第11話 番ではないあなたを
ツェツィーリアが生き返ってから、ひと月が過ぎた。
体は少しずつ元に戻っていた。
最初は部屋の中を歩くだけで息が切れ、階段を下りるにもイルゼの手が必要だった。けれど今では、天気のいい日なら庭まで一人で歩ける。
「お嬢様」
「なあに?」
「一人で先へ行かないでくださいませ」
「庭よ?」
「庭でもです」
イルゼが少し早足で追いついてくる。
「もう大丈夫なのに」
「大丈夫ではありません」
「治癒師も、少しくらい歩いた方がいいって」
「少しです」
「これくらい少しよ」
「昨日もそうおっしゃって、昼食のあと眠ってしまわれたでしょう」
「あれは眠かっただけです」
「二時間も?」
「……」
ツェツィーリアは目を逸らした。
イルゼがため息をつく。
「もう」
けれど、その声は少し嬉しそうだった。
ツェツィーリアには分かっている。
イルゼは自分が歩くたび、笑うたび、食事をするたび、今でもときどき泣きそうな顔をする。
父も同じだった。
何でもないときに、じっとツェツィーリアを見つめていることがある。
「ねえ、イルゼ」
「はい」
「私、本当に一度死んだのよね」
イルゼの足が止まった。
「お嬢様」
「大丈夫よ」
ツェツィーリアは笑う。
「今はちゃんと生きてるもの」
「……はい」
「でも、変な感じ」
自分の胸へ手を当てる。
傷はもう、ほとんど残っていない。
ただ、そのときの記憶も残っていなかった。
「誰かを庇ったんでしょう?」
「……」
「レオンハルト様を」
その名を口にすると、イルゼの表情がわずかに硬くなる。
ツェツィーリアは気づいていた。
父もイルゼも、レオンハルトの話をしたがらない。
何かあった。
それくらいは分かる。
「私、あの方の番だったのよね」
「……はい」
「それも覚えてないの」
不思議だった。
番。
竜族にとって、生涯ただ一人の相手。
そんな特別な相手だったはずなのに、レオンハルトを見ても本当に何も感じない。
「怖くはないのよ。でも……知らない人なの」
それが一番近かった。
「お父様の知り合いより、もっと遠い感じ」
「……そうですか」
「なのに、私はその人を庇って一度死んだのよね」
自分で言っても、不思議な話だった。
「私、そんなにレオンハルト様を好きだったの?」
イルゼの目が揺れた。
「はい」
しばらくして、静かに答える。
「とても」
「そう」
ツェツィーリアは少し考えた。
「どんなふうに?」
聞いた瞬間、イルゼの顔からわずかに色が消えた。
ツェツィーリアはすぐに気づく。
「ごめんなさい」
「いえ」
「言いたくない?」
「そうではありません」
イルゼは、まっすぐツェツィーリアを見た。
「お嬢様。思い出さなくていいんです」
「……」
「今のお嬢様が、知らなくても困らないことなら」
「イルゼ」
「どうか」
ツェツィーリアの手を取る。
「無理に、そこへ戻ろうとなさらないでください」
必死だった。
ツェツィーリアは、それ以上聞けなくなった。
「……分かった」
「申し訳ありません」
「謝らないで」
手を握り返す。
「きっと、あなたにもつらいことだったのね」
イルゼは答えなかった。
ただ、ツェツィーリアの手を少しだけ強く握った。
その日の午後。
レオンハルトは、ローゼン家を訪れていた。
「ツェツィーリアに会いたい」
玄関ホールで待っていたイルゼは、すぐには答えなかった。
「何をお話しになるのですか?」
「……分からない」
「分からない?」
「顔を見たい。それだけなのかもしれない」
イルゼの表情が冷たくなる。
「でしたら、お帰りください」
「イルゼ」
「お嬢様があなたを思い出せば、何か変わるのですか」
「……」
「またあなたを愛してくだされば、あなたは楽になるのでしょうね」
「違う」
「では、何のためです」
レオンハルトは答えられなかった。
父親も、イルゼも、テオドールも。
ツェツィーリアは少しずつ思い出している。
自分とのことだけが、何ひとつ戻らない。
だから一度だけ、確かめたくなったのかもしれない。
本当に、自分だけなのか。
けれど、それを確かめて何になる。
「あなたが楽になるために、お嬢様をまた苦しめるのですか?」
「……いや」
レオンハルトは目を閉じた。
違う。
それだけはしてはいけない。
「すまない」
イルゼがわずかに目を見開く。
「ツェツィーリアには会わない」
「……」
「もう、俺から会おうとはしない」
自分で決めたはずだった。
生きているだけでいいと。
その言葉を守ると。
それでも、一度だけ顔を見たいと思ってここまで来てしまった。
「お帰りください」
イルゼが静かに言う。
「ああ」
レオンハルトは今度こそ踵を返した。
屋敷の外へ出ると、ヘルムートが待っていた。
「レオンハルト様」
「何だ」
「お会いには?」
「……会わなかった」
「そうですか」
レオンハルトは馬へ向かわず、ふと庭の方を見る。
木々の間に、淡い金髪が見えた。
ツェツィーリア。
その隣には、テオドールがいる。
「テオ」
「何?」
「この木、覚えてる?」
ツェツィーリアが一本の木を指さしていた。
「ああ」
「私、もしかして、ここから落ちた?」
「落ちた」
「やっぱり。すごく怒られた気がするの」
「俺が怒った」
「テオが?」
「ああ」
「お父様じゃなくて?」
「伯爵にも怒られてた」
「二人から?」
「登るなって言ったのに登ったからだろ」
ツェツィーリアが笑う。
「昔の私、ずいぶんお転婆だったのね」
「今も大して変わらないだろ」
「失礼ね」
「この前も一人で庭に出て、イルゼに怒られたって聞いたけど」
「誰から聞いたのよ」
「イルゼ」
「もう」
二人の笑い声が聞こえる。
レオンハルトは、ただ見ていた。
ツェツィーリアがテオドールの隣で、何の緊張もなく笑っている。
「……思い出したんだな」
「はい。幼少期については、かなり思い出しているようです」
「……そうか」
よかった。
本当に、そう思う。
彼女の人生すべてを失わせたわけではなかった。
父も、イルゼも、テオドールも。
ちゃんと彼女の中へ帰ってきた。
ただ、自分だけが帰れない。
「行こう」
レオンハルトが言う。
「よろしいのですか」
「ああ」
もう一度だけ庭を見る。
ツェツィーリアは笑っていた。
それでいい。
今度こそ、本当にそう思った。
◇
しばらくして。
ツェツィーリアとテオドールは、庭の奥にあるベンチへ腰を下ろしていた。
「ねえ、テオ」
「うん」
「私、あなたの背中に乗ったのよね」
「ああ」
「飛んだの?」
「少しだけ」
「嘘」
「何で」
「記憶の中では、すごく高かったもの」
「それは、お前が六歳だったから」
「ああ」
「庭の木より下しか飛んでない」
「本当に?」
「本当」
ツェツィーリアは少し残念そうな顔をした。
「もっとすごい冒険だと思ってた」
「俺にとっては十分すぎる冒険だったよ」
「どうして?」
「人間の六歳児を背中に乗せて飛ぶ側の気持ちを考えろ」
ツェツィーリアは笑った。
「今でも乗れるかな?」
何気なく尋ねる。
テオドールが少しだけ黙った。
「……乗りたい?」
「うん」
「体が完全に治ったら」
「本当?」
「ああ」
「今度は高く?」
「……考えとく」
「もう、またそれ」
昔と同じだった。
その瞬間、記憶がひとつ鮮やかに戻る。
『次も乗せてね』
『考えとくって言っただろ』
『絶対ね』
『だから』
『約束!』
絡めた小指。
「……あ」
「どうした?」
ツェツィーリアは自分の手を見る。
それから、小指を差し出した。
「約束」
テオドールの瞳が大きく見開かれる。
「昔も、こうしたでしょう?」
「……覚えてるの?」
「今、思い出した」
ツェツィーリアは嬉しそうに笑う。
「テオが、人間は変なのって言った」
「……言った」
「やっぱり」
「覚えてるよ」
「じゃあ」
小指を差し出したまま言う。
「今度も約束して」
テオドールは少しだけ苦しそうに笑った。
そして、自分の小指を絡める。
「約束」
「うん」
ツェツィーリアは、何のためらいもなく笑った。
◇
その夜。
レオンハルトは竜族の館へ戻り、古い記録をもう一度開いていた。
番を守るために命を差し出した者は、一度死を迎え、ごく稀に新しい命を得る。
その代価として、番との結びをすべて失う。
「……ここです」
ヘルムートが古い文字を指す。
「『失われた結びは、二度と同じ形では結ばれない』」
「……」
「さらに、『再び生を得た者は、以前の番より完全に自由となる』と」
「完全に」
「はい」
レオンハルトはしばらく黙った。
「俺が番だったことを理由に」
「何も求めることはできません。竜族の慣習上も、再生した者の意思が最優先されます」
「そうか」
ヘルムートが少しだけ声を落とす。
「そして、レオンハルト様」
「何だ」
「今のお二人の間には、番の反応がまったくありません」
「ああ」
分かっていた。
ツェツィーリアが生き返った瞬間から、何も感じない。
彼女がどこにいるのか。
近くにいるのか。
遠くへ行ったのか。
以前なら、薬で鈍らされていても完全には消えなかったものが、今は本当に何もない。
「もう」
レオンハルトは小さく呟く。
「俺の番ではないんだな」
「……はい」
レオンハルトは一度、目を閉じた。
彼女は、自分を守るために死んだ。
そして、その命と引き換えに起きた奇跡によって、番の結びまで失った。
最後まで自分を愛してくれた彼女が。
自分を守ったことで。
もう、自分の番ではなくなった。
「……皮肉だな」
笑おうとして、できなかった。
「レオンハルト様」
「いや」
首を振る。
「最初から、俺のものじゃなかった」
十五歳の彼女に、自分で言った。
『番だからといって、お前の人生が急に俺のものになるわけじゃない』
あの頃の自分は、ちゃんと分かっていたはずなのに。
「今度こそ」
レオンハルトは古い記録を閉じた。
「間違えない」
ヘルムートは何も言わなかった。
それから、レオンハルトはローゼン家へ来なくなった。
ツェツィーリアがそのことに気づいたのは、さらに半月ほど経った頃だった。
「最近」
昼食のあと、父とお茶を飲んでいるとき、ふと思い出した。
「レオンハルト様、いらっしゃらないわね」
父の手が、ほんの少し止まる。
「そうだね」
「前はよく来ていたの?」
「……お前が生き返った直後は」
「そう」
ツェツィーリアは紅茶を一口飲む。
「私に会いたかったのかしら」
「そうだと思うよ」
「でも、私」
少し困ったようにカップを見る。
「何を話したらいいのか分からなかったから」
「ああ」
「これでいいのかも」
父は娘を見る。
「ツェツィーリア」
「なあに?」
「もし、昔のことを知りたくなったら」
「うん」
「聞いてくれて構わない」
ツェツィーリアはしばらく父を見つめた。
「お父様は、話したい?」
「……いや」
「じゃあ、聞かない」
「いいのか?」
「うん」
不思議と、強く知りたいとは思わなかった。
「何か、とても大事なものを忘れているんだろうなって思うことはあるわ」
「……」
「でも」
ツェツィーリアは胸へ手を置く。
「今、苦しくないの」
何かを失ったはずなのに、そこには痛みがない。
「それなら」
少し笑う。
「忘れたままでもいいのかもしれない」
父の目が少しだけ赤くなる。
「お父様?」
「いや」
「また泣いてる?」
「泣いていないよ」
「みんな、そればっかり」
ツェツィーリアは笑った。
その頃、テオドールは以前より少し頻繁にローゼン家へ来るようになっていた。
けれど、毎日ではない。
用事もないのに朝から晩まで居座ることもなかった。
ツェツィーリアの体調が悪ければ帰る。
疲れていれば、
「また今度」
それだけ言う。
昔の話をするときも、自分に都合のいいことは決して言わなかった。
「ねえ、テオ」
「何?」
「私たちって、本当にただの幼馴染だったの?」
ある日、二人でお茶を飲んでいると、ツェツィーリアが尋ねた。
テオドールがむせる。
「大丈夫?」
「……何で急に」
「イルゼが」
「イルゼ?」
「あなたが私のことで、ずいぶん心配してくれてたって言ったから」
「それだけ?」
「うん」
テオドールは少しだけ目を逸らした。
「昔からの友人だよ」
「それだけ?」
「……何が聞きたいんだよ」
「私、あなたのこと好きだった?」
今度こそ、テオドールが完全に止まった。
「……」
「テオ?」
「友人としては、すごく」
「恋愛としては?」
「それは」
テオドールは、ツェツィーリアを見る。
「違う」
はっきり答えた。
「そうなの」
「ああ」
嘘ではない。
ツェツィーリアはレオンハルトを好きだった。
それを、自分は誰より知っている。
「じゃあ、テオは?」
今度は本当に答えられなくなった。
「俺?」
「私のこと、どう思ってた?」
「……」
「小さい頃から仲良しだったんでしょう?」
「ああ」
「妹みたいな感じ?」
「それは違う」
即答した。
「じゃあ?」
「……ツェツィーリア」
「うん?」
言えるはずがなかった。
死んだ彼女の手を握って。
『愛してる』
そう言ったことなど。
今の彼女に背負わせたくない。
「大事な友人だった」
それだけ答えた。
「今も?」
「ああ」
「そう」
ツェツィーリアは少し笑う。
「よかった」
「何が?」
「今の私も、テオのこと好きよ」
テオドールの心臓が跳ねた。
「……」
「友達として」
「……ああ」
「何、その顔」
「何でもない」
「変なの」
ツェツィーリアは笑う。
テオドールも、少し遅れて笑った。
今は、それでよかった。
冬が近づく頃。
ツェツィーリアは、ようやく長い距離を歩けるようになった。
「今日は少し遠くまで行く?」
「行きたい」
「疲れたらすぐ言えよ」
「分かってる」
「本当に?」
「イルゼと同じこと言わないで」
「心配してるんだから仕方ないだろ」
二人で屋敷の外へ続く道を歩く。
木々は色づき、足元には落ち葉が積もっている。
「きれい」
「ああ」
「私、秋が好きだった?」
「好きだったと思う」
「思う?」
「冬も好きって言ってたし、春も好きって言ってた」
「全部じゃない」
「夏は暑いって文句言ってた」
「あ、それは今も」
「変わってないな」
笑いながら歩く。
しばらくして、ツェツィーリアは立ち止まった。
「テオ」
「ん?」
「最近ね」
木々の向こうを見る。
「あなたといると、安心するの」
テオドールの表情が、わずかに変わった。
「ううん……ずっと前からだったのかもしれない。でも」
ツェツィーリアは彼を見る。
「今は前より、もっと安心する気がする」
一瞬、テオドールは言葉を失った。
「今?」
「うん。今」
ツェツィーリアは頷く。
「そっか」
テオドールが少し笑った。
「今、そう思ってくれるなら嬉しい」
「昔は?」
「昔のことは、昔のことだよ」
「……そうね」
風が吹き、淡い金髪が揺れる。
ツェツィーリアはその髪を耳へかけた。
「私、昔の自分がどうだったか、全部取り戻さなくてもいいのかもしれない」
「ああ」
「今、好きなものを」
歩き出す。
「また見つければいいのよね」
「ああ」
「食べ物とか」
「そこから?」
「大事でしょう?」
「まあな」
「本とか」
「うん」
「行きたい場所とか」
「ああ」
そして、ほんの少しだけ。
ツェツィーリアは隣を歩くテオドールを見る。
「好きな人も」
テオドールの足が、一瞬止まりかけた。
「……そうだな」
「ふふ」
「何」
「なんでもない」
ツェツィーリアは少しだけ先へ歩く。
「テオ、早く」
振り返って笑う。
昔、何度も見た光景。
『テオ、こっち!』
けれど、今目の前にいるのは六歳の少女ではない。
一度死んで、新しい人生を手にした十八歳のツェツィーリアだ。
「遠く行くなよ」
テオドールが言う。
昔と同じように。
「分かってるわ」
ツェツィーリアも笑う。
似ている。
けれど、同じではない。
二人は昔へ戻っているのではなかった。
ここから、新しい時間を少しずつ積み重ね始めていた。
◇
その日の夕方。
「レオンハルト様」
ヘルムートが机の上へ書類を置いた。
「ローゼン伯爵家からです」
レオンハルトの手が止まる。
「ツェツィーリアの?」
「いいえ。交易についての書類です」
「……そうか」
手に取る。
以前なら、ローゼン家から何か届くだけで、真っ先に彼女のことを考えた。
今も、それは変わらない。
「体調は」
「順調に回復されているそうです」
ヘルムートは、頼まれていないことまで静かに付け足す。
「最近は、屋敷の外まで散歩をなさっていると」
「……そうか」
「はい」
「彼女は、笑っているか」
ヘルムートが一瞬だけ黙る。
「はい」
「そうか」
レオンハルトは書類へ目を落とした。
生きている。
歩いている。
笑っている。
自分を覚えていなくても。
それなら、十分だった。
そう思える自分でいようとした。
同じ頃。
ローゼン家の庭では、ツェツィーリアがテオドールと並んでいた。
「テオ」
「何?」
「春になったら」
ツェツィーリアが言う。
「空を飛ぼう」
「……」
「約束したでしょう?」
小指を見せる。
テオドールが笑った。
「ああ」
「今度こそ、高くね」
「考えとく」
「もう!」
ツェツィーリアが笑う。
テオドールも笑った。
番ではない。
運命に決められた相手でもない。
ただ、昔から知っている人。
そして今、もう一度知っていこうとしている人。
ツェツィーリアはまだ、その気持ちに名前をつけてはいなかった。
けれど、春が来るのを少しだけ楽しみにしていた。




