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あなたの番は、もうどこにもいない  作者: 黒猫と珈琲


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第7話 もう、あなたに愛してほしいとは思いません

 それから、ツェツィーリアは竜族の領地へ行かなくなった。


 レオンハルトから呼ばれなかったからではない。


 一度だけ、手紙は届いた。


『調査にもう少し時間がかかる』


 それだけだった。


 返事は書かなかった。


 書けなかったわけではないし、何を書けばいいのか分からなかったわけでもない。


 ただ、返さなくてもいいと思った。


 以前なら、短い手紙でも嬉しかった。


 何度も読み返し、返事を書くために便箋を選んで、少しでもきれいな字で書こうとした。


 今は。


 読み終えると、静かに畳んで机の上へ置いた。


 それだけだった。


「お嬢様。お返事はいかがなさいますか?」

「……いらないと思うわ」

「よろしいのですか?」

「ええ」


 ツェツィーリアは窓の外を見る。


 秋が深まり始め、庭の木々も少しずつ色を変えていた。


「調査が終わったら、向こうからまた連絡が来るでしょう」

「そうでしょうね」

「だったら、それまで待つ必要もないわ」


 口にして、自分でも少し驚いた。


 待つ必要もない。


 以前の自分なら、きっと言えなかった言葉だった。


「イルゼ」

「はい」

「私、しばらくお父様の仕事を手伝おうと思うの」

「お仕事を?」

「ええ。領地の学校のこととか、冬支度のこととか。今までお父様に任せきりだったでしょう?」

「旦那様は喜ばれると思います」

「それに」


 ツェツィーリアは少し笑った。


「何かしていた方がいいみたい」


 何もしないでいると、どうしてもレオンハルトのことを考えてしまう。


 だから、別のものを見る。


 自分の人生に、彼以外のものもあることを。


 少しずつ思い出していきたかった。


「ずいぶん働くな」


 父の書斎で書類を読んでいると、向かいから声がした。


「お父様が働かせるからでしょう?」

「私は、少し見てみるかと聞いただけだよ」

「見始めたら気になったの」


 ツェツィーリアは紙をめくる。


「この村、去年も冬になると道が使えなくなってるのね」

「ああ。雪が多い地域だからね」

「何かできないの?」

「今、考えているところだ」

「じゃあ私も考える」


 父が少し笑った。


「楽しそうだな」

「仕事が?」

「ああ」

「楽しいというより……知らないことがたくさんあるなって思って」


 ツェツィーリアは書類へ目を落とす。


「今まで私、十八歳になったらレオンハルトのところへ行くことばかり考えてたから」


 父の表情が静かになる。


「だから、自分の家のことなのに知らないことがいっぱいある」

「それはお前が悪いわけじゃない」

「でも、知りたいわ」


 ツェツィーリアは顔を上げる。


「ここも、私の家だもの」


 父はしばらくツェツィーリアを見つめ、それから穏やかに頷いた。


「そうだな」


 少しだけ間を置く。


「ここは、お前の家だ」


 その言葉が、胸にゆっくり染み込んだ。


 数日後。


 テオドールがまた屋敷を訪れた。


 父への用事を済ませたあと、「少し歩く?」と以前と同じように誘われ、ツェツィーリアは頷く。


 二人で庭へ出た。


「元気そうだな」

「前よりは」

「眠れてる?」

「最近はちゃんと」

「そっか」


 テオドールはそれ以上聞かなかった。


 しばらく、今年の冬は寒くなりそうだとか、竜族の領地ではもう高い山に雪が降ったとか、父から頼まれた資料が意外と重かったとか、そんな他愛のない話をする。


「そういえば、この前聞いた薬草の記録、何か分かった?」


 テオドールの歩みが、ほんの少し止まった。


「……ヘルムートがまだ調べてる」

「そう」

「俺も詳しいことは聞いてない」

「そうなのね」


 ツェツィーリアはそれ以上追及しなかった。


 テオドールが横から見る。


「気にならないの?」

「気にはなるわ」

「なら」

「でも、私が調べてるわけじゃないもの」


 ツェツィーリアは前を見る。


「分かったら教えてくれるでしょう」

「……そうだな」

「それまでは、自分のことをするわ」


 テオドールの青灰色の瞳が、少し柔らかくなった。


「変わったな」

「何が?」

「前なら、すぐ竜族の領地へ行ってた」


 胸が小さく痛む。


 けれど、ツェツィーリアは笑った。


「そうね」


 少し歩いてから、静かに続ける。


「たぶん、ずっと怖かったの」

「何が?」

「私が行かなかったら、本当に終わってしまう気がしてた」


 テオドールは黙って聞いている。


「だから、どんなに傷ついても会いに行ってたのかもしれない」

「ツェツィーリア」

「でもね」


 ツェツィーリアは小さく息を吐く。


「今は、終わるなら終わるで仕方ないって、少し思えるようになった」

「……そっか」

「まだ、すごく悲しいけど」

「うん」

「好きだし」

「……うん」


 ほんの少しだけ、テオドールの声が低くなった。


「でも、好きな人に自分の全部を決めてもらわなくてもいいのよね」

「ああ」


 テオドールはすぐに答えた。


「それでいいと思う」


 ツェツィーリアは彼を見る。


「テオドールは、昔からそういうこと言うわね」

「何が?」

「好きにすれば、って」

「……言ってた?」

「言ってたわ」


 幼い頃、何をしたいと言っても、危険でなければテオドールは最後には付き合ってくれた。


「翼に乗せてって言ったときは、ずっと駄目って言ってたけど」

「あれは危険だったから」

「結局乗せてくれたでしょう?」

「お前がしつこかったからだ」

「ふふ」


 久しぶりに、心から笑えた気がした。


 テオドールも少し笑う。


 それだけの時間が、今は心地よかった。


 一方。


 竜族の館では、ヘルムートが古い記録を前に眉を寄せていた。


 机の上には何冊もの古文書と、薬草の記録、古い術式について記された書物が並んでいる。


 竜血草。


 番の感覚を鈍らせる作用。


 単体なら一時的。


 だが、特定の術式と組み合わせ、継続して摂取させれば。


「……やはり」


「ヘルムート」


 声に顔を上げると、扉の前にレオンハルトが立っていた。


「何か分かったか」

「……まだ確認が必要です」

「何だ」

「ひとつ、伺っても?」

「言え」

「最近、口にするものを決まった者に任せていらっしゃいましたか」


 レオンハルトが眉を寄せる。


「なぜ聞く」

「確認です」

「……ペトラが茶を持ってくることは多い」

「どれくらい前から?」

「覚えていない」


 ヘルムートの表情が硬くなる。


「レオンハルト様。少しの間、ペトラが用意したものは口にしないでください」

「どういう意味だ」

「まだ、確かなことは申し上げられません」

「ヘルムート」

「証拠がありません」


 ヘルムートは真っ直ぐ彼を見る。


「ですが、調べさせてください」


 長い沈黙のあと。


「……分かった」


 レオンハルトは低く答えた。


 その夜。


 廊下を歩いていたペトラを、ヘルムートが呼び止めた。


「ペトラ」

「はい?」

「少し聞きたいことがある」


 その声に、ペトラの指先がわずかに動く。


「何でしょう」

「竜血草について」


 ほんの一瞬。


 呼吸が止まった。


 けれど、すぐに笑う。


「竜血草?」

「ああ」

「薬草庫にあるでしょう?」

「ある。だが、最近記録と量が合わない」

「……」

「お前は何か知らないか」

「私が?」

「薬草庫への出入りがあった」

「薬を取りに行くことくらいあります」

「何の薬を?」


 ペトラが黙る。


「ペトラ」

「……疑っていらっしゃるの?」

「確認している」


 その言葉に、ペトラは一瞬、何かを思い出したように目を細めた。


「確認、ですか」

「ああ」

「……そう」


 それ以上は何も言わなかった。


 数日後。


 ローゼン伯爵のもとへ、レオンハルト本人がやって来た。


「お嬢様」


 イルゼが部屋へ入ってくる。


「レオンハルト様がお見えです」


 ツェツィーリアの手が止まった。


 机には、領地の冬支度についての書類が広げられている。


「……お父様に?」

「最初は旦那様とお話しされていましたが、お嬢様にもお会いしたいと」

「そう」


 胸が鳴る。


 まだ。


 それだけで、体は昔のことを覚えている。


「断ってもいい?」

「もちろんです。旦那様も、そのように」


 すぐに答えてくれる。


 断ろうと思えば、断れる。


 もう、会わなければ終わると怯えなくてもいい。


 ツェツィーリアはしばらく考えた。


「会うわ」

「よろしいのですか?」

「ええ」


 立ち上がる。


「たぶん、言っておかないといけないことがあるから」


 応接室へ入ると、レオンハルトが立ち上がった。


「ツェツィーリア」

「お久しぶりです」


 その言葉に、レオンハルトがわずかに眉を動かす。


 以前なら、久しぶりでもそんな挨拶はしなかった。


「座っても?」

「ああ」


 二人で向かい合う。


「何か分かったの?」

「まだだ」

「そう」

「だが、調べている」

「ええ」


 会話が続かない。


 以前なら何時間でも一緒にいられた。


 沈黙さえ心地よかった。


 今は、とても遠い。


「最近」


 レオンハルトが言う。


「館へ来ていないな」

「ええ」

「なぜだ」


 ツェツィーリアは少し驚いた。


「……なぜって」

「以前は、よく来ていただろう」

「そうね」

「来なくなった」

「それが?」


 レオンハルトの表情がわずかに険しくなる。


「俺は」


 言葉を探している。


「お前が来ないと」


 そこで止まる。


「何?」

「……落ち着かない」


 ツェツィーリアは彼を見る。


 少し前なら、その一言だけでどれほど嬉しかっただろう。


 まだ番なのだと。


 まだ愛されているのだと。


 期待したかもしれない。


 けれど今は。


「そう」


 それしか出てこなかった。


「ツェツィーリア」

「レオンハルト」

「何だ」

「私、今日はちゃんと言おうと思ってたの」

「何を」


 ツェツィーリアは膝の上で手を重ねる。


 少しだけ息を吸う。


「私は、まだあなたが好きです」


 レオンハルトの瞳が揺れる。


「……ああ」

「たぶん、すぐには嫌いになれません。十五歳から、ずっと好きだったから」


 一緒にいた時間。


 そのすべてが、今でも大切だった。


「だから、好きなまま離れようと思います」


 レオンハルトの表情が固まった。


「何?」

「もう、竜族の領地へ通うのはやめます」

「待て」

「婚約のお話も、白紙にしてください」

「ツェツィーリア」

「最初から正式な婚約はしていなかったもの」

「そういう話じゃない」

「では、どういう話?」


 レオンハルトが立ち上がる。


「俺は、まだお前が偽物だと決めたわけじゃない」

「……」

「調査が終われば」

「それで?」


 ツェツィーリアは座ったまま尋ねる。


「私が本当にあなたの番だったら、どうするの?」

「何?」

「また前みたいにしてくれる?」

「……」

「私を信じてくれる?」

「それは」

「お父様を疑ったことも、私に言ったことも、全部なかったことにして?」

「そんなことは」

「できないでしょう?」


 静かに聞く。


「私も、できないの」


 胸が痛い。


 でも、もう分かっている。


「私は、あなたを好きです」


 一度。


 きちんと言う。


「でも」


 涙は出なかった。


「もう、あなたに愛してほしいとは思いません」


 レオンハルトの顔から、完全に表情が消えた。


「……何を言っている」

「そのままです」

「お前はさっき、俺を好きだと」

「好きよ」

「なら」

「好きでも」


 ツェツィーリアは首を振る。


「もう、あなたから愛されることを待つのはやめます」


 長いあいだ、待っていた。


 戻ってきてほしい。


 信じてほしい。


 昔のレオンハルトに戻ってほしい。


 ずっと、そればかり願っていた。


「私ね」


 少しだけ笑う。


「あなたに愛してもらえなかったら、幸せになれないような気がしていたの」

「……」

「でも、違うでしょう?」


 父がいる。


 イルゼがいる。


 ここには、自分の家がある。


 これから知りたいことも、やりたいこともある。


「私の人生は、あなたの気持ちだけで決まらないわ」


 レオンハルトの金色の瞳が揺れる。


「ツェツィーリア」

「これ以上」


 声が少しだけ震えた。


「あなたのそばにいて、自分を傷つけることもやめます」


 長い沈黙。


 苦しいほどの沈黙だった。


「……行くな」


 突然、レオンハルトが言った。


 ツェツィーリアは瞬きをする。


「え?」

「俺が行くなと言ったら?」


 金色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。


 その顔は、戸惑っているようにも、苦しんでいるようにも見えた。


 以前なら、その一言で残ったかもしれない。


「どうして?」


 ツェツィーリアは尋ねた。


「……」

「私が番だから?」


 レオンハルトは答えない。


「好きだから?」


 長い沈黙のあと。


「……分からない」


 やっぱり。


 同じだった。


 ツェツィーリアは少しだけ笑った。


「なら、行くわ」


「ツェツィーリア」

「あなたが分からないもののために、私はもう待てない」


 ツェツィーリアは立ち上がり、扉へ向かう。


「待て」


 レオンハルトが腕を伸ばしかけた。


 けれど、触れなかった。


 ツェツィーリアも振り返らない。


「さようなら、レオンハルト」


 今度は、本当に別れのつもりで言った。


 扉が閉じた。


 レオンハルトは、その場から動けなかった。


『もう、あなたに愛してほしいとは思いません』


 あの言葉だけが、何度も頭の中で繰り返される。


 番の感覚は弱い。


 以前のように、彼女が近くにいるだけで満たされる感覚はない。


 それなのに。


 いなくなると思った瞬間、どうしようもなく嫌だった。


「……なぜだ」


 誰もいない部屋で呟く。


 自分でも分からない。


 分からないまま、傷つけた。


 分からないまま、離れていく彼女を止めようとした。


 そして、理由を聞かれて。


 何ひとつ答えられなかった。


 その日の夕方。


 館へ戻るなり、レオンハルトは側近を呼んだ。


「ヘルムート」

「はい」

「調査はどうなっている」

「レオンハルト様」

「早くしろ」


 ヘルムートが顔を上げる。


「何かあったのですか」

「……ツェツィーリアが」


 名前を口にする。


「もう来ないと言った」


 ヘルムートは黙った。


「婚約も白紙にすると」

「そうですか」

「それだけか」

「では、何と申し上げれば?」


 冷静な返答だった。


「お止めになったのですか」

「ああ」

「理由は?」

「……」

「ツェツィーリア様に、なぜ行ってほしくないのか説明なさったのですか」

「できなかった」


 ヘルムートは小さく息を吐く。


「レオンハルト様」

「何だ」

「ひとつ申し上げても?」

「ああ」


 鋼色の瞳が真っ直ぐ向けられる。


「早く真実を突き止めなければ、間に合わなくなる気がします」


 レオンハルトは何も答えなかった。


 その夜。


 ヘルムートは再び古い薬草記録を開いた。


 何度も読み返したページ。


 竜血草。


 番の感覚。


 鈍化。


 古式術。


 さらに別の記録に記された薬草の調合比率と、薬草庫の保管記録を照らし合わせる。


「……同じだ」


 ヘルムートは立ち上がった。


 薬草庫へ向かい、使用量と出入りした者の名前を一つずつ確認していく。


 やがて。


 一つの名前の前で、指が止まった。


 ペトラ。


 何度も記録されている。


 さらに、薬草庫の奥。


 普段ほとんど使われない棚から、小さな布が見つかった。


 赤黒い染み。


 乾いた竜血草の欠片。


 そして、古い術式を書くために使われる銀の粉。


 ヘルムートの顔色が変わる。


「……まさか」


 まだ断定はできない。


 けれど。


 ようやく、ばらばらだったものが一本の線につながり始めていた。


 その頃。


 ツェツィーリアは自室で荷物を整理していた。


「これはどうなさいます?」


 イルゼが尋ねる。


 手にしているのは、深い青色のリボン。


 レオンハルトからもらったものだった。


 ツェツィーリアは少しだけ見つめる。


「置いておくわ」

「……よろしいのですか?」

「ええ」

「捨てなくても?」


 ツェツィーリアは笑った。


「捨てないわ」


 あの日々まで、なくなるわけではない。


「好きだったことまで、消さなくていいもの」

「はい」

「でも」


 ツェツィーリアはリボンを受け取り、丁寧に箱へ入れる。


「もう身につけることはないと思う」


 蓋を閉じる。


 それで、少しだけ心の中にも区切りをつけられた気がした。


「お嬢様」

「なあに?」

「これから、どうなさいますか?」

「そうね」


 ツェツィーリアは窓の外を見る。


 どこかへ逃げるわけではない。


 すぐに新しい恋をするわけでもない。


 ただ。


「しばらくは、自分の好きなことをするわ」

「はい」

「お父様のお仕事も手伝いたいし」

「はい」

「春になったら、少し旅行してもいいかも」

「いいですね」

「海も見たいわ」

「お嬢様は山より海がお好きですものね」

「そうなの」


 そんな話をしていると、少しだけ未来が見えた。


 レオンハルトの隣ではない未来。


 今までは想像したことさえなかった未来。


 それが初めて、怖いだけのものではなくなっていた。


 ツェツィーリアは窓を開ける。


 冷たい風が入ってくる。


 冬が近い。


 でも、その先には。


 きっと春が来る。


 そう思えた。


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