まれていた。その柵の外側へ、五千束の薪が、一息に積まれていった。積んだそばから、火が移された。
曹操は、枚を、捨てさせた。
一晩、口の中の木に押し込められていた声が、いっせいに出た。五千の喉が、同時に開いた。鬨の声が、烏巣の夜明けを、割った。
火は、風下から回った。
乾いた薪と、乾いた鹿角である。火は、柵を舐めるようにして走り、土塁の裾を、赤い線で縁取った。営の中で、悲鳴が起きた。次に、太鼓が鳴った。
太鼓は、寝ぼけていなかった。
曹操は、それを聞いて、目を細めた。この営の将は、酒を飲む男だと聞いた。だが、飲んだあとで、太鼓を鳴らせる男でもあるらしかった。
淳于瓊は、思いのほか、早く動いた。
営の門が、内から開いた。開いて、兵が出てきた。塁の上から、寄せ手の数を数えたのだろう。五千である。一万余を抱える将にとって、五千は、押し返せる数だった。
淳于瓊は、営の外に、陣を布こうとした。
迎え撃つ形ではない。野へ出て、押し包んで潰す形だった。理屈は、通っている。数がある。南からは、味方の救援も来る。塁の内で待つより、外へ出て、数で押し潰すほうが早い――淳于瓊は、そう踏んだはずだ、と曹操は見た。烏巣を預かる将としては、間違った踏み方では、なかった。
曹操は、その陣が整いきる前に、突っ込ませた。
「布かせるな」
その一言だけで、五千が、前へ出た。
真っ先に取りついたのは、楽進だった。背の低い、肩の張った男である。名門の出でもなく、兵を多く預かってもいないが、この男は、いつも列のいちばん前にいた。攻める場所を指させば、そこへ、最初に体を入れる。曹操が、この夜、名の知れた将よりも下役を多く連れてきた中で、この男だけは、外さなかった。
楽進の一隊が、整いかけた列の腹へ、斜めに入った。
列は、腹を突かれると、両側へ割れる。割れた片方が、後ろの門へ戻ろうとした。戻ろうとする兵と、まだ出ようとしている兵とが、門のところで、詰まった。
淳于瓊は、そこで、退いた。
退き方は、乱れていなかった。門で詰まった味方を、槍の柄で殴りつけて押し込み、追ってくる寄せ手を、自分の隊で受け止めた。受け止めながら、少しずつ下がり、いちばん最後に、門をくぐった。門が、閉まった。
ここからが、長かった。
曹操は、五千を、四つに分けて、四方から塁に取りつかせた。
塁は、低い。だが、低い塁でも、上に人が立てば、槍は上から来る。石も、上から落ちる。取りついた兵が、次々に、下へ落とされた。落ちた兵の上に、次の兵が乗って、また登った。
一度目は、押し返された。
二度目も、押し返された。三度目に、東の一角で、十人ばかりが塁の上へ乗った。乗った十人は、内側から槍で囲まれて、一人も戻ってこなかった。
淳于瓊は、その一角へ、自分で来ていた。
曹操は、塁の下から、それを見た。将旗が、東へ動いた。破られかけた場所へ、将が、自分で寄る。それができる将のいる営は、数だけの営ではない。
空が、白んだ。
白んで、火の色が、薄くなった。焚いた薪は、柵を焼き、塁の裾を焦がしたが、そこで止まっていた。煙は、まだ、白かった。
白い煙は、外側だけ、という意味である。
穀の山は、営の内にある。外から火を放っただけでは、穀の芯までは、届かない。届かせるには、この塁を、越えねばならなかった。曹操は、そのことを、上ってくる日の光の中で、はっきりと知った。
日が、地の縁から離れた頃、南の空の下に、埃が立った。
左右の者が、曹操の馬の傍らへ寄ってきた。
「賊の騎が近づいております。兵を分けて、防ぎましょう」
曹操は、振り向きもしなかった。
「賊が、背に着いてから、言え」
それで、話は終わった。
背中に敵が来るのは、分かっていた。分かったうえで、振り分けなかった。振り分ければ、正面が緩む。正面が緩めば、穀は焼き切れない。焼き切れなければ、この五十里を歩いた意味が、無くなる。
言った者は、口を噤んだ。
噤んで、自分の隊を連れて、塁へ取りついた。それきり、誰も、二度と後ろのことを言わなかった。後ろを見るなと命じられた兵は、後ろが無いのと同じことになる。烏巣の営を囲んだ五千は、この時から、退く算段を、一人も持たなくなった。
死にもの狂いの戦いだった。
塁に取りつく者は、盾を捨てた。捨てて、両手で登った。上から突かれれば、その槍の柄を掴んで、引きずり下ろした。落ちた者が、落ちた場所で、また立ち上がった。曹操は、馬を下りて、塁のすぐ下まで出た。将が下がらなければ、兵は、下がる場所が無い。
四つ目の一角が、破れた。
破れると、あとは早かった。土塁は、内側から崩れる。一万余は、外へ出る形を失って、営の中で、押し合いになった。
穀の山は、営の奥にあった。
一万余乗の糧車が、梶棒を外して、幾重にも並べられ、その上に、麻袋が、屋根の高さまで積み上げられていた。それが、幾つも、幾つも、続いていた。曹操は、その前で、馬に乗り直した。
河北の四州が、十年かけて集めた穀である。
冀州の畑と、青州の畑と、幽州の畑と、并州の畑から、車に載せられて、ここまで来た。それを、いま、焼く。焼けば、この穀を作った者たちの一年も、一緒に消える。曹操は、そのことを、知らないわけではなかった。知ったうえで、手を上げた。
火が、入れられた。
穀の山が燃え落ちるまでには、長い時間がかかった。
麻袋の外側は、すぐに燃えた。だが、中の穀は、押し固められている。火は、袋の表を舐めて、そこで一度、止まった。止まって、燻った。煙が、白から、灰色に変わった。灰色から、黒くなった。黒くなってから、ようやく、袋の内側が、赤く透けはじめた。
その頃には、日は、だいぶ高くなっていた。
熱で、近寄れなくなった。梶棒がはぜて、鞭のような音を立てた。焼けた穀の匂いは、思いのほか、甘かった。その甘い匂いが、風に乗って、南のほうへ流れていくのを、曹操は、馬の上で、見ていた。あの匂いは、袁紹の陣まで届くだろうか、と思った。
淳于瓊は、生きて、引き出された。
鼻を、削がれていた。曹操の兵が、そうしたのである。血が、顎から、胸の鎧まで垂れていた。
曹操は、馬を下りて、その前に立った。
「どうして、こんなことになった」
淳于瓊は、顔を上げた。
「勝ち負けは、天が決めることだ。訊いて、何になる」
曹操は、しばらく、その顔を見ていた。
この男とは、若い頃、都で顔を合わせていた。霊帝が、都に新しい軍を起こし、八人の指揮官を選んだことがある。袁紹がいて、この淳于瓊がいて、そして、自分がいた。同じ列に並んで、同じ天子の前に立った。あれから、十二年が経っていた。
惜しい、と曹操は思った。
思ったのが、顔に出たのだろう。傍らに立っていた許攸が、低く言った。
「明日の朝、この人は、鏡を見ます。そのたびに、誰にされたかを、思い出す。生かしておけば、忘れませぬ」
曹操は、うなずいた。
淳于瓊は、斬られた。斬ったのは、楽進だった。淳于瓊の下にいた四人の将も、順に討たれた。
曹操は、そのあと、捕らえた者たちの鼻を削がせた。
削いだものを、まとめて、袁紹の陣へ送りつけさせた。烏巣は焼けた、という一事を、いちばん早く、いちばん確かに伝える方法だった。使いの口上も、書状も、要らない。それを見れば、河北の十万は、明日から自分たちが食えないことを、一目で知る。
曹操は、それを命じるとき、声を荒らげなかった。
徐州の県を屠り、泗水を屍で堰き止めた男は、天下の分かれ目の朝にも、同じことを、静かにやっていた。
南から来た騎は、結局、背には着かなかった。
数が、少なすぎた。烏巣の空が黒くなったのを見ると、遠巻きにしたまま、しばらく動かず、やがて、北へ引いていった。
これだけの火が上がっている場所へ、あれだけの騎しか、送ってよこさない。
曹操は、それを見て、袁紹という男の決めきれなさを、もう一度、確かめた。あの人は、烏巣を捨てたのでも、救ったのでもない。どちらも、決めなかったのだ。決めなかったことだけが、この夜、いちばん確かに、決まっていた。
穀の山が、崩れたのは、日が頭の上に来る頃だった。
積み上げられた山が、内側から沈み、車ごと、地に落ちた。落ちるとき、地面が、低く鳴った。火の粉が、まっすぐ上がって、そのまま、風に流れた。袁紹の十万を支えていた食う根が、一つずつ、灰になっていった。
曹操は、焼け落ちた跡に立って、しばらく、その灰を見ていた。
灰は、まだ熱を持って、風に舞い上がっていた。足で踏むと、深く沈んだ。沈んだところから、また、細い煙が上がった。踏むたびに、靴の底が、熱かった。
この灰の分だけ、河北の十万は、痩せる。
地も、兵も、穀も、勝っていた大軍が、この灰の分だけ、明日から、痩せていく。曹操は、それを確かめてから、はじめて、背後のほうへ、顔を向けた。




