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あなたの番は、もうどこにもいない  作者: 黒猫と珈琲


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番外編 竜血草の代償

 ペトラが拘束されたのは、真実が明らかになった日の朝だった。


 竜血草。古式術に使われる銀粉。薬草庫の出入りの記録。そして、彼女の部屋から見つかった古い術式の写し。


 言い逃れのできるものは、もう何も残っていなかった。


「ペトラ」


 薄暗い部屋の中で、ヘルムートが静かに名前を呼ぶ。


 椅子に座らされたペトラは顔を上げた。手首には拘束具がはめられている。それでも、その表情にはまだ強気なものが残っていた。


「何でしょう」


 いつもと変わらない声だった。


「竜血草を、レオンハルト様の飲み物に混ぜたな」

「……」

「古式術も使った」

「……」


 ヘルムートは机の上に一冊の記録を置いた。


「薬草庫への出入りは確認した。お前の部屋から銀粉も見つかっている」

「そうですか」

「認めるのか」


 ペトラはしばらく黙っていた。


 やがて、静かに答える。


「はい」


 ヘルムートの表情は変わらなかった。


「なぜだ」

「分かっているでしょう?」

「お前の口から聞いている」


 ペトラはほんのわずかに笑った。


「レオンハルト様を、愛していたからです」

「……」

「ずっと」


 幼い頃から、竜族の長となる男を誰より近くで見てきた。


 強く、美しく、誰にも媚びず、誰にも簡単には心を許さない男。


 自分なら、そのそばにいられると思っていた。


「私なら、ずっとおそばにいられると思っていました」


 けれど、ある日。


 人間の少女が現れた。


 淡い金髪に薄青の瞳をした、まだ十五歳の小さな少女。


『私が、レオンハルト様の番なのですか?』


 たったそれだけで、何もかもが決まった。


「番だから」


 ペトラの声に、初めて苦いものが混じった。


「それだけで、あの方の隣にいる資格を得た」


「違う」


 ヘルムートが言う。


 ペトラの眉がわずかに動いた。


「何が違うのです」

「ツェツィーリア様がレオンハルト様のそばにいたのは、番だったからだけではない」

「……」

「お前も見ていただろう」


 ペトラは黙った。


 見ていた。


 嫌になるほど、ずっと。


 ツェツィーリアが来る日は、レオンハルトが仕事を早く終わらせること。


 青い花の咲く丘へ連れていったこと。


 珍しい本を見つければ彼女に渡し、似合いそうなリボンまで自分で選んでいたこと。


「だからです」


 ペトラは顔を上げた。


「だから、確かめたかった」

「何を」

「番の感覚がなくなっても」


 唇がわずかに震える。


「それでも、レオンハルト様があの子を選ぶのか」


 ヘルムートの目が細くなった。


「それで竜血草を」

「はい」


 最初は、ほんの少しだった。


 体調に影響が出ない程度。


 番の気配だけを鈍らせる量。


「感覚が薄れれば、少しは私を見るかもしれないと思いました」


 ペトラは拘束された自分の手に目を落とす。


「私の方が、ずっと長くレオンハルト様を知っている。竜族のことも、あの方の立場も分かる。何を好んで、何を嫌うかだって知っている」


 なのに。


「どうして、あの子なの」


 初めて声が崩れた。


「ただ番として生まれただけの人間の娘が、どうして全部持っていくの」


 ヘルムートはしばらく黙っていた。


 やがて、静かに口を開く。


「お前は、勘違いしている」

「何を」

「ツェツィーリア様は、何も持っていかなかった」


 ペトラが睨む。


「レオンハルト様が、自分で渡していた」


「……」


「時間も。関心も。言葉も」


 ひとつずつ。


「お前には、それが分からなかった」


 ペトラの顔から、わずかに色が消える。


 ヘルムートは机の上の記録へ視線を落とした。


「だから、こんなものに頼った。番の力を弱めれば、自分にも選ばれる可能性があると思った」

「……」

「だが、お前がしたのは誰かに選ばれるための努力ではない」


 ペトラが顔を上げる。


「他人の関係を壊すことだ」


 部屋が静まり返った。


 その日の午後。


 ペトラは、レオンハルトの前へ連れてこられた。


 執務室。


 以前なら何度も出入りした場所だった。


 茶を運び、書類を届け、レオンハルトのそばに立つことのできた場所。


 今は護衛に挟まれ、拘束されたまま立っている。


「レオンハルト様」


 名前を呼ぶと、レオンハルトが机の向こうから顔を上げた。


 その金色の瞳に、ペトラは自分が見たかったものを探す。


 怒りでもいい。


 憎しみでもいい。


 何でもよかった。


 自分だけを見てほしかった。


「認めたそうだな」

「はい」

「なぜした」

「あなたを愛していたからです」


 レオンハルトの表情は変わらない。


「愛していた?」

「はい」

「だから、俺に薬を盛ったのか」

「……はい」

「俺の感覚を鈍らせ、ツェツィーリアとの関係を壊すために」


 その名前が出た瞬間、胸の奥がざらついた。


「壊れるなら」


 ペトラは言う。


「それまでの関係だったということではありませんか?」


 ヘルムートの表情がわずかに動いた。


 けれど、レオンハルトは動かなかった。


「そうかもしれない」


 ペトラが目を見開く。


「レオンハルト様?」

「お前の薬で、番の感覚は鈍った」


 静かな声だった。


「だが」


 金色の瞳が、まっすぐペトラを射抜く。


「ツェツィーリアを疑ったのは、俺だ」

「……」

「お前の術は、俺の心を操ってはいない」

「でも」

「俺がしたことの責任まで、お前に押しつけるつもりはない」


 ペトラは息を呑んだ。


 望んでいた言葉ではなかった。


 レオンハルトが自分を憎み、ツェツィーリアとの関係が壊れた原因をすべて自分のせいにすれば。


 少なくとも、自分は彼の中に強く残れる。


 どこかで、そう思っていたのかもしれない。


「お前は罪を犯した。それは裁く」


 レオンハルトは淡々と言う。


「だが、ツェツィーリアを傷つけた俺の罪は、俺のものだ」


 ペトラの唇が震えた。


「どうして」

「何がだ」

「どうして、そこまで」


 声がかすれる。


「まだ、あの女のことを」


 レオンハルトの目が、初めて鋭くなった。


「あの女ではない」


 ペトラが息を止める。


「ツェツィーリアだ」


 低い声だった。


 それだけで、部屋の空気が変わる。


「二度と、そのように呼ぶな」


「……」


 ペトラは俯いた。


 しばらくして、乾いた笑いが漏れる。


「結局」


 顔を上げる。


「感覚がなくても、あなたはあの子を選ぶのですね」


 レオンハルトはしばらく黙っていた。


 そして。


「ああ」


 それだけ答えた。


 ペトラの目から、初めて涙が落ちた。


 裁きは数日後に決まった。


 竜族の番に関わる術を無断で使用したこと。


 族長であるレオンハルトへ継続的に薬物を使用したこと。


 薬草庫の記録を偽り、古式術を私的に用いたこと。


 どれも軽い罪ではなかった。


 ペトラは竜族の館におけるすべての職を失い、一族の中で持っていた役目も剥奪された。


 以後、族長家への出入りは禁止。


 王都への立ち入りも、特別な許可がない限り認められない。


 そして遠い北方の監督領へ送られ、そこで長い年月を過ごすことが決まった。


 華やかな場所ではない。


 竜族の中でも、誰も進んで行きたがらない土地。


 寒く、人も少なく、ただ日々与えられた仕事をこなして暮らす場所だった。


 死刑ではない。


 拷問もない。


 けれど、彼女が望んだものは何ひとつ残らなかった。


 レオンハルトのそばにも、竜族の館にも、もう戻ることはできない。


 出立の日。


 ペトラは最後に一度だけ館を振り返った。


 長く暮らした場所。


 レオンハルトを見つめてきた場所。


 いつか、その隣に立てると思っていた場所。


「行くぞ」


 護衛に促されても、ペトラはすぐには動かなかった。


「少しだけ」


 館の高い窓を見る。


 けれど、そこにレオンハルトの姿はなかった。


「……会いにも来ないのね」


 呟いてから、自分でも分かっていた。


 当然なのだ。


 もう彼にとって、自分は会う必要さえない相手なのだから。


「ペトラ」


 後ろから声がした。


 振り返ると、ヘルムートが立っていた。


「何です」

「ひとつだけ」


 彼は相変わらず冷静な顔をしている。


「お前は最後まで、ツェツィーリア様から何かを奪ったつもりだったのかもしれない」

「……」

「だが、一番大きなものを失ったのは、お前だ」


 ペトラが眉を寄せる。


「何を」

「選ばれる可能性だ」


 息が止まった。


「何もしなければ、レオンハルト様がお前を選んだとは言わない」


 ペトラの顔が歪む。


「だが少なくとも、お前は信頼されていた。館にいられた。言葉を交わせた。そばに立つこともできた」


 全部、当たり前だと思っていた。


 失うまでは。


「それを壊したのは、ツェツィーリア様ではない」


 ヘルムートがまっすぐペトラを見る。


「お前自身だ」


 ペトラは何も言えなかった。


「行け」


 ヘルムートは背を向けた。


 それ以上、何も言わない。


 ペトラはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと歩き出した。


 館が遠ざかっていく。


 一歩。


 また一歩。


 もう、振り返らなかった。


 振り返っても、そこに自分の居場所はない。


 それからしばらくして。


 レオンハルトは、ペトラが北方へ到着したという報告をヘルムートから受けた。


「そうか」

「今後、何か指示はございますか」

「ない」

「承知しました」


 ヘルムートが書類を閉じる。


 レオンハルトは窓の外を見た。


「ヘルムート」

「はい」

「俺は、ペトラを許すつもりはない」

「はい」

「だが」


 机の上に置いた拳が、わずかに握られる。


「俺がツェツィーリアにしたことまで、あいつのせいにはしない」

「……はい」


 レオンハルトは目を閉じた。


 薬で鈍ったのは、番の感覚だけだった。


 信じるか。


 疑うか。


 傷つけるか。


 守るか。


 それを選んだのは、自分だった。


 だから、この後悔まで誰かに渡すつもりはない。


「俺の代償は」


 低い声が落ちる。


「俺が払う」


 ペトラが失ったものは多かった。


 居場所。


 信頼。


 未来。


 そして、愛する男のそばに立つ資格。


 けれど、レオンハルトもまた、もう取り戻せないものを失っている。


 竜血草が奪ったのは、番の感覚だけだった。


 それ以外を壊したのは、誰でもない。


 彼ら自身だった。


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