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あなたの番は、もうどこにもいない  作者: 黒猫と珈琲


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13/15

最終話 あなたの番は、もうどこにもいない

 春が来た。


 長かった冬が終わり、ローゼン伯爵領の雪も少しずつ消えていった。庭の木々には新しい芽がつき、柔らかな風が開け放した窓から部屋へ入ってくる。


「お嬢様」

「なあに?」

「本当に行かれるのですか?」

「行くわよ」


 ツェツィーリアは鏡の前で髪を整えながら答えた。


「もう治癒師からも、問題ないって言われたもの」

「ですが、空を飛ぶのですよ」

「知ってるわ」

「竜の背に乗って」

「小さい頃にも乗ったでしょう?」

「それとこれとは話が違います」


 イルゼは不満そうだった。


「昔は庭の上を少し飛んだだけだったのでしょう?」

「そうみたい」

「今回は?」

「まだ決めてないわ」

「お嬢様」

「大丈夫」


 ツェツィーリアは笑う。


「テオなら無茶しないもの」


 言ったあと、ふと鏡の中の自分を見る。


 テオなら。


 この数か月で、そんな言葉が自然に出るようになっていた。


 何かを見つければ、テオにも見せたいと思う。面白いことがあれば、今度会ったときに話そうと思う。


 屋敷へ来る日を聞けば、少し嬉しい。


 会えない日が続けば、少し寂しい。


「……」

「お嬢様?」

「何でもない」


 ツェツィーリアは引き出しを開けた。


 中には、青い翼の髪飾りがある。


 十八歳の誕生日に、テオドールが贈ってくれたもの。死ぬ前の自分は大切にしまい込んで、なかなか使わなかったらしい。


「今日は、これにする」


 イルゼが少し目を見開く。


「よろしいのですか?」

「だって、使ってるかって聞かれたんでしょう?」

「そうですが」

「なら、使わなくちゃ」


 髪飾りを渡すと、イルゼがほんの少し笑った。


「かしこまりました」


 玄関を出ると、聞き慣れた声がした。


「遅い」


 ツェツィーリアは目を細める。


「時間通りよ」

「そう?」

「そうよ」

「俺、結構待ったけど」

「早く来すぎたんじゃない?」

「……それはある」

「でしょう?」


 テオドールが笑う。


 春の日差しを受けた深い青の髪は、光の当たるところだけほんのり緑を含んで見えた。


「行こうか」

「うん」


 ツェツィーリアが彼の横を通り過ぎようとした、そのとき。


 テオドールの動きが止まった。


「……ツェツィーリア」

「何?」

「それ」


 視線が髪へ向いている。


「ああ。これ?」

「……使ってくれたんだ」

「使ってって言ったんでしょう?」

「別に使えとは言ってない」

「使ってるかって聞いたって、イルゼから聞いたわ」

「イルゼ……」


 ツェツィーリアは髪飾りへ触れた。


「綺麗でしょう?」

「ああ」

「似合う?」


 テオドールが少し黙る。


「テオ?」

「……似合う」

「ふふ」


 ツェツィーリアは笑った。


「よかった」


 テオドールが目を逸らす。


「何?」

「いや」

「顔、赤くない?」

「気のせい」

「そう?」

「早く行くぞ」


 先へ歩き出した背中を見ながら、ツェツィーリアは少しだけ笑った。


 向かったのは、ローゼン家の裏手に広がる草原だった。


 幼い頃、二人で遊んだこともある場所だ。


「ここならいいだろ」

「ここから飛ぶの?」

「ああ」

「高く?」

「最初からそれか」

「約束したもの」

「高く飛ぶとは約束してない」

「したわ」

「してない」

「小指までつないだのよ?」

「飛ぶ約束だろ」

「細かいわね」

「大事だろ」


 ツェツィーリアは頬を膨らませる。


「けち」

「……昔から、それ言えばどうにかなると思ってるだろ」

「ならないの?」

「なると思う?」

「なる」


 即答すると、テオドールがとうとう吹き出した。


「変わってないな」

「何が?」

「そういうところ」


 笑いながら少し離れる。


「下がって」

「うん」


 ツェツィーリアが数歩下がる。


 風が吹いた。


 次の瞬間、目の前に大きな青竜が現れた。


「……わあ」


 記憶の中にもいる。


 けれど、あの頃とはずいぶん違う。


 幼かった青竜は、今では大きく成長していた。青い鱗は、光が当たると銀色にも深い藍色にも見える。


 大きな翼。


「テオ」


 ツェツィーリアは近づく。


「大きくなったね」


 青竜が少しだけ首を傾げる。


「昔はもっと小さかった」


 当然だと言いたげに、鼻先から息を吐いた。


「でも、やっぱり綺麗」


 青竜の瞳が少し細くなる。


「触っていい?」


 大きな頭が下がる。


 手を伸ばす。


 鱗は、記憶にあるものと同じだった。


「温かい」


 その瞬間、ひとつの記憶が蘇る。


『テオ、かわいい』


 青竜が固まる。


『かわいいの嫌なの?』


『じゃあ、格好いい』


 思わず笑った。


「テオ」


 青竜がこちらを見る。


「昔、かわいいって言ったら怒ったでしょう?」


 ぶん、と尾が草を叩く。


「ふふっ。やっぱり」


 変わっていない。


「今は格好いいわ」


 青竜が少し胸を張る。


「でも」


 ツェツィーリアは口元を緩めた。


「やっぱり、テオはかわいい」


 ぶん、と尾が草を叩く。


「ごめん、ごめん」


 笑いながら、首元へ手を伸ばした。


「乗せて」


 青竜が体を低くする。


 ツェツィーリアはゆっくり背へ登った。


 以前より、ずっと高い。


 けれど、怖くなかった。


「大丈夫」


 首元にしっかりつかまる。


「行って、テオ」


 大きな翼が広がった。


 風が頬を撫でる。


「すごい!」


 草原がどんどん小さくなっていく。


 木々よりも高い。


 丘よりも、もっと。


 遠くにはローゼン家の屋敷が見える。


「テオ!」


 青竜が少しだけ振り返る。


「もっと高く!」


 すぐに大きく首を振った。


「もう大丈夫よ!」


 また首を振る。


「けち!」


 すると、急に高度が少し上がった。


「わあ!」


 ツェツィーリアは声を上げて笑う。


「やった!」


 春の空。


 青い翼。


 眼下に広がる森。


 遠くには雪を残した山。


 こんな景色は、初めて見た。


 風が気持ちいい。


 空が、どこまでも青い。


 ツェツィーリアは、ただ目の前の景色に見入っていた。


「テオ!」


 名前を呼ぶ。


 青竜がまた振り返る。


「楽しい!」


 風に消えそうなほどの声で伝える。


 青竜の羽ばたきが、ほんの少し軽くなった。


 降りたのは、少し離れた丘だった。


 春になると、小さな白い花が咲く場所。


 テオドールが人の姿へ戻る。


「どうだった?」

「最高」

「疲れてない?」

「全然」

「本当に?」

「テオまでイルゼみたいなこと言わないで」

「倒れられたら困る」

「もう元気よ」

「分かってるけど」


 テオドールは、それでも少し心配そうにツェツィーリアを見る。


「……何?」

「いや」

「最近、それ多いわね」

「何が?」

「何でもないって言うの」

「そう?」


 ツェツィーリアは少し先の草の上へ座る。


「休憩」

「疲れてるじゃん」

「疲れたんじゃなくて、ここが綺麗だから」

「はいはい」


 テオドールも少し離れたところへ座った。


 その距離に、ツェツィーリアは目を向ける。


 いつも少しだけ離れている。


 手を伸ばせば届くのに、自分からは決して触れない。


 昔からそうだっただろうか。


 小さい頃は手を引かれた。翼の背にも乗った。木から落ちたときには、きっと抱き起こしてくれた。


 でも、大人になってからのテオドールは、いつもあと一歩を越えない。


「テオ」

「ん?」

「どうして、そこにいるの?」

「……ここが空いてたから」

「もっとこっちに来ればいいのに」

「別に聞こえるだろ」

「聞こえるけど」


 ツェツィーリアは、少しだけ彼の方へ寄った。


 テオドールの肩がわずかに固くなる。


「……近い」

「そう?」

「ああ」

「嫌?」

「……嫌なわけないだろ」


 小さな声だった。


「じゃあいいじゃない」

「……よくない」

「どうして?」

「ツェツィーリア」


 困ったように名前を呼ばれる。


 その声を聞いて、胸が少しだけ速く鳴った。


「ねえ。私ね」

「うん」

「最近、変なの」

「何が?」

「テオが来る日が楽しみなの」


 返事がない。


「来ないと、今日は来ないのかなって思う」

「……」

「何かあると、テオに話したくなるし。今日も」


 髪へ触れる。


 青い翼の飾り。


「これをつけたら、テオがどんな顔するかなって思った」


 隣から、息を呑む気配がした。


「それって」


 ツェツィーリアは、ようやく彼を見る。


「何だと思う?」


 テオドールが苦しそうな顔をした。


「俺に聞くなよ」

「どうして?」

「俺が答えたら、都合のいいことしか言えない」

「都合のいいこと?」

「……」

「テオ」


 ツェツィーリアは少しだけ眉を寄せる。


「私に何か隠してるでしょう?」

「……」

「前にも聞いたわ」


『私のこと、どう思ってた?』


『大事な友人だった』


 あの答え。


 嘘ではない。


 でも、全部でもない。


 そんな気がしていた。


「昔の私のこと?」

「……」

「私が忘れてること?」

「違う」

「じゃあ」

「俺のことだ」


 ツェツィーリアは黙った。


「俺が、勝手に隠してるだけ」

「どうして?」

「お前に背負わせたくないから」

「何を?」

「……」

「ちゃんと言って」


 春の風が吹く。


 白い花が静かに揺れた。


 テオドールは長いあいだ、何も言わなかった。


 やがて。


「俺は、お前が好きだった」


 低い声が落ちる。


 ツェツィーリアの目が少し大きくなる。


「昔から」

「……」

「ずっと」


 青灰色の瞳が、まっすぐ向けられる。


「小さい頃から、ずっと好きだった」


 胸が強く鳴った。


「でも、お前に番が現れた」

「……レオンハルト様?」

「ああ。だから、身を引いた」


 簡単な言葉だった。


 けれど、それがどれほど長い時間だったのか、ツェツィーリアにも少し分かった。


「お前がレオンハルト様の話をするとき、すごく楽しそうだったから」

「……」

「幸せそうだった」


 ツェツィーリアは、その頃の自分を何も覚えていない。


 でも、テオドールは覚えている。


「だから、それでいいと思った」

「テオ」

「本当に」


 一度、言葉を切る。


「そう思おうとした」


 思おうとした。


 その言葉だけで、少し分かった。


「でも」


 テオドールの手が、草の上で強く握られる。


「お前が死んだとき」


 ツェツィーリアの呼吸が止まった。


「俺、後悔した」

「……」

「何で言わなかったんだって」

「……」

「番だからって、何で最初から諦めたんだって」


 ツェツィーリアは黙って聞いていた。


「お前が死んで、初めて言った」

「何を?」


 もう、分かっている気がした。


「愛してるって」


 胸がぎゅっとなる。


「……私に?」

「ああ」

「でも、私は死んでたのよね」

「ああ」

「聞こえてないわ」

「そうだよ」


 テオドールが少しだけ笑う。


「だから言えた」

「……ずるい」

「知ってる」

「私が返事できないときに」

「本当に、ずるいよな」


 けれど、すぐにその表情が静かになる。


「だから、生き返ったお前には言わないつもりだった」

「どうして?」

「だって、お前は自由になったんだ」


 番からも。


 そして。


「昔のお前からも」


 静かな声だった。


「だから俺まで、昔から好きだったなんて押しつけたくなかった」


 ツェツィーリアは何も言わなかった。


「昔の俺を覚えてるから選ぶんじゃなくて」


 テオドールが続ける。


「今のお前には、今の好きなものを好きになってほしかった」


 ツェツィーリアの胸が熱くなる。


 ああ。


 だから、この人は何も言わなかったのだ。


 自分をずっと好きだったことも。


 死んだ彼女へ告白したことも。


 全部。


「……馬鹿ね」

「うん」

「本当に」

「知ってる」


 ツェツィーリアは彼の方へ向き直る。


「じゃあ、今は?」


 テオドールの表情が止まった。


「え?」

「昔じゃなくて」


 一度、息を吸う。


「今の私は?」

「……」

「今も、好き?」


 テオドールは、しばらく答えられなかった。


「テオ」

「……好きだよ」


 ようやく聞こえた。


「好きだ」


 今度は、はっきり。


「昔のお前も」

「……」

「今のお前も」


 青灰色の瞳が少し濡れる。


「ずっと好きだ」


 ツェツィーリアの目も熱くなった。


「でも」


 テオドールはすぐに続ける。


「それで、お前が何か返す必要はない」

「……」

「俺は、お前の番じゃない」


 その言葉を、ツェツィーリアはしばらく聞いていた。


 それから。


「知ってるわ」


 答える。


「番じゃないことくらい」

「……」

「運命でもない」

「ああ」

「あなたを選ばなくても、生きていける」

「……ああ」


 ツェツィーリアは少し笑った。


「でもね」


 心臓が、さっきからずっと大きく鳴っている。


 けれど、怖くなかった。


「私、あなたが好きみたい」


 テオドールが完全に動かなくなる。


「……みたい?」

「だって、こういうの、今の私には初めてだから」


 昔、レオンハルトをどう好きだったのか。


 知らない。


 知る必要もない。


「でも」


 ツェツィーリアは、もう一度テオドールを見る。


「会えると嬉しい」

「……」

「会えないと寂しい」

「……」

「あなたといると安心するし」


 少し笑う。


「あなたが他の女の人と仲良くしてたら、たぶん嫌」

「……本当に?」

「たぶん」

「そこは、たぶんなんだ」

「まだ見たことないもの」


 テオドールが笑った。


 笑いながら、目元を押さえる。


「何?」

「……何でもない」

「またそれ」

「ごめん」


 声が少し震えていた。


 ツェツィーリアは、そっと彼の手を取る。


 テオドールがびくりとした。


「ツェツィーリア」

「昔の私が誰を好きだったのかは、今の私には分からない」

「……ああ」

「でも」


 指を絡める。


「今は」


 微笑む。


「テオがいいの」


 その瞬間、テオドールの顔が歪んだ。


「……それ」


 声が掠れる。


「もう一回言って」

「嫌」

「何で」

「聞こえたでしょう?」

「聞こえなかった」

「絶対聞こえてた」

「頼むから」


 あまりにも真剣な顔だった。


 ツェツィーリアは少しだけ笑う。


 そして。


「テオがいい」


 今度は、ゆっくり言った。


「番じゃなくても」


 自分で選ぶ。


「テオが好き」


 次の瞬間。


 強く抱きしめられた。


「……!」


 驚いた。


 今まで、一度もテオドールから触れてこなかったから。


「テオ?」

「ごめん」


 言いながら、離れない。


「少しだけ」


 腕に、さらに力が入る。


「このままでいさせて」


 ツェツィーリアは、彼の胸元に頬を寄せた。


 心臓の音が聞こえる。


 速い。


「テオ」

「うん」

「心臓、すごいわよ」

「言うな」

「ふふ」

「今、本当に余裕ないから」

「そうなの?」

「そうだよ」


 声が少し笑った。


 けれど、また震えた。


「もう」


 テオドールがツェツィーリアの髪へ顔を寄せる。


 しばらくして、抱きしめたまま、繋いだ手へ視線を落とした。


 指を絡める。


 確かめるように、少しだけ力を込める。


「この手を離さない」

「……」

「今度こそ」


 ツェツィーリアは、その言葉の意味を全部は知らない。


 彼が一度、自分から手を離したことも。


 死んだ自分の前で、どれほど後悔したのかも。


 でも、声だけで大切な言葉なのだと分かった。


「うん」


 小さく答える。


 すると、テオドールが少しだけ体を離した。


 青灰色の瞳が、すぐ近くにある。


「ようやく」


 頬へ、そっと手が触れる。


 とても大切なものに触れるように。


「今度こそ、お前をこの手で抱きしめられる」


 ツェツィーリアの目が、少し熱くなる。


「テオ」


「愛してる」


 今度は。


 生きている自分へ。


 ちゃんと届いた。


「ツェツィーリア」


 テオドールが、もう一度言う。


「愛してる」


 ツェツィーリアは笑った。


「私もよ」


 それから少し考える。


「まだ、テオほど長くはないけど」

「……今それ言う?」

「だって本当でしょう?」

「いいんだよ」


 テオドールが笑った。


「これからで」

「うん」

「これから、好きになって」


 額をそっと合わせる。


「俺より好きになって」

「それは難しいかも」

「何で」

「テオ、何年分あるの?」

「……十年以上」

「ほら」

「じゃあ待つ」

「長生きだものね」

「ああ」

「でも」


 ツェツィーリアは笑う。


「できるだけ早く追いつくわ」

「……それは」

「なあに?」

「嬉しすぎるからやめて」

「変なの」


 二人で笑った。


 春の風が、丘を通り抜けていった。


 


 その日の夕方。


 二人の関係を知った父は、しばらく何も言わなかった。


「お父様?」

「……いや」

「反対?」

「まさか」

「じゃあ、どうして黙ってるの?」

「少し」


 父は目元を押さえた。


「安心しただけだよ」

「また泣いてる?」

「泣いていない」

「絶対泣いてるわ」

「年を取ると、目が弱くなるんだ」

「そんな歳じゃないでしょう」


 ツェツィーリアが笑う。


 父も、ようやく笑った。


「テオドール」

「はい」


 父に呼ばれ、テオドールの背筋が伸びる。


「娘を頼む、とは言わない」


 テオドールが少し驚く。


「ツェツィーリアは、自分で選べるからね」

「……はい」

「だから、二人でよく話し合いなさい」

「はい」

「どちらか一方だけが我慢することのないように」

「……はい」


 テオドールは、今度は深く頭を下げる。


「大切にします」


 父が眉を上げた。


「それも、娘自身に言いなさい」

「お父様」

「私は聞かなくていい」


 ツェツィーリアが思わず笑う。


 テオドールも、少し遅れて笑った。


 イルゼは、


「ようやくですか」


 それだけ言った。


「ようやく?」


 ツェツィーリアが首を傾げる。


「何が?」

「いいえ」

「何?」

「何でもありません」


 イルゼはテオドールを見る。


「テオドール様」

「はい」

「お嬢様を泣かせたら」

「……」

「分かっていらっしゃいますね?」

「はい」


 即答だった。


「絶対に泣かせません。……嬉し泣きは、あるかもしれませんが」


 イルゼは一瞬だけ黙る。


 それから、満足そうに頷いた。


「よろしいです」

「イルゼ」

「何でしょう」

「私、子どもじゃないのよ」

「存じております」

「なら」

「それとこれとは別です」


 少しも譲らない。


 ツェツィーリアは、もう笑うしかなかった。




 それから、二人は急がなかった。


 番ではないから、すぐに結婚しなければならない理由もない。


 運命だからと、何かを飛び越える必要もなかった。


 一緒に町へ出た。


 遠くまで飛んだ。


 ツェツィーリアが海を見たいと言えば、テオドールが連れていった。


 初めて見る海に、ツェツィーリアはしばらく言葉を失った。


「……すごい」

「それだけか?」

「だって、本当にすごいんだもの」

「ほかに言うことはないのか」

「仕方ないでしょう。本当にすごいんだから」


 裸足になって、波打ち際を歩いた。


 テオドールは、やっぱり少し後ろからついてくる。


「テオ」

「何?」

「こっち」

「濡れるだろ」

「いいじゃない」

「俺は靴を」

「早く」


 手を伸ばす。


 テオドールが少しだけ、その手を見る。


 そして今度は、ためらわずに取った。


「子どもみたいだな」

「楽しいんだからいいの」

「ああ」


 テオドールが笑う。


「そうだな」


 ツェツィーリアは、その手を握ったまま海を見る。


 昔の自分は、きっとこんな景色を見る未来を知らなかった。


 十八歳になれば、レオンハルトの隣へ行く。


 そう信じていたらしい。


 でも今、そのことを聞いても胸は痛まない。


 それはもう、自分が歩む未来ではないから。


 今の自分には、今の未来がある。


 ◇


 二年後。


 ツェツィーリアは、テオドールと婚姻を結んだ。


 小さな式だった。


 ローゼン家の庭。


 父と、イルゼと。


 二人を昔から知る人々。


 春の花が、たくさん咲いていた。


「テオ、緊張してる?」

「してない」

「嘘」

「してない」

「手、冷たいわよ」

「……」

「ふふ」

「ツェツィーリア」

「何?」

「今、笑うところ?」

「だって」


 青竜の、あんなに大きな翼を持つ人が。


 こんな日に、少し緊張している。


 それが、なんだか可愛かった。


「テオ」

「ん?」

「幸せ?」


 テオドールは、少し意外そうに目を瞬いた。


 それから、ふっと笑う。


「うん」

「すごく?」

「すごく」


「よかった」


 テオドールが、今度はツェツィーリアを見る。


「お前は?」

「私?」

「ああ」


 ツェツィーリアは、少し考えるふりをした。


「……まあまあ?」

「おい」

「ふふ、冗談よ」


 笑いながら、その手を握る。


「あなたとこうしていられることが、とても幸せよ」


 テオドールの目が、優しく細められた。


「そうか」

「うん」


 握った手に、少しだけ力がこもる。


「それなら、よかった」


 番ではない。


 生まれた瞬間から決められていた相手でもない。


 この人でなければ生きられないわけでもない。


 それでも。


 この人がいい。


 自分で、そう決めた。


 ◇


 同じ日。


 竜族の館。


「レオンハルト様」


 執務室へ入ったヘルムートが、静かに頭を下げる。


「報告がございます」

「何だ」

「本日」


 ほんの少し間があった。


「テオドール様とツェツィーリア様が、婚姻を結ばれました」


 レオンハルトの手が止まった。


「……そうか」


 それだけ答える。


 ヘルムートは、何も続けなかった。


 レオンハルトがゆっくりと窓の外を見る。


 春の空は、青い。


「……幸せそうだったか」


 やがて尋ねた。


「はい」


 ヘルムートは嘘をつかなかった。


「とても」


 長い沈黙。


「そうか」


 レオンハルトは目を閉じる。


 思い出す。


 十五歳の少女。


 淡い金髪。


 薄青の瞳。


 緊張して、ドレスの裾を握っていた。


『私は、レオンハルト様の番なのでしょう?』


 あの頃、自分は言った。


『何もしなくていい』


『今まで通り暮らせ』


『番だからといって、お前の人生が急に俺のものになるわけじゃない』


 ちゃんと分かっていた。


 最初は。


 そして少しずつ、彼女が自分を好きになった。


『レオンハルト』


 初めて、様を取って呼んだ声。


『綺麗』


 黒竜を見て笑った顔。


『レオンハルトだから好き』


 青い花の丘。


『十八歳になったら、あなたの隣にいてもいい?』


 全部、覚えている。


 これから何百年経っても。


 きっと忘れない。


 でも。


 ツェツィーリアは、もう何ひとつ覚えていない。


 自分が贈ったリボンも。


 背に乗せたことも。


 自分を好きだと言ったことも。


 最後まで、自分を愛して命を投げ出したことも。


 何も。


「ヘルムート」

「はい」

「俺は」


 声が少しだけ掠れた。


「あの頃、時間はいくらでもあると思っていた」

「……」

「また会えると」


 十五歳の少女が、初めて庭で尋ねた。


『私、またここへ来てもいいですか?』

『もちろんだ』

『会いに来ても?』

『ああ』

『いつでも来い』


 いつでも。


 何度でも。


 会えると。


 本当に思っていた。


「……馬鹿だったな」


 ヘルムートは何も言わなかった。


 レオンハルトも、それ以上は言わない。


 ただ、窓の外を見る。


 どこか遠く。


 この空の下で。


 ツェツィーリアは今も生きている。


 笑っている。


 愛する男の隣で。


 幸せに暮らしている。


 それでいい。


 それだけが、自分に残された唯一の救いだった。


 その夜。


 窓辺に立ったレオンハルトは、遠い昔をひとつずつ思い出していた。


『私、またここへ来てもいいですか?』


 会える。


 あのときは、そう答えた。


 これから何度でも会えると思っていた。


 彼女は自分の番だから。


 ずっとそばにいるのだと。


 どこかで、思っていた。


 でも。


 もう、いない。


 ツェツィーリアは、生きている。


 同じ淡い金髪で。


 同じ薄青の瞳で。


 昔と同じように、きっとよく笑う。


 けれど。


 自分を見ても、もう何も思わない。


 自分の名前を、特別な響きで呼ぶこともない。


 自分を愛した少女は、最後に自分を守って死んだ。


 そして、新しい命と引き換えに、すべてを置いていった。


 番も。


 記憶も。


 自分への愛も。


 レオンハルトは目を閉じた。


 番だった彼女は、今もどこかで笑っている。


 けれど。


 自分を愛していた番は。


 もう。


 どこにもいない。












【完】

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すれ違いって、ちゃんと双方で解決しようとしなくてはいけないですよね。 解決のための熱量が違っていたり、誠実さや配慮が欠けていたりするともう、修正できない局面が来る。 生きているということは、絶え間なく…
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