第9話 もう届かない言葉
ツェツィーリアが死んだ。
その事実を、レオンハルトは理解できなかった。
「……ツェツィーリア」
何度名前を呼んでも、返事はない。腕の中の体は少しずつ、確実に冷たくなっていく。
「レオンハルト様。お体を――」
「触るな」
「ですが」
「触るな」
低い声だった。
レオンハルトはツェツィーリアを抱きしめたまま動かない。淡い金髪にも、胸元にも、白かったドレスにも血がついている。自分の手にも、まだ赤い色が残っていた。
分かっている。
これだけ血を失って、心臓まで貫かれて、生きているはずがない。
治癒師も確認した。
呼吸もない。
脈もない。
そして、番の気配も。
もう、どこにもない。
それなのに。
「……起きろ」
そんな言葉が口から出る。
「ツェツィーリア」
さっきまで話していた。
自分を見ていた。
笑っていた。
『わがままね』
そう言った。
なら、まだそこにいるはずだ。
「起きてくれ」
レオンハルトは額を彼女の髪へ押し当てる。
「頼む」
返事はなかった。
「レオンハルト様」
今度は別の声だった。
顔を上げると、ローゼン伯爵が立っていた。
顔色は白い。けれど泣いてはいなかった。その目だけが、ひどく静かだった。
「娘を、返していただけますか」
「……」
「家へ連れて帰ります」
レオンハルトの腕に力が入る。
「ツェツィーリアは」
声が掠れた。
「俺の番だ」
伯爵の表情は変わらなかった。
ただ、ほんの少し目を伏せる。
「……生きているうちに」
静かな声だった。
「そう仰っていただきたかった」
レオンハルトは何も言えなかった。
胸の奥を、深く抉られたようだった。
「娘は、何度もあなたにそう言ってほしかったはずです」
「……」
「自分はあなたの番なのだと」
「……分かっている」
「いいえ」
初めて、伯爵の声が少しだけ強くなった。
「分かっていらっしゃらなかった」
レオンハルトは顔を上げる。
「娘がどんな気持ちで、あなたを好きでいたのか」
伯爵の声がわずかに震える。
それでも、最後まで崩れなかった。
「あなたに疑われながら、それでもどれほど大切に思っていたのか」
腕の中の娘を見る。
「分かっていたなら」
そして、レオンハルトへ視線を戻した。
「こんなことには、ならなかったでしょう」
反論など、できるはずがなかった。
レオンハルトはゆっくりと、ツェツィーリアを抱いていた腕を緩める。
「……すまない」
伯爵は答えなかった。
娘の体を受け取ろうと、手を伸ばす。
その瞬間。
レオンハルトは、離せなくなった。
「……待ってくれ。伯爵」
自分でも、何を待つのか分からない。
「もう少し」
「レオンハルト様」
「もう少しだけ、このままで」
腕の中の少女を見る。
もう、その温もりさえほとんど残っていない。
「……頼む」
伯爵は長いあいだ何も言わなかった。
やがて、
「少しだけです」
それだけ答えた。
◇
その後、ツェツィーリアの体はローゼン伯爵家の者たちの手で屋敷へ運ばれた。
つい昨日まで、春の旅行について話していた自室。
海へ行きたい。
泳いでみたい。
そんな未来を笑いながら話していた場所。
今は、そのベッドに白い服へ着替えさせられたツェツィーリアが横たわっている。
傷は見えないように整えられ、淡い金髪もイルゼが丁寧に梳かしていた。
まるで、眠っているだけのようだった。
「……どうして」
イルゼはベッドのそばに座り、ツェツィーリアの手を握っている。
「どうして、こんなに冷たいんですか」
返事はない。
「お嬢様」
イルゼはずっと泣いていた。
それでも髪だけは、何度も丁寧に整えた。
「朝は、温かかったじゃないですか」
震える手で、淡い金髪を撫でる。
「昨日だって、海へ行ったら何を着ようって、お話ししていたじゃないですか」
声が崩れた。
レオンハルトは、扉の外に立っていた。
中へ入れなかった。
イルゼの泣き声だけが聞こえる。
やがて扉が開いた。
イルゼが出てくる。
目が合った。
一瞬、彼女の顔からすべての感情が消えた。
「……イルゼ」
「お帰りください」
「ツェツィーリアに」
「お帰りください」
「……会わせてくれ」
「嫌です」
はっきり言い切った。
「俺は」
「お嬢様があなたを許しても」
イルゼの声が震える。
「私は一生許しません」
レオンハルトは黙った。
「お嬢様は最後まで、あなたを好きだった」
「……ああ」
「あなたを庇って」
涙がまた溢れる。
「あなたが生きていてよかったって、自分が死ぬときまで、あなたのことばかり!」
イルゼの声が廊下に響く。
「なのに、あなたは何をしたんですか」
レオンハルトは、ただ聞いていた。
「お嬢様が何度、本物だって言っても。何度、好きだって言っても!」
イルゼは拳を握り、レオンハルトを睨む。
「信じなかった!」
「……ああ」
「番なのに!」
その言葉で、イルゼの何かが切れた。
「番なんかなければ!」
泣きながら叫ぶ。
「お嬢様は死なずに済んだ!」
「……」
「あなたの番になんてならなければ、普通に恋をして、普通に結婚して」
声が掠れる。
「もっと長く生きられた!」
違う。
そう言う資格など、レオンハルトにはなかった。
番だったから、ツェツィーリアは自分と出会った。
番だったから、自分は彼女を知った。
そして、番だった自分を。
彼女は庇って死んだ。
「返してください」
イルゼが言う。
「……」
「お嬢様を返してください」
できるなら。
何を差し出してでも、そうしたかった。
自分の命でも。
翼でも。
竜としての力でも。
長い寿命でも。
何でも。
「……すまない」
ようやく、それだけ言った。
「いりません」
イルゼは即座に答える。
「あなたの謝罪なんて」
扉へ手をかける。
「お嬢様には、もう聞こえませんから」
扉が閉じた。
レオンハルトは、その場から長いあいだ動けなかった。
◇
テオドールが屋敷へ来たのは、夕方だった。
玄関先へ降り立った顔に、いつもの穏やかさはなかった。
「ローゼン伯爵は」
使用人へ尋ねる。
「ツェツィーリアは」
使用人が答えられず、俯く。
それだけで分かった。
「……どこにいる」
「テオドール様」
「ツェツィーリアは、どこにいるんだ!」
「に、二階の、お部屋に……」
最後まで聞かず、階段へ向かった。
一段。
二段。
上がる。
足が、妙に重い。
昨日、手紙を書いた。
来週行く、と。
翼の髪飾りをちゃんと使っているのか、と。
それだけの、何でもない手紙。
来週、会えると思っていた。
当然のように。
廊下の先に、一人の男が立っていた。
黒髪。
金色の瞳。
テオドールの足が止まる。
「レオンハルト様」
反射的に、いつもの呼び方が出た。
レオンハルトが顔を上げる。
「テオドール」
「……本当なんですか」
「……」
「ツェツィーリアが、死んだって」
レオンハルトの目が伏せられる。
「……ああ」
たった一言。
それだけで、世界が崩れた。
「……そうですか」
テオドールは少しだけ俯いた。
それから、レオンハルトの横を通り過ぎようとする。
「テオドール」
「何ですか」
「……俺を庇った」
足が止まった。
「何?」
「ツェツィーリアは、俺を庇って死んだ」
テオドールはゆっくり振り返った。
「……あなたを?」
「ああ」
しばらく、何も言わなかった。
「そう」
やがて乾いた声が落ちる。
「そうですか」
少しだけ笑った。
けれど、笑えてはいなかった。
「最後まで、あいつらしい」
レオンハルトは何も言えない。
「俺」
テオドールが呟く。
「レオンハルト様なら、幸せにしてくれると思ってたんです」
顔を上げる。
「十五歳のとき。あいつがあなたの番だって分かったとき」
ずっと好きだった。
小さい頃から。
『テオ!』
自分の名前を呼んで走ってくる少女が。
笑ってくれることが嬉しかった。
それでも、番が現れた。
竜族にとって、生涯ただ一人の相手。
「俺じゃなくても」
声が震える。
「レオンハルト様なら、絶対に幸せにするって。そう思ったから、身を引いた」
レオンハルトは黙って聞いていた。
「なのに」
テオドールの目が鋭くなる。
「何で」
声が低くなる。
「何で、あいつが死んでるんですか」
「……」
「何であなたが生きて」
一歩近づく。
「ツェツィーリアが死んでるんですか」
レオンハルトは逃げなかった。
「……全部、俺のせいだ」
その一言で、テオドールの拳が動いた。
鈍い音がした。
レオンハルトの顔が横を向く。
「テオドール! 何をしている!」
少し離れていたヘルムートが声を上げる。
「来るな!」
テオドールが叫ぶ。
ヘルムートが止まった。
レオンハルトは殴り返さなかった。
口元から、わずかに血が流れる。
「……そうだ」
低い声だった。
「俺のせいだ」
「だったら!」
テオドールが胸ぐらを掴む。
「返せよ!」
声が初めて崩れた。
「ツェツィーリアを返せ!」
青灰色の瞳から涙が落ちる。
「俺は、ずっと我慢した! 番だからって! あいつがあなたを好きだったから!」
笑って身を引いた。
『いいんじゃない』
そう言った。
何度も。
レオンハルトの話をするツェツィーリアの隣で。
笑った。
「こんなことなら」
声が掠れる。
「どんなことしても、俺が奪えばよかった」
ツェツィーリアに嫌われても。
怒られても。
「泣いてでも、自分の背に乗せて」
遠くへ。
連れていけばよかった。
「俺が連れて帰ればよかった」
『俺なら、そんなふうに泣かせない』
そう言った。
なのに結局、何もしなかった。
「……レオンハルト」
初めて、敬称が消えた。
「おまえのせいで、ツェツィーリアは死んだ」
「……ああ」
「一生」
テオドールが睨む。
「後悔を背負って生きていけ」
レオンハルトの金色の瞳が静かに揺れた。
「言われなくても、そのつもりだ」
掠れた声だった。
「俺は長く生きる」
竜族の寿命は長い。
人間の何倍も。
「だから、生きている限り」
ツェツィーリアを。
自分がしたことを。
「後悔する」
テオドールはゆっくり手を離した。
それ以上、殴らなかった。
「……ツェツィーリアに会ってくる」
「ああ」
「おまえは来るな」
レオンハルトは何も言わなかった。
◇
テオドールは扉を開けた。
部屋にはイルゼがいた。
ベッドの上に、ツェツィーリアがいる。
テオドールは、部屋へ入ったところで動けなくなった。
知っている顔だった。
何度も見てきた。
眠っている顔だって。
小さい頃、遊び疲れて木陰で眠ってしまったことだってある。
『テオ』
目を覚ませば、そう呼んだ。
でも今は。
「……ツェツィーリア」
返事がない。
イルゼが立ち上がる。
「テオドール様……」
「少し」
うまく声が出ない。
「二人にしてもらっても?」
イルゼはしばらく彼を見て、静かに頷いた。
「はい」
部屋を出ていく。
テオドールはゆっくりとベッドへ近づき、椅子へ座った。
「……お前、何してるんだよ」
言ってみる。
「来週、来るって書いただろ」
返事はない。
「俺が贈った髪飾り」
小さく笑う。
「結局、使ってないんだろ」
十八歳の誕生日に贈った、青い翼の髪飾り。
「大事にしまってるとか言って」
そういうところまで分かる。
長く、一緒にいたから。
手を伸ばす。
ツェツィーリアの手へ触れる。
「……お前の手、冷たいな」
震える声とともに、一粒の涙が頬を伝った。
幼い頃。
この手を、何度も引いた。
『テオ、こっち!』
『遠く行くなって言われただろ』
『大丈夫だよ』
『何が大丈夫なんだよ』
六歳だった。
自分は八歳。
小さな手だった。
「なあ、覚えてるか?」
その手を握る。
「初めて会った日」
いきなり手を掴まれて、庭へ連れ出された。
「俺、お前のこと」
少し笑う。
「すごく騒がしい子だと思った」
竜になれ。
翼を見せろ。
乗せろ。
もっと高く。
次から次へと無茶なことを言った。
「でも」
気づけば、ツェツィーリアが来る日が楽しみになっていた。
「……好きだった」
初めて、本人に言う。
もう届かないと分かっている。
「ずっと」
今度は、一粒ではなかった。
次から次へと涙がこぼれ、頬を濡らしていく。
「小さい頃から」
十五歳で、彼女に番が現れた。
だから、言わなかった。
「言えばよかった」
今さら、そんなことばかり思う。
「一回くらい、困らせてもよかった」
番がいるから。
幸せになるから。
そう思って、いい友人でいようとした。
「俺、本当に馬鹿だな」
ツェツィーリアの手を額へ押し当てる。
しばらく、何も言えなかった。
そして最後に。
「ツェツィーリア」
名前を呼ぶ。
「愛してる」
初めて、ちゃんと言葉にした。
けれど彼女は、やっぱり目を開けなかった。
夜が深くなった頃。
レオンハルトは一人で庭にいた。
襲撃があった場所。
血はもう洗い流されている。
それでも、自分には見える気がした。
ツェツィーリアが倒れた場所。
自分の腕の中で、息を止めた場所。
手を見る。
もう血はない。
何度洗っても、まだ手のひらに残っているような気がする。
『あなたが、生きてる』
自分が生きている。
彼女の代わりに。
「……なぜだ」
何度考えても、同じところへ戻る。
なぜ、もっと早く気づかなかった。
なぜ、あの言葉を信じなかった。
『私があなたを好きな気持ちは私のものだわ』
なぜ。
彼女がそこまで言っても、自分は疑うことをやめなかった。
「レオンハルト様」
ヘルムートの声がした。
「何だ」
「ペトラについてですが」
「今はいい」
「……承知しました」
制裁など、今はどうでもよかった。
ペトラは罰を受ける。
当然だ。
けれど、彼女をどれほど罰しても、ツェツィーリアは戻らない。
そして、自分がしたことも消えない。
「ヘルムート」
「はい」
「俺は」
少し間を置く。
「あいつが十五歳のとき、初めてきちんと話した日のことを覚えている」
『私、またここへ来てもいいですか?』
「あいつに、何度でも来いと言った」
「……はい」
「いつでも来い、と」
「はい」
それなのに最後には、彼女の方から来なくなった。
来なくさせた。
「俺が」
目を閉じる。
「全部、壊した」
ヘルムートは慰めなかった。
ただ、
「はい」
静かに答えた。
それでよかった。
慰めなど、いらなかった。
◇
葬儀は三日後に行われることになった。
ツェツィーリアの棺には白い花を入れる。
父が選んだ、彼女の好きだった花。
イルゼが最後に髪を整える。
テオドールは青い翼の髪飾りを棺へ入れようとして、手を止めた。
「これは」
手の中の髪飾りを見る。
「俺が持っている」
イルゼが彼を見る。
「よろしいのですか?」
「ああ」
テオドールは、ほんの少しだけ笑った。
「俺が持ってる」
いつか。
『ちゃんと使ってる?』
そう聞くつもりだった。
けれど、もう聞けない。
ツェツィーリアのものは、手元に何ひとつ残っていない。
だから、これだけは自分が持っていたかった。
そして夜。
誰もいなくなったあと、レオンハルトは初めてツェツィーリアが眠る部屋へ入った。
葬儀のために用意された棺。
その中に、白い花に囲まれたツェツィーリアがいる。
静かに棺のそばへ膝をついた。
「ツェツィーリア」
返事はない。
「今日、テオドールに殴られた」
少しだけ口元が歪む。
「当然だな」
彼女なら、何と言うだろう。
『テオが? 喧嘩したの?』
驚いたあと、少し困ったような顔をするだろうか。
もう、想像することしかできない。
「お前の父親にも、生きているうちに言ってほしかったと言われた」
その通りだった。
「……俺も」
棺の縁へ手を置く。
「生きているお前に、言いたかった」
好きだ。
会いたい。
一緒にいたい。
「言いたいこと、たくさんあったはずなのに」
分かるだろうと。
いつでも言えると。
そう思っていた。
「ツェツィーリア」
白い頬へ触れる。
冷たい。
「愛してる」
返事はない。
「……愛してる」
何度言っても遅い。
それでも、止められなかった。
「すまなかった」
声が、初めて完全に崩れる。
「戻ってきてくれ」
叶わないと分かっている願いだった。
「もう、俺を選ばなくていい」
胸が裂けそうになる。
「テオドールでも、誰か他の男でもいい」
生きて。
笑ってくれるなら。
「だから」
レオンハルトは、ツェツィーリアの冷たい手を握った。
「生きていてほしかった」
もう何も望まない。
ただ、生きていてほしかった。
「……ツェツィーリア」
その夜。
レオンハルトは夜が明けるまで、棺のそばを離れなかった。
だから、気づかなかった。
夜明け前。
冷たかったはずのツェツィーリアの指先に。
ほんのわずかに、温もりが戻り始めていたことを。




