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三国志 ―正史群像―  作者: ソリトん
第九章 地と人

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第9話:河を渡る

 ――建安五年(二〇〇年)、黎陽(れいよう)。


 白馬の敗報は、日の傾きはじめた頃に、黎陽の本営へ届いた。

 黎陽は、河の北の岸にある。渡し場を見下ろす高みに袁紹の幕が張られ、その下の河原に、十万の営が、東西に長く伸びていた。沮授は、幕の隅にいた。兵を三つに割かれてから、坐る場所が、少しずつ、後ろへ下がっていた。

 報せを持ってきたのは、白馬から逃げてきた騎だった。膝から下が、泥で黒く固まっていた。


「顔良将軍が、討たれました」


 幕の内が、鳴った。

 聞き違いだろう、と言った者がいた。騎は、首を振った。


「首を、取られました。万の中へ、一騎で入ってきた者があります。旗だけを、まっすぐ見ておりました。将軍は、その者が誰であるかを、確かめる暇も、ありませんでした」


 一騎、と誰かが繰り返した。

 繰り返して、それきり、誰も何も言わなかった。将旗の下に立っていた者が、万の兵に囲まれていながら、一騎に届かれて死んだ。数というものが、そこでは、何の役にも立たなかったということである。

 沮授は、卓の縁を、見ていた。


 顔良を先鋒に出すと決まった日のことを、沮授は、覚えている。

 独りで任せてはなりませぬ、と言った。袁紹は、では誰と組ませる、と訊いた。郭図と、淳于瓊の名が挙がり、三人で行くことになった。座は、それで収まった。

 三人で行って、囲みは、顔良が独りで差配していた。

 郭図は、後ろの陣にいた。淳于瓊は、糧の列についていた。二人とも、顔良の隣にはいなかった。誰も、顔良の袖を引かなかった。引く役は、誰にも割り当てられていなかったからである。

 諫めは、半分だけ、容れられた。

 半分だけ容れられた諫めは、容れられなかったのと、同じだった。独りで任せるなと言われた男が、独りで前へ出て、独りで、死んだ。

 沮授は、最初の死体を、そこに見た。


 その夜のうちに、渡河が、決まった。

 白馬の囲みは解け、曹操は、城の民を引き連れて、河沿いに西へ退いているという。追え、という声が、幕に満ちた。文醜と、寄寓している劉備とに騎を預けて、先に出す。本軍も、河を渡って南へ出る。顔良の仇を討つ、というのが、いちばん通りのよい言い分だった。

 沮授は、進み出た。


「勝ち負けの移り変わりは、細かに見ておかねばなりませぬ。いまは、延津に留まったまま、兵を分けて官渡へ差し向けるのが、よろしい。分けた兵が勝てば、そのときに本軍を迎えにやっても、遅くはありませぬ。もし、思わぬことが起これば――全軍が河の南にいては、誰も、還れませぬ」


 誰も、還れませぬ、というところで、幕の内が、静かになった。

 沮授は、それだけを言った。ほかのことは、言わなかった。持久のことも、名分のことも、もう言わない。この一点だけを分かってもらえれば、それでよかった。

 河は、勝っているあいだは、盾になる。

 負けたその日から、河は、堰になる。十万が、堰の南で、幾艘かの舟に群がることになる。渡るのは、たやすい。還るのが、たやすくない。それだけのことだった。

 袁紹は、答えなかった。

 答えずに、渡し場のほうへ、顎を向けた。それが、返事だった。

 郭図が、脇から言った。


「まだ渡ってもおらぬうちから、負けたときの話をなさる。それこそ、軍の心を挫くというものです。……田豊どのが、いま、どこにおられるか、お忘れではありますまいな」


 沮授は、郭図を見た。

 牢の名を出せば、それで人が黙る。この陣では、いつのまにか、そういう言い方が、いちばん強くなっていた。


 ――建安五年(二〇〇年)、延津の渡し。


 渡河は、二日にわたった。

 舟が、河面を往復した。馬を乗せる大きな舟が幾艘か、あとは、河原の村から集めた小舟である。兵は、四人、五人と分けて乗せられた。乗るときに列が詰まり、詰まったところで、押し合いが起きた。先に渡った者が、向こう岸で、味方の車を待たずに南へ歩き出していた。

 沮授は、渡し場の高みに立って、それを見ていた。

 上に立つ者は、この渡りを、追撃の一手だと思っている。下の者は、先に南へ着いて、先に何かを取ろうとしている。誰も、還るときの話をしていない。

 傍らに、若い吏が一人、控えていた。

 沮授は、その吏に言うともなく、言った。


「上に立つ者は、思いのままになったつもりでおられる。下の者は、手柄を競っている。この大きな黄河を、私は、本当に渡り切れるのだろうか」(悠悠(ゆうゆう)たる黄河、吾其(そ)れ済(わた)らんや)


 吏は、答えなかった。

 答えようのないことを言った、と沮授にも分かっていた。

 舟が、また、戻ってきた。沮授は、最後の組で、乗った。舟が岸を離れるとき、水の音が、思いのほか、静かだった。振り返ると、北の岸が、少しずつ、遠くなっていった。あの岸には、河北の四つの州がある。冀州の畑も、幽州の馬も、鄴(ぎょう)の倉も、みな、あちらにある。

 この舟は、行きは、幾らでも出る。

 帰りは、同じ数だけ出るとは、限らない。


 河を渡りきったその日に、沮授は、病と称して、幕へ出るのをやめた。

 偽りとも言えなかった。渡し場で立っているあいだ、脇腹が、ずっと痛んでいた。ただ、痛みが無くとも、同じことをしたはずだった。言うべきことは、言った。言って、容れられなかった。あとは、口をきかずに、この軍の行く先を見ているほかにない。

 三日して、郭図が、自ら来た。

 供の吏が、名簿を持っていた。沮授の手元に残っていた一軍の、兵の名と、馬と、車の数が、そこに書いてある。


「主公は、お怒りです」


 郭図は、そう言ってから、少し、言い直した。


「……いや、怒っておられるのではない。惜しんでおられる。病んだ身に兵を持たせておくのは酷でしょう、と私が申し上げました。しばらく、こちらでお預かりする」

「しばらく、とは」

「病が癒えるまで、です」


 郭図は、名簿を受け取って、丁寧に巻いた。


「悪く思われますな。あなたが、自分から下りられたのです。私は、空いた席へ、坐りに来ただけだ。……こういうことは、続くものです。次に何か申し上げれば、次のものが、また減る。分かっておられるでしょう」


 郭図は、頭を下げて、帰っていった。

 沮授は、天幕の垂れが揺れて、また静かになるのを、見ていた。

 二度目である。

 一度目は、出陣の前だった。権を持ちすぎると告げ口され、軍を三つに割かれた。二度目が、これである。諫めるたびに、兵が減っていく。この二つを並べれば、この陣の理屈は、はっきりしていた。正しいことを言えば、その者は、軽くなる。軽くなれば、次に言う言葉は、もっと軽くなる。

 軽くしておいて、それから、聞かない。

 順序が、逆なのだ、と沮授は思った。聞かないから軽くなるのではない。軽くしてから、聞かずに済ませているのだった。


 延津の報せは、それから幾日かして、退いた身のまま、耳に入った。

 沮授は、営の外で、生きて帰った騎の口から、それを聞いた。

 道の上に、荷車が、守りもつけずに並べてあったという。輜重である。兵糧と、絹と、鎧と。追ってきた騎が、それに群がった。群がって、列が、ばらばらになった。ばらばらになったところへ、坂の上から、伏せていた騎が下りてきた。文醜は、その乱れの中で、討たれた。


「将軍は、止めておられました」


 騎は、そう言った。


「荷に構うな、列を戻せ、と。何度も、そう叫んでおられました。……ですが、あの荷は、三日、糧の来ていない者たちの前に、置いてあったのです」


 沮授は、聞き終えて、しばらく、口をきかなかった。

 捨てたのではない。撒いたのだ、と思った。あの陣には、荷を捨ててでも敵の列を乱させよ、とその場で言い出す者がいる。しかも、諸将が渋るのを押し切って、それを採る主がいる。

 こちらには、止めようとして、届かなかった声が一つ、あっただけである。

 袁紹は、二人の名だたる将を、白馬と延津で、続けて失っていた。それでも、袁紹の本軍は、なお十万を数え、曹操の数倍だった。数だけを見れば、何も減ってはいない。


 沮授は、その夜、営の外れまで歩いて、北を見た。

 河は、闇の中で、見えなかった。見えないが、そこにあることは、水の匂いで分かった。

 昼のあいだ、河は、味方の背中を守る壁である。舟は毎日、北から糧を運んでくる。誰も、この水を、面倒なものだとは思っていない。

 思うのは、負けた日の朝である。

 その朝、十万は、いっせいに北を向く。向いて、水に行き当たる。舟は、幾艘あるか。渡し場は、幾つあるか。それを数えている者が、この陣に、何人いるだろうか。

 沮授は、数えていた。

 数えて、誰にも言わずに、営へ引き返した。言えば、また、何かが減る。減るものが、もう、あまり残っていなかった。


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