第14話:夜の道
――建安五年(二〇〇年)、官渡。
許褚は、幕の入口の柱の脇に立って、それを聞いていた。
巨きな男である。宛で典韋が門を塞いで死んでから、曹操の身辺を守る役は、この男に回った。役目は、幕の内で誰が何を言おうと、耳に入れたうえで、何も言わないことだった。
その夜、曹操は、許攸に、同じことを、三度、言わせた。
幕の内には、灯が一つきり点いている。許攸は、走ってきたままの、埃だらけの姿で坐っていた。報せが来たとき、曹操は、履も履かずに幕を出て、手を打って、この男を迎え入れた。許褚は、その裸足の足の裏が、土で黒くなっているのを、後ろから見た。
三十年、袁紹の傍らにいた男である。
その男が、いま、袁紹の腹の中身を、一つずつ、卓の上に並べていた。
「もう一度だ。どこに、どれだけある」
「烏巣だ。袁公の本陣から、北東へ四十里。糧車が、一万余乗。河北の四州から掻き集めた穀の、ほとんどが、あそこに積んである」
「守りは」
「淳于瓊ら、五人の将。兵は、一万余」
一万余、と曹操が、口の中で繰り返した。
許褚にも、その数の重さは、分かった。こちらが割ける兵は、その半分にも届かない。
「厚いではないか」
「厚くはない。数があるだけだ」
許攸は、指の節で、卓を叩いた。
「淳于瓊は、酒を飲む。日が落ちれば、営の内で飲む。外へは、斥候の一騎も出さぬ。なぜだと思う。あそこは、十万の懐の、いちばん奥だからだ。懐の内に、敵が入ってくるはずがない。袁公の陣の者は、みな、そう思っている。私も、昨日までは、そう思っていた」
曹操は、卓に広げた絹の図を、指でなぞった。
「道は、一本か」
「二本ある。東の道は、袁公の輜重が、毎日、通る。西は、村と村のあいだを縫って、遠回りになる。四十里が、五十里を越える」
「西を行く」
「遠いぞ」
「遠いほうが、人が薄い」
その夜のうちに、曹操は、将たちを幕へ集めた。
烏巣を焼く。私が、自分で行く。そう言った途端、幕の内が、ざわめいた。
「罠でございましょう」
声を上げたのは、営を預かる将の一人だった。
「三十年、袁紹の傍らにいた男です。その男が、一夜のうちに走ってきて、袁紹の食う根の在り処を、そっくり差し出す。話が、できすぎております。あの男の言葉一つを、五千の命で買われるのですか」
もっともな言い分だ、と許褚は思った。曹操も、否とは言わなかった。
言わずに、荀攸のほうを見た。この寡黙な戦術家は、めったに、先に口をきかない。
「用いるべきです」
荀攸は、そう言ってから、少しだけ、言葉を足した。
「袁紹の輜重が一所に集められていることは、こちらの斥候も、前から見ております。許攸が埋めたのは、その場所と、守りの数だけです。作り話をする者なら、守りの数を、もっと少なく言うでしょう。この人は、一万余、と言った。多く言えば、こちらは行かなくなる。行かせたい者の言い方では、ありません」
賈詡は、腕を組んだまま、短く言った。
「先日、申し上げました。公は、万全を期しすぎておられる、と。万全でない手を採ることを、決める、と申します」
曹操は、それきり、誰にも問わなかった。
行く、と言った。それで、話は終わった。許褚は、柱の脇から動かずに、幕の内の者が一人ずつ出ていくのを、目で数えた。
選ばれたのは、歩騎あわせて五千である。
幕下の精兵から、夜目の利く者と、長く黙っていられる者を、抜いた。名の知れた将よりも、下役の者を多く採った。名のある将の顔は、袁紹の陣の者にも、知られている。許褚は、自分が外されるかどうかを、しばらく待った。外されなかった。この人が行く場所に、自分がいないという選び方は、この陣には、無いらしかった。
留守の本陣は、曹洪に託された。
「洪。陣は、渡さぬな」
「渡しません」
「囲まれても、門を開けるな。私が帰るまで、誰が何を言ってきても、だ。降ると言って寄せてくる者があっても、開けるな」
曹洪は、うなずいた。それだけだった。
十年前の滎陽の夜、崩れた戦の中で、自分の馬を曹操へ押しつけ、その脇を自分の足で走った、いとこである。天下に洪はいなくてもよい、と言ったという。陣の古い兵は、みな、その話を知っていた。許褚は、曹操が背中を誰に預けるかを見るとき、いつも、この男の名が最初に出るのを、知っていた。
荀攸が、その傍らに残った。策の要る場面は、この男が引き受ける。曹洪は、決して門を開けぬ男である。荀攸は、開けるべき一瞬を、見分けられる男だった。その二人を置いて、曹操は、身軽になった。
袁紹の旗は、幕舎の裏に、積んであった。
白馬と延津で分捕ったものである。土と血で汚れ、縁がほつれていたが、それが、かえってよかった。真新しい旗を掲げて夜道を行くほうが、よほど怪しまれる。
枚が、配られた。
枚とは、箸ほどの短い木で、両の端に細い紐がついている。それを口に横にくわえさせ、紐を首の後ろで結ぶ。くわえた者は、声も、咳も、返事も、出せなくなる。五千の兵が、その一本ずつを受け取り、黙って口に入れていった。馬の口も、布で縛った。
許褚も、一本、口に入れた。
守る者が声を出せないというのは、はじめてだった。声が出せなければ、危ういと叫ぶこともできない。できるのは、間に体を入れることだけである。それでいい、と許褚は思った。もともと、その役だった。
そして、一人に一束ずつ、薪が配られた。
乾いた薪である。五千束の薪が、暗がりの中で、静かに、兵の腕に収まっていった。それが何のためのものかを、口を塞がれた兵たちは、言葉にせずに、分かっていた。
日が落ちてから、出た。
月は、細かった。五千は、二列になって、西の道へ入った。声がしない。蹄の音と、薪の擦れる音と、革の軋みだけが、列に沿って、後ろへ流れていった。命令は、手で伝えた。前へ、止まれ、伏せろ――その三つだけを、出る前に、決めてあった。
曹操は、列の三分の一ほどのところで、馬を進めた。
先頭ではない。先頭には、河北の言葉を使える兵が、幾人か置かれていた。この夜、五千の中で、声を出してよい者は、その幾人だけだった。
許褚は、その半馬身うしろにいた。
右の後ろである。左でも、真後ろでもない。矢は右から来ることが多い、というだけの理由で、宛のあとから、そう決めていた。
最初に呼び止められたのは、五里ばかり行った、道の分かれ目でのことだった。
脇の小屋から、見張りの兵が二人、槍を提げて出てきた。眠そうな顔だった。
「どこの兵か」
「袁公は、曹操が我らの後軍を襲うのを恐れておられる。備えを増やすために、兵を遣わされた」
「ご苦労」
それだけだった。二人は、道を空けて、また小屋へ戻っていった。
五千は、その脇を、黙って通り過ぎた。
二度目は、その半刻ほど後だった。
松明を提げた騎が、道の脇から出てきて、列の前を塞いだ。身なりからして、将である。松明を、高く掲げた。火の輪が、袁紹の旗を、下から照らした。
風が無く、旗は、垂れていた。
曹操が、顔を伏せた。
許褚は、その代わりに、松明のほうを見た。垂れた旗は、紋が読みにくい。だが、垂れているぶん、火に近い。松明が、あと一尺上がれば、旗の下の兵の顔が、順に照らされていく。許褚は、鞍の前の輪に置いた手を、少しだけ、右へ動かした。剣の柄のあるほうである。動かして、そこで止めた。
抜けば、この五十里は、終わる。
答える兵が、同じ言葉を、同じ調子で言った。
「淳于将軍のところか」
「そうだ」
「なら、急いだほうがいい。あそこの酒盛りは、長い」
将は、そう言って、笑いながら、松明を下ろした。
道が、空いた。五千の兵の肩が、暗がりの中で、揺れた。声は、一つも出なかった。口の中の木が、それを止めていた。
夜が更けるにつれて、圧が、濃くなった。
村を抜けるとき、犬が吠えた。一匹が吠えると、次の村でも吠えた。列は、そのたびに、歩調を変えずに歩いた。歩調を変えれば、その村の者が、窓から見る。
一頭の馬が、鼻を鳴らしかけた。乗り手が、その首に覆いかぶさって、押さえ込んだ。その背が、しばらく震えていた。若い兵が、咳をこらえて、体を折った。枚が、その音を、外へ出さなかった。
許褚は、前を行く背中を、見ていた。
背中は、一度も、振り返らなかった。犬が吠えても、灯が寄っても、歩調が変わらなかった。振り返らない背中というものが、これほど後ろの者の足を止めさせないものだとは、許褚は、知らなかった。
五千は、いま、袁紹の十万の、腹の中を歩いている。
見破られれば、一人も帰らない。それだけでは済まない。五千が消えれば、官渡の本陣は、その日のうちに抜かれる。抜かれれば、許が開く。許が開けば、天子を失う。十年かけて集めた人が、一夜で、散る。すべてが、この五十里の上に、載っていた。
載せた根拠は、昨夜、走ってきた男の、一言だけである。
許褚は、算のことは、分からない。分かるのは、この人が、確かめずに出たということだった。確かめてから出られる話なら、この五千を連れてくる必要は、無かった。
三度目に呼び止められたのは、烏巣まで、あと十里ほどのところだった。
道の脇の陣屋から、幾人もが出てきた。数が多い。手に、灯を提げている。先頭の兵が、また、同じことを言った。
「袁公は、曹操が我らの後軍を襲うのを恐れておられる。備えを増やすために、兵を遣わされた」
返事が、なかった。
灯が、一つ、二つと、列のほうへ寄ってきた。旗を照らし、兵の抱えた薪を照らした。薪を照らしたところで、灯が止まった。
許褚は、曹操の手を見た。
手綱を握る手に、力が入っていない。入れれば、馬が動く。馬が動けば、乗っている者が誰なのかを、見る者は見る。その手は、そのまま、動かなかった。沈黙が、列の後ろのほうまで、波のように伝わっていった。五千が、一斉に、息を止めていた。
やがて、灯の向こうで、男が言った。
「淳于将軍に、伝えてくれ。こちらは、三日、糧が来ていない」
通れ、という意味だった。
先頭の兵が、承知した、と答えた。灯が、退いた。列は、また、歩き出した。
道は、そこから、下りになった。
風が、向きを変えた。人と、家畜と、穀の匂いがした。大きな軍の兵糧が集まっている場所の匂いだった。
やがて、前方の闇の底に、灯が見えた。
一つではない。幾十、幾百と散らばって、低いところに、赤く点っていた。烏巣だった。
曹操が、馬を止めた。
五千も、止まった。誰も、何も言わなかった。言えなかった。許褚は、その半馬身うしろで、口の中の木を、噛んだ。曹操が、東の空を見た。まだ、黒かった。




