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あなたの番は、もうどこにもいない  作者: 黒猫と珈琲


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9/19

第8話 どうか、お幸せに

 真実は、ツェツィーリアがレオンハルトのもとを離れると決めた、その翌日に明らかになった。


「レオンハルト様」


 朝。


 執務室へ入ってきたヘルムートの顔を見て、レオンハルトはすぐに立ち上がった。


「分かったのか」

「はい」


 机の上へ、何冊もの古い記録が置かれる。その上には、小さな布包み。


「薬草庫から見つけました」


 布を開く。


 乾いた赤黒い葉と、銀色の粉。


「竜血草です。それから、古式術に使われる銀粉」


 ヘルムートは一冊の古文書を開き、記述を指で示した。


「竜血草そのものには、魔力の昂りを抑える作用があります。ですが、特定の術式と組み合わせれば、番に対する感覚を鈍らせることができる」


 レオンハルトの金色の瞳が細くなる。


「……絆を切るのか」

「いいえ。切ることはできません」

「なら」

「感じ取れなくするだけです」


 番がそこにいる安心感。


 離れたときの焦燥。


 相手の気配。


 危険への反応。


 そうした本能に近いものを、薬と術で覆い隠す。


「ですが」


 ヘルムートは続ける。


「人の心を操るものではありません」


 レオンハルトが顔を上げた。


「何?」

「記録には、はっきり書かれています。番への本能的反応を鈍化させるのみ。記憶、思考、判断、感情そのものへの作用はない、と」


 部屋が静まり返る。


「つまり」


 レオンハルトの喉が動いた。


「俺が、ツェツィーリアを疑ったことは」

「術のせいではありません」


 ヘルムートは目を逸らさなかった。


「レオンハルト様ご自身の判断です」


 何も聞こえなかった。


 自分の呼吸だけが、やけに大きく響く。


『本当に?』


『私が嘘をついていると思ってるの?』


『どうして私を疑うの?』


 ひとつずつ、ツェツィーリアの声が蘇る。


『お父様は、そんなことしない』


『分かっていたら、お父様を疑ったりしない!』


 それでも自分は。


『可能性を一つずつ確かめている』


 そう答えた。


 冷静に。


 正しいことをしているつもりで。


「ペトラは」

「拘束しています」

「……認めたのか」

「はい。竜血草を使ったことを」


 レオンハルトの手が強く握られる。


「なぜ」

「あなたを愛していたからだと」


 ヘルムートは少し間を置いた。


「番の感覚さえ弱めれば、自分にも機会があると思ったそうです。感覚がなくなっても、それでもツェツィーリア様を選ぶのなら諦めるつもりだった、とも」


 レオンハルトは目を閉じる。


 馬鹿げている。


 何もかも。


 馬鹿げていた。


「それで」


 低い声が出る。


「俺は、何をした」


 記憶は全部残っている。


 十五歳のツェツィーリア。


 緊張しながら、自分を見上げた少女。


『レオンハルト様』


 少しずつ自分を知ろうとしてくれた。


 竜の姿を見て。


『綺麗』


 そう言った。


 黒竜を見て、怖いでも、化け物でもなく、綺麗だと笑った人間は初めてだった。


『だって、レオンハルトでしょう?』


 あれは、番の感覚ではない。


 そのとき嬉しかったことも、自分ははっきり覚えている。


 青い花を見つければ、彼女に見せたいと思った。


 似合いそうなリボンを見つけて、手に取った。


 彼女が来る日は、いつもより早く仕事を終わらせた。


 玄関先で待ったこともある。


 黒竜の背で、楽しそうに笑う声を聞くのが好きだった。


 全部、自分がしたかったからした。


 なのに。


『昔、お前に優しくしたのも、その術の影響だったのかもしれない』


「……何を言った」


 レオンハルトは額を押さえた。


「俺は、あいつに」


 ヘルムートは答えなかった。


 答える必要などない。


 自分が一番よく覚えている。


『……あの日々まで、偽物だったのですか』


 あのとき、ツェツィーリアはどんな顔をしていた。


「違う」


 今さら、声が漏れた。


「違う」


 あの日々は、偽物ではない。


 ひとつも。


 最初は、確かに番だから気にかけた。


 けれど。


 いつからだった。


 来る日が待ち遠しくなったのは。


 彼女が笑えば嬉しくなったのは。


 自分の名前を呼ばれるたび、もう一度呼んでほしいと思ったのは。


『番だからじゃないわ』


『レオンハルトだから好き』


 彼女は、ちゃんと言ってくれた。


 なのに、自分は。


「ヘルムート」

「はい」

「ツェツィーリアのところへ行く」


 レオンハルトが立ち上がる。


「今からですか」

「ああ」

「何をお伝えになるのです」


 その問いに、レオンハルトの足が一瞬止まった。


「全部だ」


 もう遅いかもしれない。


 それでも。


「俺が間違っていたと伝える。謝る」


 許されなくても。


 もう戻ってこなくても。


 あの日々まで偽物だったと思わせたままにはできない。


「それから」


 レオンハルトは目を閉じた。


 今なら答えられる。


『好きだから?』


『……分からない』


 あのとき答えられなかった問いに。


「好きだと伝える」


 ◇


「お嬢様、その箱はこちらでよろしいですか?」

「ええ」


 同じ頃。


 ツェツィーリアの部屋には、少しだけ荷物が出ていた。


 旅へ出る準備といっても、すぐに遠くへ行くわけではない。冬が終わり、暖かくなったら、父と相談して海のある町へしばらく滞在してみようと思っていた。


「海かあ」

「楽しみですね」

「ええ」

「お嬢様、泳がれるのですか?」

「たぶん」

「私は岸から見ております」

「イルゼも入りましょうよ」

「嫌です」

「どうして?」

「髪が濡れます」

「そんな理由?」

「十分な理由です」


 ツェツィーリアは笑った。


 最近、少しずつこんなふうに笑える時間が増えていた。


 レオンハルトを忘れたわけではない。


 深い青色を見ると、もらったリボンを思い出す。空を飛ぶ竜を見ると、黒い翼を思い出す。


 会いたい。


 そう思うことも、まだある。


 けれど、会わない。


 それでいいのだと思えるようになっていた。


「お嬢様。テオドール様からお手紙が届いております」

「あら」


 イルゼから受け取り、中身を読む。


「何と?」

「来週、お父様に用事があるから来るって。それから」


 ツェツィーリアは少し笑った。


「翼の髪飾り、ちゃんと使ってるかって」

「使っていらっしゃらないのですか?」

「大事にしまってあるわ」

「それでは、使っていることにはなりませんね」

「そうね」


 今度つけて見せよう。


 そう思ったときだった。


 慌ただしい足音が廊下から響く。


 扉が叩かれた。


「お嬢様。旦那様がお呼びです」

「お父様が?」

「はい。それと……レオンハルト様がお見えになっております」


 ツェツィーリアの指が止まった。


「……そう」


 胸が大きく鳴る。


 まだ。


 こんなにも簡単に。


 彼の名前ひとつで。


 書斎へ入ると、父が最初にそう言った。


「無理に会わなくていい」


 窓際にはレオンハルトが立っている。


 その隣にはヘルムート。


 久しぶりに見るレオンハルトの顔は、以前より少し疲れて見えた。


「大丈夫」


 ツェツィーリアは父に答える。


「私も聞きたいことがあるから」


 その言葉に、レオンハルトの表情が動いた。


「……ツェツィーリア」

「何でしょう」


 丁寧な言葉。


 それだけで、レオンハルトの顔が少し歪んだように見えた。


「分かった」

「何が?」

「全部だ」


 ツェツィーリアは黙って彼を見る。


「お前は」


 レオンハルトが一度息を吸う。


「俺の番だ」


 胸が痛んだ。


 ずっと。


 ずっと聞きたかった言葉だった。


 けれど今は。


「……そうですか」


 それだけしか出なかった。


「ツェツィーリア」

「何があったの?」


 レオンハルトは、竜血草と古い術について簡潔に話した。


 ペトラがそれを使っていたこと。


 術が鈍らせたのは、番としての感覚だけだったこと。


「感情や判断を操る術ではなかった」

「……」

「だから、俺がお前を疑ったのは俺自身だ」


 ツェツィーリアは何も言わなかった。


「お前の父親を疑ったことも、昔の時間まで否定したことも」


 金色の瞳が、まっすぐツェツィーリアを見る。


「全部、俺がした」


「……そう」


「すまなかった」


 初めてだった。


 レオンハルトが、はっきり謝った。


「許してくれとは言わない。言える立場ではないことも分かっている」


 少し前なら泣いたかもしれない。


 自分が偽物ではなかったことが嬉しくて。


 謝ってくれたことが嬉しくて。


 でも、不思議なくらいツェツィーリアの心は静かだった。


「ひとつだけ、訂正させてくれ」

「何?」

「あの日々は、偽物じゃない」


 ツェツィーリアの瞳が揺れた。


「お前に本を選んだのも、会える日を待っていたのも、青い花を見せたかったのも、リボンを選んだのも」


 胸が痛い。


 全部、大切だった。


「俺がそうしたかったからだ。術のせいじゃない」


 ツェツィーリアは俯いた。


 それだけは、聞けてよかった。


 本当に。


「……ありがとう」


 小さく言う。


 レオンハルトが息を止めた。


「それを聞けたのは、嬉しいわ。私にとっても、大切な思い出だから」


 顔を上げる。


 少しだけ笑った。


「偽物じゃなかったって分かって、よかった」


 レオンハルトの目に、かすかな希望が浮かぶ。


 だから、ツェツィーリアは続けた。


「でも」


 その希望が止まる。


「だからといって、前には戻れないわ」

「……」

「あなたが何をされたかとは、別だから」

「ああ」

「私を疑ったのは、あなた自身だった」

「ああ」

「お父様を疑ったのも」

「ああ」

「私が何度、本当だと言っても、信じてくれなかった」

「ああ」


 レオンハルトは目を逸らさなかった。


 低く。


 ひとつずつ認める。


「だから、真実が分かったからって全部元通りにはできないの」

「分かっている」

「……そう」

「だが、それでも言わせてくれ」

「何を?」


 金色の瞳が、まっすぐ自分を見る。


「俺は、お前が好きだ」


 時間が止まったようだった。


 ツェツィーリアは瞬きをする。


「今なら分かる。お前が番だからじゃない」


 その言葉。


 かつて、自分が彼に言った。


『番だからじゃないわ』


『レオンハルトだから好き』


「ツェツィーリアだからだ」


 胸の奥が強く痛んだ。


 どうして。


 今。


「……遅いわ」


 ぽつりと声が出た。


「ああ」


 レオンハルトは否定しなかった。


「遅すぎたな」

「私、ずっとそれが聞きたかったの」


 目の奥が熱くなる。


「何度も。何度も、聞きたかった」

「ツェツィーリア」

「でも」


 ツェツィーリアは首を振る。


「今さら……」


 そのときだった。


 外で、大きな音がした。


「何だ!」


 父が立ち上がる。


 次の瞬間、窓の外から悲鳴が聞こえた。


「旦那様!」


 護衛が駆け込んでくる。


「襲撃です! 北側の塀が破られました!」

「何者だ」

「竜殺しの紋章を!」


 ヘルムートの顔色が変わる。


 レオンハルトの表情も一変した。


「ツェツィーリア」


 腕を掴まれる。


「奥へ行け」

「でも」

「早く!」


 今まで聞いたことがないほど強い声だった。


「ヘルムート。伯爵家の者を守れ」

「はい。レオンハルト様は」

「俺が出る」

「待ってください。相手が竜殺しなら――」

「だからだ」


 人間の兵では、被害が広がる。


 レオンハルトは伯爵を見る。


「伯爵」

「娘は私が守る」

「頼む」


 それだけ言うと、窓を開けた。


 黒い影。


 風。


 次の瞬間、巨大な黒竜が空へ飛び上がった。


「レオンハルト!」


 思わず。


 昔のように、名前を呼んでいた。


 外は、あっという間に混乱していた。


「お嬢様、こちらへ!」


 イルゼが駆け寄ってくる。


 ツェツィーリアは父とともに廊下を走る。


 窓の外では黒竜が飛び、黒い装束の襲撃者たちが銀色に光る武器を構えていた。


「……あれは」


 幼い頃から竜族と交流してきたツェツィーリアには分かった。


「竜殺しの呪具」


 竜の鱗を貫くために作られた、禁じられた武器。


「見ないでください。お嬢様、早く!」

「ええ」


 進もうとした。


 そのとき、轟音が響いた。


 館の一部が揺れる。


「きゃっ!」


 足元が崩れ、ツェツィーリアは壁へ手をついた。


「ツェツィーリア!」

「大丈夫!」


 煙。


 埃。


 その向こうに、少し離れた庭へ黒竜が降りるのが見えた。


 襲撃者の大半は、すでに倒れている。


 あと少し。


 そう思った、その瞬間。


 壊れた塀の陰から、一人の男が立ち上がった。


 手には、長い黒銀の槍。


 先端に赤い術式が浮かんでいる。


「……レオンハルト」


 男が槍を構える。


 黒竜は、こちらに背を向けている。


「レオンハルト!」


 声が届かない。


 男が槍を投げた。


 真っ直ぐ、黒竜の胸へ向かって。


「駄目!」


 考えたわけではなかった。


 体が勝手に動いた。


「お嬢様!」

「ツェツィーリア!」


 イルゼの悲鳴。


 父の声。


 走った。


 ただ、レオンハルトが死ぬ。


 それだけが分かった。


 嫌だった。


 黒竜がこちらを振り返る。


 金色の瞳が大きく見開かれる。


 そして。


 ツェツィーリアは彼の前へ飛び込んだ。


 衝撃は、思っていたより小さかった。


「……え?」


 体が少しだけ後ろへ押される。


 何かが、胸を貫いていた。


 痛い。


 そう思ったのは、少し遅れてからだった。


「ツェツィーリア!」


 聞いたことがない声。


 次に気づいたときには、人の姿へ戻ったレオンハルトの腕の中にいた。


 槍を投げた男は、ヘルムートたちに取り押さえられていた。武器も奪われ、もうこちらへ近づくことはできない。


「ツェツィーリア」

「……レオンハルト」

「なぜ」


 金色の瞳が揺れている。


「なぜ、こんな……」

「よかった」

「何がだ!」


 レオンハルトが叫ぶ。


「何がよかった!」

「あなたが、無事で」

「馬鹿なことを言うな」


 胸が熱い。


 けれど、指先はどんどん冷たくなっていく。


「ヘルムート! 治癒師を!」

「すでに呼んでいます!」

「早くしろ!」


 イルゼと父も駆けてくる。


 ツェツィーリアはぼんやりと、レオンハルトの顔を見る。


 こんな顔。


 初めて見た。


「ツェツィーリア。目を閉じるな」

「……閉じてないわ」

「俺を見ろ」

「見てる」

「ツェツィーリア」


 声が震えている。


 あの、いつも強かった人の声が。


「お前は俺の番だ」


 ツェツィーリアはしばらく彼の顔を見た。


 そして、少しだけ笑う。


「今さら……そんなこと、言わないでください」


「違う」

「……」

「違うんだ」


 レオンハルトがツェツィーリアの手を握る。


「番だからじゃない」


 強く。


「俺がお前を愛している」


 聞きたかった。


 ずっと。


 聞きたかった言葉。


 なのに、どうしてこんなときに。


「……遅いわ」

「ああ」

「本当に」

「ああ」


 レオンハルトの顔が歪む。


「すまない」

「……」

「すまなかった。俺が間違っていた」

「……うん」

「だから」


 強く抱きしめられる。


「死ぬな」

「……」

「頼む」


 レオンハルトが、そんな言葉を使うことを初めて知った。


「何でもする。お前が望むことは何でも」

「……」

「だから、生きろ」


 声が崩れていく。


 ツェツィーリアはゆっくり手を動かした。


 レオンハルトの頬へ。


 けれど届かない。


 途中で力がなくなった手を、彼が掴んで自分の頬へ当てる。


「冷たい」


 レオンハルトが呟く。


「ツェツィーリア」

「……レオンハルト」

「ああ」

「私」


 息が苦しい。


 それでも、言いたかった。


「あなたに会えて、幸せだったわ」

「やめろ」

「十五歳の私に」

「やめろ」

「優しくしてくれて」

「ツェツィーリア」

「ありがとう」

「そんなことを言うな!」


 レオンハルトの声が響く。


 けれど、もう少し遠く聞こえた。


「あなたを、好きになれて」


 よかった。


 本当に。


 苦しかった。


 たくさん泣いた。


 それでも。


 好きだったことまで、後悔したくなかった。


「……どうか」

「言うな」

「お幸せに」

「嫌だ」


 初めて、レオンハルトがはっきり拒んだ。


「お前がいないのに、何が幸せだ」

「……」

「そんなものはいらない」


 ツェツィーリアは少しだけ目を細めた。


「わがままね」

「そうだ。俺がわがままなのは、お前が一番よく知っているだろう」

「ふふ……」


 もう、声を出すのも難しい。


 それでも最後にひとつだけ、言いたかった。


「レオンハルト、大好きよ」


 レオンハルトの瞳が、大きく揺れた。


「……ああ」


 ツェツィーリア。


 そう名前を呼ばれた気がした。


 その声を最後に、世界が静かに暗くなった。


「ツェツィーリア?」


 返事がない。


「……おい」


 レオンハルトが頬に触れる。


「ツェツィーリア」


 何も返ってこない。


「治癒師!」


 叫ぶ。


「早くしろ!」


 駆けつけた治癒師が膝をつき、傷を見る。脈を取り、胸へ手を当て、魔力を流す。


「早く」


 レオンハルトが言う。


「治せ」

「……」

「聞こえないのか!」

「レオンハルト様」


 治癒師の顔が青ざめていた。


「治せ!」

「……申し訳、ありません」

「何を言っている」

「心臓が」

「なら動かせ!」

「もう」

「竜族の治癒術でも何でも使え! 俺の魔力を使え!」

「レオンハルト様!」


 ヘルムートが腕を掴む。


「離せ!」

「もう……!」

「離せ!」


「お嬢様!」


 イルゼの泣き声が響いた。


 父は何も言わず、ただ娘を見つめていた。


 治癒師が震える手で、ツェツィーリアの瞼を閉じる。


「……死亡を確認いたしました」


 その瞬間。


 レオンハルトの中から、何かが完全に消えた。


 番の気配。


 薬で隠されていても、本当は確かにそこにあったもの。


 細い糸のように、自分と彼女を繋いでいたもの。


 それが、切れた。


「……嘘だ」


 レオンハルトは呟いた。


「ツェツィーリア」


 腕の中の少女は、眠っているようだった。


 淡い金髪。


 閉じられた薄青の瞳。


 頬には、まだわずかに温もりが残っている。


「起きろ」


 返事はない。


「俺は」


 声が震える。


「まだ何も」


 伝えていない。


 謝った。


 愛していると言った。


 けれど、それだけでは足りない。


 これから何年でも、何十年でも償うつもりだった。


 許されなくても。


 遠くからでも。


 彼女が笑えるように、何でもするつもりだった。


 時間は、いくらでもあると思っていた。


 自分は長命な竜だから。


 彼女は人間だから。


 だからこそ、本当はもっと急がなければならなかったのに。


「……ツェツィーリア」


 返事はない。


 十五歳の少女が、初めて自分を見上げた日の声が蘇る。


『私、またここへ来てもいいですか?』


 何度でも来ると思っていた。


 何度でも会えると思っていた。


 なのに。


 レオンハルトの腕の中で。


 ツェツィーリアは。


 二度と。


 目を開けなかった。


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