第10話 知らないあなた
夜明け前。
レオンハルトは、棺のそばで俯いていた。
どれくらいそうしていたのか、分からない。窓の外はまだ薄暗い。やがて朝が来て、明日になり、その翌日には葬儀が行われる。
ツェツィーリアが、本当に自分の手の届かないところへ行ってしまう。
レオンハルトは、握っていた手を見る。
細い指。白い肌。
何度も触れたことがある。
黒竜の背から降ろすとき。空を飛んだあと、冷たくなった指先を包んだとき。青い花の咲く丘で、ほんの一度、ためらいながら握ったこともあった。
全部、覚えている。
これから何百年生きても、きっと忘れない。
「……ツェツィーリア」
もう一度、名前を呼んだ。
そのときだった。
「……?」
レオンハルトが顔を上げる。
今、何かが動いたような気がした。
握っている手を見る。
動かない。
気のせいか。
もう何度も、そうだった。今にも目を開けそうに見えて、息をしているような気がして、そのたびに違った。
レオンハルトは目を閉じる。
けれど、その直後。
ツェツィーリアの指が、ほんのわずかに動いた。
「……ツェツィーリア?」
立ち上がった拍子に、椅子が大きな音を立てて倒れる。
レオンハルトはその手を握り直した。
「おい。ツェツィーリア」
返事はない。
頬へ触れる。
その瞬間、レオンハルトの呼吸が止まった。
「……温かい」
昨日は、確かに冷たかった。
何度触れても、死人の冷たさだった。
なのに今は、ほんのわずかに温かい。
「誰か!」
レオンハルトは叫んだ。
「誰か来い!」
廊下から足音が聞こえ、扉が開く。
「レオンハルト様?」
「治癒師を呼べ!」
「え?」
「今すぐだ!」
その声に弾かれたように、使用人が走り出す。
レオンハルトは棺へ身を乗り出した。
「ツェツィーリア。聞こえるか」
何も返ってこない。
けれど、唇のそばへ手を近づけると、本当にかすかな空気の流れが指先に触れた。
「……息を」
している。
「ツェツィーリア」
レオンハルトの声が震えた。
「息をしてる」
信じられない。
それでも確かに、胸がほんのわずかに上下していた。
◇
「どいてください!」
駆け込んできた治癒師が、棺のそばへ膝をつく。
昨日、死亡を確認した同じ治癒師だった。
「まさか……」
手首に触れた治癒師が、目を見開く。
「脈があります」
「助かるのか」
「分かりません」
「助けろ」
「レオンハルト様」
「何でも使え。俺の魔力でも」
「お下がりください!」
治癒師が珍しく強い声を出した。
「今は診せてください!」
レオンハルトは歯を食いしばり、一歩下がった。
すぐに廊下からまた足音が響く。
「何があった!」
ローゼン伯爵だった。
その後ろから、イルゼも駆け込んでくる。
「お嬢様?」
イルゼが棺を見る。
「……何を」
「生きてる」
レオンハルトが言った。
イルゼの顔から血の気が引く。
「……え?」
「ツェツィーリアが」
もう一度、声にする。
「生きてる」
「そんな……」
イルゼが駆け寄ろうとする。
「お嬢様!」
「イルゼ、待ちなさい」
「ですが!」
「治癒師の邪魔になる」
「でも……!」
イルゼは両手で口元を覆った。
涙が一気に溢れる。
「お嬢様……」
伯爵も動けずにいた。
いつもどんなときも冷静だった男が、娘の胸がほんのわずかに上下しているのを見つめたまま、ただ立ち尽くしている。
「……あり得ない」
治癒師が呟いた。
「何だ」
「昨日、私は確かに死亡を確認しました」
「ああ」
「心臓は停止していました。呼吸も、魔力循環も」
「なら、なぜ」
「分かりません」
治癒師は首を振った。
「こんなことは……」
そこで言葉を切り、何かを思い出したように顔を上げる。
「いや」
「何だ」
「ひとつだけ、古い伝承があります」
「伝承?」
「竜族に伝わるものです」
治癒師は、眠るツェツィーリアを見た。
「番を守るため、自ら命を差し出した者についての伝承です」
◇
夜が明ける頃、ヘルムートが古文書を抱えてやって来た。
「ありました」
息を切らしている。
いつも冷静な彼には珍しい。
「記録は、わずかですが」
机の上に古い本を広げる。
ローゼン伯爵、イルゼ、治癒師、そしてレオンハルトが、その周りに集まった。
ツェツィーリアはすでに棺からベッドへ戻されている。呼吸は弱いながらも、確かに続いていた。
「数百年前の記録です」
ヘルムートが指で文字を追う。
「番を守るため、自らその命を差し出し、一度完全に死亡した者が――」
一度、言葉を切った。
「まれに、生へ戻ることがある」
イルゼが息を呑んだ。
「では、お嬢様は」
「おそらく」
「助かるんですね?」
「まだ分かりません。記録が少なすぎます」
ヘルムートが答える。
「続きを」
レオンハルトが促した。
ヘルムートは一瞬、黙った。
「この現象は、蘇生とは少し違うようです」
「何?」
「古い記述では、『結びを代価として差し出し、新たな生を得る』と」
「結び?」
伯爵が尋ねる。
「何を差し出すのです」
ヘルムートの視線が、レオンハルトへ向く。
「番です」
沈黙が落ちた。
「……何だと」
レオンハルトの声が低くなる。
「生へ戻る代償として、番として結ばれていたものをすべて失う」
「……」
「番の絆。そして、番となってから相手と築いた記憶も」
ヘルムートは静かに続けた。
「相手を番として感じる本能も、完全に失われます」
レオンハルトは、しばらく何も言わなかった。
「……戻らないのか」
「記録では、二度と」
ヘルムートが答える。
「同じ相手と再び番になることもありません」
レオンハルトの顔から、少しずつ表情が消えていく。
「つまり」
伯爵が口を開いた。
「娘が生きる代わりに、レオンハルト様との番の絆が完全に消える」
「はい」
ローゼン伯爵はしばらく黙っていた。
「そうですか」
それだけ言った。
レオンハルトが彼を見る。
伯爵は、娘の眠るベッドへ視線を向けていた。
「それで娘が生きられるなら、私には何の問題もありません」
レオンハルトは何も言えなかった。
当然だった。
父親にとって、娘の命より大切な番などあるはずがない。
「……俺もだ」
やがてレオンハルトは言った。
「ツェツィーリアが生きていてくれればいい」
昨日、自分で願った。
『お前が俺を選ばなくてもいい』
『テオドールを選んでも』
『誰か他の男を愛してもいい』
あれは本心だった。
「それでいい」
声が少しだけ掠れた。
「……それで、いい」
昼を過ぎた頃、最初に気づいたのはイルゼだった。
「……お嬢様?」
ベッドのそばで、ずっと手を握っていた。
その指が、わずかに握り返された。
「お嬢様?」
イルゼが勢いよく立ち上がる。
「旦那様!」
声が震えた。
「お嬢様が!」
部屋にいた全員が動く。
ツェツィーリアの瞼が、ゆっくり震えた。
そして、薄青の瞳がほんの少し開く。
「ツェツィーリア!」
父が駆け寄る。
「お嬢様!」
イルゼが泣き出す。
レオンハルトだけは、少し離れたところで動けなかった。
ツェツィーリアの瞳が、ゆっくりと動く。
天井。窓。父。イルゼ。
「……ここは」
かすかな声が出た。
「ツェツィーリア」
父が手を握る。
「分かるか? 私だ」
ツェツィーリアは父の顔を見る。
けれど、しばらく何も言わなかった。
「ツェツィーリア?」
「……だれ?」
小さな声だった。
部屋が静まり返る。
「お嬢様……?」
イルゼが呟く。
ツェツィーリアは彼女を見る。
知らない人を見るような目だった。
「私です」
イルゼの声が震える。
「イルゼです」
「……イルゼ」
初めて聞く名前を確かめるように、ツェツィーリアはゆっくりと繰り返した。
「はい」
イルゼは涙をこぼしながら、それでも嬉しそうに笑った。
「私はずっと、お嬢様のおそばにおります」
ツェツィーリアは困ったように眉を寄せた。
そして最後に、部屋の奥に立つレオンハルトを見た。
金色の瞳と、薄青の瞳が合う。
レオンハルトの胸が大きく鳴った。
「ツェツィーリア」
一歩、近づく。
「俺だ」
彼女の目が、わずかに見開かれる。
けれど、そこには何もなかった。
懐かしさも、安心も、怒りも、悲しみも、愛情も。
何ひとつ。
ツェツィーリアは少しだけ父の方へ身を寄せ、それからもう一度レオンハルトを見た。
「……どなた、ですか?」
レオンハルトは、息をすることさえ忘れた。
◇
その日のうちに、治癒師はツェツィーリアの記憶がかなり失われていることを確認した。
自分の名前。年齢。家族。屋敷。
どれも曖昧だった。
「一時的な可能性があります」
治癒師が説明する。
「一度、完全に生命活動が停止しています。それが原因で、記憶が混乱していることも考えられます」
「戻るのですか」
「分かりません。焦らせない方がいいでしょう」
「では、無理に思い出させることはしません」
イルゼがすぐに答えた。
「それがよろしいかと」
その間、レオンハルトは部屋へ入らなかった。
入れなかった。
『……どなた、ですか?』
その声が、頭から離れない。
恨まれると思っていた。
もし生き返ることがあるなら、拒絶されても、怒鳴られても、それでも生きていてくれればいいと思っていた。
けれど。
目を覚ましたツェツィーリアは自分を見て、何も感じなかった。
誰なのかさえ、分からない。
ただ、知らない男を見るように少し戸惑っていた。
翌日。
「……お父様?」
その声を聞いた瞬間、ローゼン伯爵は動けなかった。
「ツェツィーリア」
「お父様」
「……分かるのか」
「何が?」
「私が誰か」
「お父様でしょう?」
ツェツィーリアが不思議そうに首を傾げる。
父が目を閉じた。
「そうだ」
声が震える。
「ああ。そうだよ」
「どうして泣いてるの?」
「泣いていない」
「泣いてるわ」
「……少しだけだ」
ツェツィーリアは困ったように笑った。
その笑い方は、昔と同じだった。
午後には、イルゼの名も戻った。
「イルゼ」
自然に呼ばれ、イルゼが持っていた水差しを落としかける。
「お嬢様?」
「どうしたの?」
「今、私の名前を」
「イルゼでしょう?」
ツェツィーリアが不思議そうにする。
「小さい頃から、ずっと一緒にいてくれた」
「……はい」
イルゼは今度こそ泣いた。
「そうです。ずっと」
ベッドのそばへ膝をつく。
ツェツィーリアが少し笑い、その頭へ手を伸ばした。
「泣かないで」
「無理です」
「どうして?」
「嬉しいからです」
「変なの」
「はい」
イルゼは泣きながら笑った。
それからも、記憶は少しずつ戻っていった。
幼い頃、父と庭を歩いたこと。
初めて馬に乗ったこと。
イルゼに髪を結ってもらった朝。
竜族の領地へ遊びに行ったこと。
◇
そして数日後。
「テオドール様がお見えです」
イルゼが言った。
ツェツィーリアは窓辺で本を読んでいた。
「テオドール……」
その名前を口にした瞬間、頭の中に何かが浮かんだ。
青い空。
風。
大きな翼。
『もっと高く!』
『駄目!』
『テオのけち!』
膝から本が滑り落ちる。
「お嬢様?」
ツェツィーリアの目が大きく見開かれた。
「テオ」
自然に、その名前が口から出た。
「……テオ?」
扉の向こうで、息を呑む音がした。
そこにテオドールが立っていた。
深い青の髪は、光の当たるところだけほんのり緑を含んで見える。青灰色の瞳が、彼女を見つめていた。
「ツェツィーリア」
声が震えた。
ツェツィーリアは彼を見る。
そして、また記憶が戻る。
小さな青竜。
その背中にしがみついて笑ったこと。
庭を走ったこと。
手を繋いだこと。
小指を絡めて約束したこと。
『またね、テオ!』
「……テオ」
もう一度呼ぶ。
テオドールが、その場で固まった。
「何で、そんな顔してるの?」
「……いや」
テオドールは顔を伏せ、一度大きく息を吐いた。
「久しぶりに、そう呼ばれたから」
「そう?」
「ああ」
「私、ずっとそう呼んでたでしょう?」
言ってから、ツェツィーリアは少し眉を寄せる。
「……あれ?」
記憶の中で、少し大きくなった自分は彼をこう呼んでいた。
『テオドール』
「途中から、テオドールって呼ぶようになったのね」
「ああ」
「どうして?」
「自然に」
「そうなの」
ツェツィーリアは少し考えてから、笑った。
「じゃあ、今はテオでいい?」
「……」
テオドールが何も言わなくなる。
「テオ?」
「……好きにして」
顔を上げる。
笑っていた。
けれど、青灰色の瞳は少し濡れている。
「変なの」
「うるさい」
「泣いてる?」
「泣いてない」
「みんなそう言うわね」
「誰が」
「お父様も」
ツェツィーリアが笑う。
その笑い声を、テオドールは長いあいだ、ただ聞いていた。
それから数日が過ぎた。
「かなり記憶が戻ってきましたね」
治癒師が言った。
「はい」
伯爵が頷く。
「幼少期については、ほとんど」
「最近のことは?」
「少しずつです」
十五歳より前の記憶は、かなり戻っていた。
けれど、その先にはところどころ、不自然なほど抜け落ちている部分がある。
「竜族の領地へよく行っていたことは覚えているそうです」
「はい」
「テオドール様のことも」
「ええ」
父は少しだけ黙った。
「ただ」
「はい」
「ひとりだけ」
治癒師にも分かっていた。
「レオンハルト様ですね」
伯爵が頷く。
「何も」
ツェツィーリアの記憶の中に、レオンハルトだけがいない。
十五歳で初めてきちんと話した日。
彼の番だと知ったこと。
黒竜の姿を見たこと。
その背に乗ったこと。
青い花。
深い青色のリボン。
十八歳になったら、隣にいたいと願ったこと。
疑われたこと。
泣いたこと。
それでも好きだったこと。
そして、命を投げ出したこと。
何ひとつ、残っていない。
まるで最初から、レオンハルトという男だけが彼女の人生に存在しなかったかのように。
◇
ローゼン家の二階廊下。
レオンハルトは伯爵の許しを得て、遠くから様子を見るだけという約束で屋敷を訪れていた。
「本当に、俺とのことだけ覚えていないんだな」
窓辺に立ったまま、レオンハルトが呟く。
「はい」
ヘルムートが隣に立っている。
「全部か」
「記録どおりなら、番に関係する記憶はすべて」
「……そうか」
レオンハルトは窓の外を見る。
庭では、ツェツィーリアが歩いていた。
その隣には、テオドールがいる。
まだ長く歩くことはできないらしく、二人はゆっくりと庭を進んでいた。
何かを話したのだろう。
ツェツィーリアが笑う。
テオドールも笑った。
「テオ」
窓越しでも、かすかに聞こえた。
レオンハルトの指先が、ぴくりと動く。
テオ。
昔の呼び方。
テオドールとの思い出は、彼女の中へちゃんと戻ってきた。
自分との思い出だけが、戻らない。
「レオンハルト様」
「……分かっている」
ヘルムートが何を言おうとしたのか、聞く前に答えた。
「近づくつもりはない」
昨日、屋敷を訪れた際、偶然一度だけ廊下ですれ違った。
ツェツィーリアはレオンハルトに気づくと、立ち止まった。
そして、少し戸惑ったように頭を下げた。
『レオンハルト様、でしたよね』
その呼び方が、胸の奥を深く抉った。
昔。
『レオンハルト様』
そう呼ばれて、自分から言った。
『様はいらない』
『レオンハルトでいい』
恥ずかしそうに、初めて。
『……レオンハルト』
そう呼んでくれた。
それから何度も、何度も名前を呼ばれた。
嬉しいときも。
怒ったときも。
泣いたときも。
死ぬ直前まで。
『レオンハルト、大好きよ』
最後まで、自分の名前を呼んでくれた。
でも今は。
『レオンハルト様』
もう、そこまで遠い。
「……生きている」
レオンハルトは、自分に言い聞かせるように呟く。
「はい」
「それでいい」
あの日、自分が望んだことは叶った。
ツェツィーリアは生きている。
父を思い出した。
イルゼを思い出した。
テオドールを思い出した。
そして、笑っている。
それなら。
「……それでいいんだ」
ヘルムートは何も言わなかった。
◇
しばらくして、ツェツィーリアは庭のベンチへ腰を下ろした。
「疲れた?」
「少しだけ」
「戻る?」
「ううん。もう少しここにいたい」
「じゃあ休もう」
テオドールが隣へ座る。
秋の風が吹いた。
「テオ」
「ん?」
「私」
ツェツィーリアは少し考える。
「何か、大切なことを忘れてる気がするの」
テオドールの表情が止まった。
「……そう」
「でも」
胸元へ手を置く。
「何だったのか、全然分からない」
「……」
「変な感じ」
テオドールはしばらく黙っていた。
「無理に思い出さなくていいんじゃない」
「そうかな」
「ああ」
「でも、大切なことだったら?」
「それでも」
テオドールは前を向いた。
「思い出さないことで、お前が生きられるなら」
ツェツィーリアが彼を見る。
「何、それ」
「……いや」
テオドールは少し笑った。
「今は、体を治す方が先ってこと」
「そうね」
ツェツィーリアも笑う。
そのとき、館の二階の窓辺に立っている男が見えた。
黒髪。
金色の瞳。
「あ」
ツェツィーリアが顔を上げる。
「レオンハルト様」
テオドールもそちらを見る。
窓辺の男と、一瞬だけ目が合った。
レオンハルトは何も言わない。
ツェツィーリアが少しだけ首を傾げる。
「あの方」
「うん」
「どうして、あんなに悲しそうな顔をしてるの?」
テオドールは答えなかった。
答えられなかった。
ツェツィーリアはしばらくレオンハルトを見ていた。
けれど、それだけだった。
胸が痛むことも、懐かしいと思うこともない。
知らない男。
父から、竜族の長だと教えられた人。
ただ、それだけ。
「寒くなってきたわ」
ツェツィーリアが立ち上がる。
「戻ろうか」
「うん」
テオドールが手を差し出す。
ツェツィーリアは何のためらいもなく、その手を取った。
「ありがとう、テオ」
「ああ」
二人がゆっくり館へ戻っていく。
レオンハルトは、窓辺からその姿を見送った。
生きている。
それだけでいいと、自分で願った。
だから今度こそ、その言葉を守らなければならない。
たとえ彼女の中に、自分がもう、どこにもいなくても。




