最終話 あなたの番は、もうどこにもいない
春が来た。
長かった冬が終わり、ローゼン伯爵領の雪も少しずつ消えていった。庭の木々には新しい芽がつき、柔らかな風が開け放した窓から部屋へ入ってくる。
「お嬢様」
「なあに?」
「本当に行かれるのですか?」
「行くわよ」
ツェツィーリアは鏡の前で髪を整えながら答えた。
「もう治癒師からも、問題ないって言われたもの」
「ですが、空を飛ぶのですよ」
「知ってるわ」
「竜の背に乗って」
「小さい頃にも乗ったでしょう?」
「それとこれとは話が違います」
イルゼは不満そうだった。
「昔は庭の上を少し飛んだだけだったのでしょう?」
「そうみたい」
「今回は?」
「まだ決めてないわ」
「お嬢様」
「大丈夫」
ツェツィーリアは笑う。
「テオなら無茶しないもの」
言ったあと、ふと鏡の中の自分を見る。
テオなら。
この数か月で、そんな言葉が自然に出るようになっていた。
何かを見つければ、テオにも見せたいと思う。面白いことがあれば、今度会ったときに話そうと思う。
屋敷へ来る日を聞けば、少し嬉しい。
会えない日が続けば、少し寂しい。
「……」
「お嬢様?」
「何でもない」
ツェツィーリアは引き出しを開けた。
中には、青い翼の髪飾りがある。
十八歳の誕生日に、テオドールが贈ってくれたもの。死ぬ前の自分は大切にしまい込んで、なかなか使わなかったらしい。
「今日は、これにする」
イルゼが少し目を見開く。
「よろしいのですか?」
「だって、使ってるかって聞かれたんでしょう?」
「そうですが」
「なら、使わなくちゃ」
髪飾りを渡すと、イルゼがほんの少し笑った。
「かしこまりました」
玄関を出ると、聞き慣れた声がした。
「遅い」
ツェツィーリアは目を細める。
「時間通りよ」
「そう?」
「そうよ」
「俺、結構待ったけど」
「早く来すぎたんじゃない?」
「……それはある」
「でしょう?」
テオドールが笑う。
春の日差しを受けた深い青の髪は、光の当たるところだけほんのり緑を含んで見えた。
「行こうか」
「うん」
ツェツィーリアが彼の横を通り過ぎようとした、そのとき。
テオドールの動きが止まった。
「……ツェツィーリア」
「何?」
「それ」
視線が髪へ向いている。
「ああ。これ?」
「……使ってくれたんだ」
「使ってって言ったんでしょう?」
「別に使えとは言ってない」
「使ってるかって聞いたって、イルゼから聞いたわ」
「イルゼ……」
ツェツィーリアは髪飾りへ触れた。
「綺麗でしょう?」
「ああ」
「似合う?」
テオドールが少し黙る。
「テオ?」
「……似合う」
「ふふ」
ツェツィーリアは笑った。
「よかった」
テオドールが目を逸らす。
「何?」
「いや」
「顔、赤くない?」
「気のせい」
「そう?」
「早く行くぞ」
先へ歩き出した背中を見ながら、ツェツィーリアは少しだけ笑った。
向かったのは、ローゼン家の裏手に広がる草原だった。
幼い頃、二人で遊んだこともある場所だ。
「ここならいいだろ」
「ここから飛ぶの?」
「ああ」
「高く?」
「最初からそれか」
「約束したもの」
「高く飛ぶとは約束してない」
「したわ」
「してない」
「小指までつないだのよ?」
「飛ぶ約束だろ」
「細かいわね」
「大事だろ」
ツェツィーリアは頬を膨らませる。
「けち」
「……昔から、それ言えばどうにかなると思ってるだろ」
「ならないの?」
「なると思う?」
「なる」
即答すると、テオドールがとうとう吹き出した。
「変わってないな」
「何が?」
「そういうところ」
笑いながら少し離れる。
「下がって」
「うん」
ツェツィーリアが数歩下がる。
風が吹いた。
次の瞬間、目の前に大きな青竜が現れた。
「……わあ」
記憶の中にもいる。
けれど、あの頃とはずいぶん違う。
幼かった青竜は、今では大きく成長していた。青い鱗は、光が当たると銀色にも深い藍色にも見える。
大きな翼。
「テオ」
ツェツィーリアは近づく。
「大きくなったね」
青竜が少しだけ首を傾げる。
「昔はもっと小さかった」
当然だと言いたげに、鼻先から息を吐いた。
「でも、やっぱり綺麗」
青竜の瞳が少し細くなる。
「触っていい?」
大きな頭が下がる。
手を伸ばす。
鱗は、記憶にあるものと同じだった。
「温かい」
その瞬間、ひとつの記憶が蘇る。
『テオ、かわいい』
青竜が固まる。
『かわいいの嫌なの?』
『じゃあ、格好いい』
思わず笑った。
「テオ」
青竜がこちらを見る。
「昔、かわいいって言ったら怒ったでしょう?」
ぶん、と尾が草を叩く。
「ふふっ。やっぱり」
変わっていない。
「今は格好いいわ」
青竜が少し胸を張る。
「でも」
ツェツィーリアは口元を緩めた。
「やっぱり、テオはかわいい」
ぶん、と尾が草を叩く。
「ごめん、ごめん」
笑いながら、首元へ手を伸ばした。
「乗せて」
青竜が体を低くする。
ツェツィーリアはゆっくり背へ登った。
以前より、ずっと高い。
けれど、怖くなかった。
「大丈夫」
首元にしっかりつかまる。
「行って、テオ」
大きな翼が広がった。
風が頬を撫でる。
「すごい!」
草原がどんどん小さくなっていく。
木々よりも高い。
丘よりも、もっと。
遠くにはローゼン家の屋敷が見える。
「テオ!」
青竜が少しだけ振り返る。
「もっと高く!」
すぐに大きく首を振った。
「もう大丈夫よ!」
また首を振る。
「けち!」
すると、急に高度が少し上がった。
「わあ!」
ツェツィーリアは声を上げて笑う。
「やった!」
春の空。
青い翼。
眼下に広がる森。
遠くには雪を残した山。
こんな景色は、初めて見た。
風が気持ちいい。
空が、どこまでも青い。
ツェツィーリアは、ただ目の前の景色に見入っていた。
「テオ!」
名前を呼ぶ。
青竜がまた振り返る。
「楽しい!」
風に消えそうなほどの声で伝える。
青竜の羽ばたきが、ほんの少し軽くなった。
降りたのは、少し離れた丘だった。
春になると、小さな白い花が咲く場所。
テオドールが人の姿へ戻る。
「どうだった?」
「最高」
「疲れてない?」
「全然」
「本当に?」
「テオまでイルゼみたいなこと言わないで」
「倒れられたら困る」
「もう元気よ」
「分かってるけど」
テオドールは、それでも少し心配そうにツェツィーリアを見る。
「……何?」
「いや」
「最近、それ多いわね」
「何が?」
「何でもないって言うの」
「そう?」
ツェツィーリアは少し先の草の上へ座る。
「休憩」
「疲れてるじゃん」
「疲れたんじゃなくて、ここが綺麗だから」
「はいはい」
テオドールも少し離れたところへ座った。
その距離に、ツェツィーリアは目を向ける。
いつも少しだけ離れている。
手を伸ばせば届くのに、自分からは決して触れない。
昔からそうだっただろうか。
小さい頃は手を引かれた。翼の背にも乗った。木から落ちたときには、きっと抱き起こしてくれた。
でも、大人になってからのテオドールは、いつもあと一歩を越えない。
「テオ」
「ん?」
「どうして、そこにいるの?」
「……ここが空いてたから」
「もっとこっちに来ればいいのに」
「別に聞こえるだろ」
「聞こえるけど」
ツェツィーリアは、少しだけ彼の方へ寄った。
テオドールの肩がわずかに固くなる。
「……近い」
「そう?」
「ああ」
「嫌?」
「……嫌なわけないだろ」
小さな声だった。
「じゃあいいじゃない」
「……よくない」
「どうして?」
「ツェツィーリア」
困ったように名前を呼ばれる。
その声を聞いて、胸が少しだけ速く鳴った。
「ねえ。私ね」
「うん」
「最近、変なの」
「何が?」
「テオが来る日が楽しみなの」
返事がない。
「来ないと、今日は来ないのかなって思う」
「……」
「何かあると、テオに話したくなるし。今日も」
髪へ触れる。
青い翼の飾り。
「これをつけたら、テオがどんな顔するかなって思った」
隣から、息を呑む気配がした。
「それって」
ツェツィーリアは、ようやく彼を見る。
「何だと思う?」
テオドールが苦しそうな顔をした。
「俺に聞くなよ」
「どうして?」
「俺が答えたら、都合のいいことしか言えない」
「都合のいいこと?」
「……」
「テオ」
ツェツィーリアは少しだけ眉を寄せる。
「私に何か隠してるでしょう?」
「……」
「前にも聞いたわ」
『私のこと、どう思ってた?』
『大事な友人だった』
あの答え。
嘘ではない。
でも、全部でもない。
そんな気がしていた。
「昔の私のこと?」
「……」
「私が忘れてること?」
「違う」
「じゃあ」
「俺のことだ」
ツェツィーリアは黙った。
「俺が、勝手に隠してるだけ」
「どうして?」
「お前に背負わせたくないから」
「何を?」
「……」
「ちゃんと言って」
春の風が吹く。
白い花が静かに揺れた。
テオドールは長いあいだ、何も言わなかった。
やがて。
「俺は、お前が好きだった」
低い声が落ちる。
ツェツィーリアの目が少し大きくなる。
「昔から」
「……」
「ずっと」
青灰色の瞳が、まっすぐ向けられる。
「小さい頃から、ずっと好きだった」
胸が強く鳴った。
「でも、お前に番が現れた」
「……レオンハルト様?」
「ああ。だから、身を引いた」
簡単な言葉だった。
けれど、それがどれほど長い時間だったのか、ツェツィーリアにも少し分かった。
「お前がレオンハルト様の話をするとき、すごく楽しそうだったから」
「……」
「幸せそうだった」
ツェツィーリアは、その頃の自分を何も覚えていない。
でも、テオドールは覚えている。
「だから、それでいいと思った」
「テオ」
「本当に」
一度、言葉を切る。
「そう思おうとした」
思おうとした。
その言葉だけで、少し分かった。
「でも」
テオドールの手が、草の上で強く握られる。
「お前が死んだとき」
ツェツィーリアの呼吸が止まった。
「俺、後悔した」
「……」
「何で言わなかったんだって」
「……」
「番だからって、何で最初から諦めたんだって」
ツェツィーリアは黙って聞いていた。
「お前が死んで、初めて言った」
「何を?」
もう、分かっている気がした。
「愛してるって」
胸がぎゅっとなる。
「……私に?」
「ああ」
「でも、私は死んでたのよね」
「ああ」
「聞こえてないわ」
「そうだよ」
テオドールが少しだけ笑う。
「だから言えた」
「……ずるい」
「知ってる」
「私が返事できないときに」
「本当に、ずるいよな」
けれど、すぐにその表情が静かになる。
「だから、生き返ったお前には言わないつもりだった」
「どうして?」
「だって、お前は自由になったんだ」
番からも。
そして。
「昔のお前からも」
静かな声だった。
「だから俺まで、昔から好きだったなんて押しつけたくなかった」
ツェツィーリアは何も言わなかった。
「昔の俺を覚えてるから選ぶんじゃなくて」
テオドールが続ける。
「今のお前には、今の好きなものを好きになってほしかった」
ツェツィーリアの胸が熱くなる。
ああ。
だから、この人は何も言わなかったのだ。
自分をずっと好きだったことも。
死んだ彼女へ告白したことも。
全部。
「……馬鹿ね」
「うん」
「本当に」
「知ってる」
ツェツィーリアは彼の方へ向き直る。
「じゃあ、今は?」
テオドールの表情が止まった。
「え?」
「昔じゃなくて」
一度、息を吸う。
「今の私は?」
「……」
「今も、好き?」
テオドールは、しばらく答えられなかった。
「テオ」
「……好きだよ」
ようやく聞こえた。
「好きだ」
今度は、はっきり。
「昔のお前も」
「……」
「今のお前も」
青灰色の瞳が少し濡れる。
「ずっと好きだ」
ツェツィーリアの目も熱くなった。
「でも」
テオドールはすぐに続ける。
「それで、お前が何か返す必要はない」
「……」
「俺は、お前の番じゃない」
その言葉を、ツェツィーリアはしばらく聞いていた。
それから。
「知ってるわ」
答える。
「番じゃないことくらい」
「……」
「運命でもない」
「ああ」
「あなたを選ばなくても、生きていける」
「……ああ」
ツェツィーリアは少し笑った。
「でもね」
心臓が、さっきからずっと大きく鳴っている。
けれど、怖くなかった。
「私、あなたが好きみたい」
テオドールが完全に動かなくなる。
「……みたい?」
「だって、こういうの、今の私には初めてだから」
昔、レオンハルトをどう好きだったのか。
知らない。
知る必要もない。
「でも」
ツェツィーリアは、もう一度テオドールを見る。
「会えると嬉しい」
「……」
「会えないと寂しい」
「……」
「あなたといると安心するし」
少し笑う。
「あなたが他の女の人と仲良くしてたら、たぶん嫌」
「……本当に?」
「たぶん」
「そこは、たぶんなんだ」
「まだ見たことないもの」
テオドールが笑った。
笑いながら、目元を押さえる。
「何?」
「……何でもない」
「またそれ」
「ごめん」
声が少し震えていた。
ツェツィーリアは、そっと彼の手を取る。
テオドールがびくりとした。
「ツェツィーリア」
「昔の私が誰を好きだったのかは、今の私には分からない」
「……ああ」
「でも」
指を絡める。
「今は」
微笑む。
「テオがいいの」
その瞬間、テオドールの顔が歪んだ。
「……それ」
声が掠れる。
「もう一回言って」
「嫌」
「何で」
「聞こえたでしょう?」
「聞こえなかった」
「絶対聞こえてた」
「頼むから」
あまりにも真剣な顔だった。
ツェツィーリアは少しだけ笑う。
そして。
「テオがいい」
今度は、ゆっくり言った。
「番じゃなくても」
自分で選ぶ。
「テオが好き」
次の瞬間。
強く抱きしめられた。
「……!」
驚いた。
今まで、一度もテオドールから触れてこなかったから。
「テオ?」
「ごめん」
言いながら、離れない。
「少しだけ」
腕に、さらに力が入る。
「このままでいさせて」
ツェツィーリアは、彼の胸元に頬を寄せた。
心臓の音が聞こえる。
速い。
「テオ」
「うん」
「心臓、すごいわよ」
「言うな」
「ふふ」
「今、本当に余裕ないから」
「そうなの?」
「そうだよ」
声が少し笑った。
けれど、また震えた。
「もう」
テオドールがツェツィーリアの髪へ顔を寄せる。
しばらくして、抱きしめたまま、繋いだ手へ視線を落とした。
指を絡める。
確かめるように、少しだけ力を込める。
「この手を離さない」
「……」
「今度こそ」
ツェツィーリアは、その言葉の意味を全部は知らない。
彼が一度、自分から手を離したことも。
死んだ自分の前で、どれほど後悔したのかも。
でも、声だけで大切な言葉なのだと分かった。
「うん」
小さく答える。
すると、テオドールが少しだけ体を離した。
青灰色の瞳が、すぐ近くにある。
「ようやく」
頬へ、そっと手が触れる。
とても大切なものに触れるように。
「今度こそ、お前をこの手で抱きしめられる」
ツェツィーリアの目が、少し熱くなる。
「テオ」
「愛してる」
今度は。
生きている自分へ。
ちゃんと届いた。
「ツェツィーリア」
テオドールが、もう一度言う。
「愛してる」
ツェツィーリアは笑った。
「私もよ」
それから少し考える。
「まだ、テオほど長くはないけど」
「……今それ言う?」
「だって本当でしょう?」
「いいんだよ」
テオドールが笑った。
「これからで」
「うん」
「これから、好きになって」
額をそっと合わせる。
「俺より好きになって」
「それは難しいかも」
「何で」
「テオ、何年分あるの?」
「……十年以上」
「ほら」
「じゃあ待つ」
「長生きだものね」
「ああ」
「でも」
ツェツィーリアは笑う。
「できるだけ早く追いつくわ」
「……それは」
「なあに?」
「嬉しすぎるからやめて」
「変なの」
二人で笑った。
春の風が、丘を通り抜けていった。
その日の夕方。
二人の関係を知った父は、しばらく何も言わなかった。
「お父様?」
「……いや」
「反対?」
「まさか」
「じゃあ、どうして黙ってるの?」
「少し」
父は目元を押さえた。
「安心しただけだよ」
「また泣いてる?」
「泣いていない」
「絶対泣いてるわ」
「年を取ると、目が弱くなるんだ」
「そんな歳じゃないでしょう」
ツェツィーリアが笑う。
父も、ようやく笑った。
「テオドール」
「はい」
父に呼ばれ、テオドールの背筋が伸びる。
「娘を頼む、とは言わない」
テオドールが少し驚く。
「ツェツィーリアは、自分で選べるからね」
「……はい」
「だから、二人でよく話し合いなさい」
「はい」
「どちらか一方だけが我慢することのないように」
「……はい」
テオドールは、今度は深く頭を下げる。
「大切にします」
父が眉を上げた。
「それも、娘自身に言いなさい」
「お父様」
「私は聞かなくていい」
ツェツィーリアが思わず笑う。
テオドールも、少し遅れて笑った。
イルゼは、
「ようやくですか」
それだけ言った。
「ようやく?」
ツェツィーリアが首を傾げる。
「何が?」
「いいえ」
「何?」
「何でもありません」
イルゼはテオドールを見る。
「テオドール様」
「はい」
「お嬢様を泣かせたら」
「……」
「分かっていらっしゃいますね?」
「はい」
即答だった。
「絶対に泣かせません。……嬉し泣きは、あるかもしれませんが」
イルゼは一瞬だけ黙る。
それから、満足そうに頷いた。
「よろしいです」
「イルゼ」
「何でしょう」
「私、子どもじゃないのよ」
「存じております」
「なら」
「それとこれとは別です」
少しも譲らない。
ツェツィーリアは、もう笑うしかなかった。
それから、二人は急がなかった。
番ではないから、すぐに結婚しなければならない理由もない。
運命だからと、何かを飛び越える必要もなかった。
一緒に町へ出た。
遠くまで飛んだ。
ツェツィーリアが海を見たいと言えば、テオドールが連れていった。
初めて見る海に、ツェツィーリアはしばらく言葉を失った。
「……すごい」
「それだけか?」
「だって、本当にすごいんだもの」
「ほかに言うことはないのか」
「仕方ないでしょう。本当にすごいんだから」
裸足になって、波打ち際を歩いた。
テオドールは、やっぱり少し後ろからついてくる。
「テオ」
「何?」
「こっち」
「濡れるだろ」
「いいじゃない」
「俺は靴を」
「早く」
手を伸ばす。
テオドールが少しだけ、その手を見る。
そして今度は、ためらわずに取った。
「子どもみたいだな」
「楽しいんだからいいの」
「ああ」
テオドールが笑う。
「そうだな」
ツェツィーリアは、その手を握ったまま海を見る。
昔の自分は、きっとこんな景色を見る未来を知らなかった。
十八歳になれば、レオンハルトの隣へ行く。
そう信じていたらしい。
でも今、そのことを聞いても胸は痛まない。
それはもう、自分が歩む未来ではないから。
今の自分には、今の未来がある。
◇
二年後。
ツェツィーリアは、テオドールと婚姻を結んだ。
小さな式だった。
ローゼン家の庭。
父と、イルゼと。
二人を昔から知る人々。
春の花が、たくさん咲いていた。
「テオ、緊張してる?」
「してない」
「嘘」
「してない」
「手、冷たいわよ」
「……」
「ふふ」
「ツェツィーリア」
「何?」
「今、笑うところ?」
「だって」
青竜の、あんなに大きな翼を持つ人が。
こんな日に、少し緊張している。
それが、なんだか可愛かった。
「テオ」
「ん?」
「幸せ?」
テオドールは、少し意外そうに目を瞬いた。
それから、ふっと笑う。
「うん」
「すごく?」
「すごく」
「よかった」
テオドールが、今度はツェツィーリアを見る。
「お前は?」
「私?」
「ああ」
ツェツィーリアは、少し考えるふりをした。
「……まあまあ?」
「おい」
「ふふ、冗談よ」
笑いながら、その手を握る。
「あなたとこうしていられることが、とても幸せよ」
テオドールの目が、優しく細められた。
「そうか」
「うん」
握った手に、少しだけ力がこもる。
「それなら、よかった」
番ではない。
生まれた瞬間から決められていた相手でもない。
この人でなければ生きられないわけでもない。
それでも。
この人がいい。
自分で、そう決めた。
◇
同じ日。
竜族の館。
「レオンハルト様」
執務室へ入ったヘルムートが、静かに頭を下げる。
「報告がございます」
「何だ」
「本日」
ほんの少し間があった。
「テオドール様とツェツィーリア様が、婚姻を結ばれました」
レオンハルトの手が止まった。
「……そうか」
それだけ答える。
ヘルムートは、何も続けなかった。
レオンハルトがゆっくりと窓の外を見る。
春の空は、青い。
「……幸せそうだったか」
やがて尋ねた。
「はい」
ヘルムートは嘘をつかなかった。
「とても」
長い沈黙。
「そうか」
レオンハルトは目を閉じる。
思い出す。
十五歳の少女。
淡い金髪。
薄青の瞳。
緊張して、ドレスの裾を握っていた。
『私は、レオンハルト様の番なのでしょう?』
あの頃、自分は言った。
『何もしなくていい』
『今まで通り暮らせ』
『番だからといって、お前の人生が急に俺のものになるわけじゃない』
ちゃんと分かっていた。
最初は。
そして少しずつ、彼女が自分を好きになった。
『レオンハルト』
初めて、様を取って呼んだ声。
『綺麗』
黒竜を見て笑った顔。
『レオンハルトだから好き』
青い花の丘。
『十八歳になったら、あなたの隣にいてもいい?』
全部、覚えている。
これから何百年経っても。
きっと忘れない。
でも。
ツェツィーリアは、もう何ひとつ覚えていない。
自分が贈ったリボンも。
背に乗せたことも。
自分を好きだと言ったことも。
最後まで、自分を愛して命を投げ出したことも。
何も。
「ヘルムート」
「はい」
「俺は」
声が少しだけ掠れた。
「あの頃、時間はいくらでもあると思っていた」
「……」
「また会えると」
十五歳の少女が、初めて庭で尋ねた。
『私、またここへ来てもいいですか?』
『もちろんだ』
『会いに来ても?』
『ああ』
『いつでも来い』
いつでも。
何度でも。
会えると。
本当に思っていた。
「……馬鹿だったな」
ヘルムートは何も言わなかった。
レオンハルトも、それ以上は言わない。
ただ、窓の外を見る。
どこか遠く。
この空の下で。
ツェツィーリアは今も生きている。
笑っている。
愛する男の隣で。
幸せに暮らしている。
それでいい。
それだけが、自分に残された唯一の救いだった。
その夜。
窓辺に立ったレオンハルトは、遠い昔をひとつずつ思い出していた。
『私、またここへ来てもいいですか?』
会える。
あのときは、そう答えた。
これから何度でも会えると思っていた。
彼女は自分の番だから。
ずっとそばにいるのだと。
どこかで、思っていた。
でも。
もう、いない。
ツェツィーリアは、生きている。
同じ淡い金髪で。
同じ薄青の瞳で。
昔と同じように、きっとよく笑う。
けれど。
自分を見ても、もう何も思わない。
自分の名前を、特別な響きで呼ぶこともない。
自分を愛した少女は、最後に自分を守って死んだ。
そして、新しい命と引き換えに、すべてを置いていった。
番も。
記憶も。
自分への愛も。
レオンハルトは目を閉じた。
番だった彼女は、今もどこかで笑っている。
けれど。
自分を愛していた番は。
もう。
どこにもいない。
【完】




