第6話:十勝十敗
――建安五年(二〇〇年)、許。
同じ頃、許の府は、恐れに揺れていた。
荀彧は、その揺れを、帳面の向こうから、日ごとに測っていた。袁紹は、十万。こちらの兵は、その半ばにも届かぬ。地も、穀も、比べものにならない。勝てるはずがない、という声が、府の内に、静かに広がっていた。
そこへ、北から、一枚の紙が来た。
州や郡の役所へ配られた檄である。写しが、許にも、陣にも回った。読んだ者は、みな、同じところで目を止めた。曹操の祖父は宦官である。父は、その宦官の拾ってきた素性の知れぬ子で、金で位を買った――そう書いてあった。士人の府で、誰もが知っていて、誰も口にせずに済ませてきた一点を、四代続けて三公を出した家の名で、天下に貼り出したのである。
その日から、廊で立ち話をする者が、減った。
荀彧は、廊の静けさのほうを、檄そのものより、重く見た。声が減るのは、口を閉じたからではない。筆に持ち替えたからである。事実、ひそかに袁紹へ内通の文を送る者が、出はじめていた。負けたときの、身の保険にである。
曹操は、その檄を読んで、何も言わなかった。
顔にも、出さなかった。ただ、荀彧の見るかぎり、それを打ち消す言葉を、この人は、持っていなかった。持っていない言葉は、誰かが、代わりに置くしかない。
その恐れに、言葉を与えたのは、郭嘉だった。
「公は、袁紹に、十のことで勝っておられます」
郭嘉は、まだ若い。荀彧が薦めて、この座へ連れてきた男である。だが、人を見抜く目は、誰よりも鋭かった。郭嘉は、指を折りながら、その十を、並べていった。
袁紹は、儀礼の形にこだわって身動きが取れぬが、公は、自然体で人を用いる。袁紹は、名分に逆らって動くが、公は、天子を奉じて、道の側にいる。袁紹は、ゆるくしすぎて締まらぬが、公は、緩急を締める。袁紹は、評判で人を用いるが、公は、中身で用いる。袁紹は、決めきれぬが、公は、機を見て、決める――。
「袁紹は、十の負けを抱え、公は、十の勝ちを持っておられる。兵の数など、この十の前では、些細なことです」
曹操は、それを聞いて、笑った。
声を立てて笑ったのは、檄が回ってから、はじめてだった。荀彧は、その笑いが、十のうちのどこで起きたかを、覚えている。決めきれぬ、という一点のところである。
郭嘉の並べた十は、一つひとつが、袁紹という男の弱みを、正確に射抜いていた。とりわけ、その一点を。賢い言を持ちながら、決められぬ。決められぬ者は、どれほど大きくとも、いつか、決める者に、崩される。荀彧も、かつて袁紹の下にいて、同じところで、見切っていた。
その郭嘉が、席の終わりに、ついでのように、南のことを言った。
江東の孫策である。父の代からの武で江南を斬り取り、いま、二十六。曹操と袁紹が河のあたりで睨み合えば、その隙に北へ出て、許を襲うつもりだ、という報せが入っていた。天子を奪われれば、名分ごと、持っていかれる。荀彧が、府の者の顔を見て回って知るかぎり、みながいちばん恐れていたのは、実は、北の十万ではなく、この南の一手だった。
「あれは、案じるに足りませぬ」
と、郭嘉は言った。
「万を平らげてきた男ですが、身の回りが、軽い。備えというものを、置きません。あれだけの恨みを買っておきながら、供もつけずに、野へ出る。いずれ、名も無い一人の手にかかって、死にます」
曹操は、うなずいた。
浅いうなずき方だった。荀彧は、半分だけ信じた者の首の動き方を、知っている。
恐れは、幕の中だけのものでは、なかった。
朝廷の側でも、勝てぬ、という声が上がった。声を上げたのは、孔融である。名の高い学者で、この人の一言は、士人のあいだを、よく通った。荀彧は、その一言が通る先の広さのほうを、警戒した。
孔融は、指を折って、名を挙げていった。
「袁紹は、地が広く、兵が多い。田豊や許攸のような智の者が謀を立て、審配や逢紀のような者が、事を取り仕切っております」
そこで、孔融は、いったん言葉を切った。切って、いちばん重い二つを、後に置いた。
「そのうえ、顔良と文醜が、兵を将いている。三軍を通しての勇です。これに勝てる道理が、どこにありますか」
荀彧は、その名簿を、一人ずつ、崩していった。
「田豊は、剛すぎて、上に逆らいます。許攸は、欲が深くて、身内を治められない。審配は、独りで決めて、謀がない。逢紀は、思い切りはよいが、人に諮らず、自分ひとりで決めてしまう。この四人は、留守を預ければ内で食い合い、陣に置けば、互いの足を引きます」
「顔良と文醜は」
「一人ぶんの勇があるだけです。一度の戦で、捕らえられます」
座が、静かになった。
曹操は、その遣り取りを、黙って聞いていた。聞いて、口を挟まなかった。
郭嘉の十は、袁紹という一人の男の気質を、十に割ったものだった。荀彧のは、違う。名簿である。あの陣の、どの席に誰が坐っていて、その者が、どこで崩れるか。荀彧は、その席順を、若い頃、内側から見ている。人の器量は、変わらない。変わらないものは、数えられる。
田豊は、いまごろ、諫めて疎まれているだろう。
許攸は、どこかで欲を掻いているだろう。審配は、独りで決めているだろう。顔良と文醜は、真っ先に、前へ出てくるだろう。荀彧は、そこまでを口に出さずに、盃を置いた。
この年のうちに、その一つひとつが、そのとおりになる。
その座には、ほかにも、頭脳が集まっていた。
荀攸という、寡黙な戦術家。荀彧の一族の甥にあたるが、年は、荀彧より上である。賈詡という、董卓の乱世から生き延びてきた、冷徹な軍師。前の年の冬に、宛から、張繡とともに降ってきた、あの男だ。江淮の地で兵を集めて驕っていた男を、自らの手で斬り、その部下ごと引き連れて帰服してきた、劉曄という者もいた。曹操は、その一人ひとりの言を、聞いた。聞いて、用いるものは用い、退けるものは退けた。
冀州の袁紹は、賢い言を、握りつぶしていた。
許の曹操は、賢い言を、束ねて使っていた。同じ「賢い言」を前にした、その扱いの違いが、十万と、その半ばの兵との差を、静かに、埋めはじめていた。
後方の守りにも、曹操は、人を得ていた。
鄄城を預かる程昱のもとへ、曹操は、使いを出した。手勢が七百では心もとない、二千を足そう、と。だが程昱は、それを断ってきた。
「兵を増やせば、袁紹は、鄄城は落とす価値のある城だと見て、必ず攻めてまいります。七百のままなら、あの男は、堅い小城を無理に攻めるほど暇ではない、と侮って、素通りするでしょう。増援は、無用です」
その返事は、荀彧の手を経て、曹操の前へ回された。
曹操は、読んで、また笑った。荀彧のほうへ紙を押しやって、増援は出さぬ、とだけ言った。
わずか七百で、十万の大軍の脇を、平然と守り抜こうという。かつて兗州が裏返ったとき、三つの県を死守した、あの剛胆が、ここでも生きていた。荀彧は、その三県のうちの一つに、自分もいた。果たして、袁紹は、鄄城を、素通りした。程昱の読みは、寸分、狂わなかった。
南の憂いは、その年の初夏に、向こうから消えた。
江東の孫策が、供もつけずに狩りへ出たところを、かつて自分が殺した男の食客に射られ、間もなく死んだ。二十六だった。許を襲うという話も、その日で消えた。
報せを持ってきた者は、座が沸くと思っていたらしい。
沸かなかった。曹操は、郭嘉のほうを、一度だけ見た。郭嘉は、目を合わせず、盃を置いた。それきり、誰も、孫策の名を出さなかった。
荀彧は、その静けさの意味を、あとで考えた。
当たった、というだけの話ではない。備えを置かぬ者は、いつか必ず、備えを置かなかったぶんだけの死に方をする。郭嘉は、それを、先に見ていただけだった。そして、北の十万もまた、同じ目で数えられている。座が沸かなかったのは、そのことに、みなが同時に気づいたからだった。
後ろを守る人は、近くの鄄城だけではなかった。遠い西からも、一人、前線の背を支えていた。
関中を鎮めていた鍾繇である。天子を許に奉じた頃、荀彧が、西の抑えとして送り込んだ、あの潁川の名士だった。鍾繇は、馬騰や韓遂を、道理と利で繋ぎ止め、涼州の辺境の武人たちが、袁紹に呼応して東へ雪崩れてくるのを、防ぎ続けていた。前線で袁紹と押し合う軍の、その背中は、鍾繇のおかげで、破られずに済んでいた。
その鍾繇が、官渡の対陣のさなかに、二千余の馬を、関中から送ってよこした。
荀彧は、その報せを、許で受けた。
騎馬は、いくらあっても足りぬ。兵糧が底をつきかけた前線にとって、西から届いた馬の群れは、乾いた地に落ちる雨のようだった。曹操は、後に、この鍾繇を、漢の高祖を後方から養い続けた蕭何になぞらえて、称えたという。関中さえ平らかであれば、朝廷は、西を案じずに、東で戦える。それは、剣で得た手柄ではない。荀彧が張り、鍾繇が守った、名士の網が、遠い西の火を鎮め、前線へ、馬を送り届けていた。
賢い言を、使う。そして、その言を尽くす者を、信じて、任せる。
地も穀も持たぬ側で、その、人を束ねる一点だけが、袁紹の大軍と、辛うじて、釣り合っていた。荀彧は、帳面を閉じた。閉じてから、いつか自分が張ったこの網の目のどれかで、あの人と自分とが、突き当たるのではないかと、一度だけ思った。思って、すぐに、次の穀の割り当てに取りかかった。




