第5話:越えた境
――中平四年(一八七年)、荊州長沙郡。
区星を破っても、孫堅は、兵を収めなかった。
隣の零陵、桂陽の郡でも、区星に呼応して立った者たちがいた。郡の県を襲い、城を囲んでいるという。
本来、太守の兵は、自分の郡から出てはならない。
一郡を預かる太守が、隣の郡へ勝手に兵を入れれば、それは越権――おのれの権を越えた振る舞いになる。隣郡には隣郡の太守がいる。その差配を飛び越えて兵を動かすのは、朝廷の定めに背くことだった。役所の者は、青い顔で、それを孫堅に説いた。
孫堅は、聞き流した。
「賊に、郡の境は見えぬ。なら、討つ側にも、境など無い」
孫堅は、郡の境など端から無いもののように兵を率いて越え、零陵の賊も、桂陽の賊も、次々に平らげた。
咎める声は、上がらなかった。
賊が消えたことを、隣郡の太守も、朝廷も、喜んだ。孫堅は、その功で、烏程侯に封じられた。低い家に生まれた男が、ついに、侯になった。
兵たちは、沸いた。だが、程普は、沸ききれなかった。
郡の境を越えるのは、勝ったから許されただけだ、と程普は思った。
負けていれば、越権を咎められて、首が飛んだ。賊を討った手柄ではなく、定めに背いた罪のほうが、表に出た。この男は、いつも、許しの一歩先に踏み込む。今度は、賊が相手で、たまたま、朝廷の利と重なった。だが、もし、重ならなくなったら――。境を越える癖は、賊が相手のうちは手柄になる。賊がいなくなったとき、その癖は、どこへ向かうのか。
陣の隅で、孫堅の二人の息子が、棒を振り回して戦の真似をしていた。
上が策、下が権だと、誰かが言った。上の子は、もう一人前の口をきき、下の子は、まだ刀も持てない歳で、兄の後ろをついて回っていた。低い家から起った男の子らが、侯の子になった。この子らは、父の越えてきた境の、その先で育つのだ、と程普は思った。




