第10話:荊州は動かず
――建安五年(二〇〇年)、荊州襄陽。
韓嵩は、その朝も、府の広間の下座に坐って、決まらない話を聞いていた。
北から来た使者は、もう十日、この城に留まっている。持ってきた書には、曹操を挟もう、とあった。袁紹が河を越えて南へ押す。荊州は北へ出て、許の背を衝く。二つの軍で、一人の男を、潰す。書は、そう言っていた。
劉表は、その書に、応じると答えた。
答えて、兵は、出さなかった。
韓嵩は、劉表の下で、従事中郎という官にあった。州の主の名代として使いに立ち、話をつけて帰ってくる役である。この一年、韓嵩が使いに出るのは、南ばかりだった。
南が、荒れていた。
長沙の太守、張羨が、南の三つの郡を率いて、叛いた。叛いて、許の曹操に応じる、と触れて回った。荊州の七つの郡のうち、三つが、そっくり劉表の手を離れたのである。劉表は、その三郡へ兵を回し、囲みを続けていた。
だから、北へは出せぬ。
理屈としては、通っていた。通っていたが、韓嵩には、南が片づいたところで、この人は北へは出さぬだろう、という気がしていた。
劉表は、背の高い、声の低い人だった。
漢の宗室である。天子と同じ血を引いているという一点だけを持って、この州へ入ってきた。入ってきたとき、供は数人しかいなかったという。それが、いま、七つの郡と、十万の兵を持っている。
どうやって手に入れたかを、韓嵩は、知っている。
襄陽の大族と、手を結んだのである。蒯越を出す蒯家と、劉表の妻を出した蔡家と。この二つが、郡や県の役人を出し、田を持ち、人を養っていた。その二つが劉表を認めた日から、荊州は、劉表のものになった。宗室の名分が上に載り、大族の地面が下を支える。荊州の静けさは、その二階建ての上に、立っていた。
使者が去った日の午後、韓嵩は、劉表の前へ出た。
言うべきことは、幾月も、腹の中で温めていた。
「将軍。豪傑が並び立ち、二人の雄が、向き合っております。天下の重みは、いま、将軍の手にある。事を為されるおつもりなら、両方が疲れたところへ乗って、起たれればよい。そのおつもりが無いのなら、どちらに従うかを、いま、お選びになるべきです。十万の兵を抱えて、坐ったまま眺めておられれば――助けを求められて助けず、勝つほうを見ていながら手を貸さなかった、ということになる。その恨みは、二つとも、いずれ将軍のところへ集まります」
劉表は、しばらく、答えなかった。
それから、卓の上の書を、指の腹で、二度、押さえた。
「許を、見てこい」
「許を」
「曹操が、どれほどのものか。朝廷が、どうなっているか。見て、帰って、私に言え」
韓嵩は、頭を下げた。下げてから、顔を上げて、一つだけ、断っておいた。
「行けば、私は、朝廷から官を受けることになるかもしれません。受ければ、その日から、私は天子の臣です。天子の臣になった者は、将軍のために死ぬことは、もう、できませぬ。……行けと仰せなら、行きます。ただ、帰ってきてから、私を責めないでいただきたい」
劉表は、行け、と言った。
――建安五年(二〇〇年)、許。
許は、思っていたより、小さかった。
城壁は低く、宮も、洛陽の焼け跡から運んできた材で、急ごしらえに建てたものだという。だが、市が、立っていた。日の出とともに人が出て、穀が量られ、値がついた。城の外には、田が広がっていた。兵が、鋤を持って、そこに入っていた。戦のない季節は、兵が耕す。耕して穫れた穀を、そのまま、次の戦の糧にする。
韓嵩は、その田を、半日かけて歩いた。
荊州にも、田はある。荊州の田は、家のものだった。蒯家の田、蔡家の田、名のある家の、それぞれの田。ここの田は、家のものではなかった。誰の家にも属さない者が耕し、誰の家でもない倉へ、穀が入っていく。
曹操には地が無い、と韓嵩は聞かされてきた。
地が無いのではなかった。家に属さない地を、あの男は、自分で作っているのだった。
韓嵩は、朝廷から、侍中を授けられた。天子のそば近くに侍る官である。次いで、南の、いま叛いている郡の太守に任じられた。行けぬ土地の太守である。それが何を意味するかは、韓嵩にも分かった。荊州の南は、いずれ朝廷が取り返す、という紙の上の宣言だった。
辞退は、しなかった。
辞退すれば、出る前に劉表へ断っておいたことが、嘘になる。
――建安五年(二〇〇年)、荊州襄陽。
帰った韓嵩は、府の広間で、見てきたままを述べた。
「曹操は、明るく、決めが速く、人を家柄では採りません。朝廷は、形の上では、立っております。……将軍。子息のお一人を、許へお出しになるのが、よろしい」
広間が、鳴った。
人質である。宗室の州牧が、宦官の孫のもとへ、子を差し出す。そう言ったのと、同じだった。
劉表が、立ち上がった。
「買われたか」
「買われてはおりませぬ」
「では、なぜ、そう言う」
「見てきたものを、申し上げております。行く前に、申し上げました。私は朝廷の官を受けるかもしれぬ、と。将軍は、行けと仰せになった」
劉表は、答えずに、兵を呼んだ。
韓嵩は、その場で、縛られた。抗わなかった。抗わずに、縛られたまま、劉表を見上げて、言った。
「将軍が、私に背かれたのです。私は、将軍に背いてはおりませぬ」
劉表の顔から、色が引いた。
斬れ、と言うのだろう、と韓嵩は思った。思ったとき、脇から、声がした。蒯越だった。
「殺すのは、いつでもできます。いま殺せば、この人の言が正しかったのかどうかは、二度と、確かめられませぬ」
劉表は、動かなかった。
そこへ、広間の奥の帳が、上がった。
蔡氏が、入ってきた。
劉表の妻である。蔡家の娘で、州牧の後添えに入った人だった。この広間へ、この人が入ってくるのを、韓嵩は、はじめて見た。蔡氏は、縛られた韓嵩を、一度だけ見て、それから、夫のほうへ、向き直った。
「韓嵩は、荊州の人望です」
「私を、売った男だ」
「売ったかどうかは、私には分かりません。分かるのは、あの人の言が、まっすぐだということです。曲がったことを言って殺されたのなら、殺した理由が立ちます。まっすぐなことを言って殺されたのなら、理由は、立ちません。立たない首を一つ、襄陽の家々へ、あなたが、一軒ずつ、説いて回られますか」
劉表は、答えなかった。
答えずに、韓嵩に従っていった者たちを、調べよ、と言った。
調べは、荒かった。
十幾人が、一人ずつ、別々の部屋で責められた。何人かは、戻ってこなかった。
どの口からも、同じ話しか出なかった。韓嵩は、許で見たものを見たとおりに述べ、受けた官を受けたと述べ、隠したものは何も無かった。
劉表は、韓嵩を、殺さなかった。牢へ、入れた。
牢の中は、暗く、湿っていた。
韓嵩は、そこで、自分がなぜ生きているのかを、考えた。
劉表が、自分の言を信じたからではない。あの人は、いまも、自分が買われて帰ってきたと思っている。それでも殺せなかったのは、蔡氏が、あの一言を言ったからだった。蔡家の娘が、蔡家の言葉で、州牧の手を止めた。
同じことだ、と韓嵩は思った。
兵が北へ出ないのも、同じことである。この州の十万は、蒯家と蔡家の田から出ている。田は、動かない。北へ出すということは、家々の田を、河の向こうの勝ち負けに賭けるということだった。家は、賭けない。家が賭けないから、州は、動かない。
宗室の名分が、劉表をこの座に載せた。大族との合作が、七つの郡を与えた。その二つが揃った日から、この人は、坐っているほかに、できることが無くなっていた。応じると答え、兵は出さず、どちらも助けず、長江と漢水のあいだを保って、天下の変わるのを、眺める。
それは、怠りではない。
この座の、形なのだった。
牢には、季節の音だけが、入ってきた。
夏の雨が、屋根を叩いた。蝉が鳴き、やんだ。北で何が起きているかは、聞こえてこなかった。ただ、この州が何もしていないことだけは、牢の中にいても、分かった。北からの使者は、来ては帰った。兵は、南を囲んだままだった。北へ向かう道は、一本も、伸びていない。
韓嵩は、壁に背を預けて、目を閉じた。
北の勝ち負けは、荊州が決めるのではない。決まってから、風のように、この州へ届く。届いたときには、もう、どちらに付くかを選ぶ余地は、無くなっている。勝ったほうが、いつか南を向くまでの幾年かを、この州は、静かなまま過ごすのだろう。
そして、その静けさを頼って、北で焼け出された者たちが、流れてくる。名のある学者も、負けた将も、行き場を失った者も。
流れ込んでくるものを、この州は、受け止めるだけ受け止めて、それでも、動かない。
韓嵩には、その先が、見えるような気がした。




