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あなたの番は、もうどこにもいない  作者: 黒猫と珈琲


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7/15

第6話 私の気持ちは、私のもの

 十八歳の誕生日は、静かに過ぎた。


 朝、父から小さな青い石のついた髪飾りをもらった。


 イルゼからは、丁寧に刺繍されたハンカチを。


 屋敷の者たちも祝ってくれて、夕食にはツェツィーリアの好きな料理が並び、食後には小さなケーキも出た。


 穏やかで。


 温かな一日だった。


 ただ。


 レオンハルトからは、何も届かなかった。


 手紙も、花も。


 もちろん、来ることもなかった。


 去年までは違った。


 十六歳の誕生日には本を。


 十七歳の誕生日には、深い青色のリボンを贈ってくれた。


 今年は。


 何もない。


 夜。


 ツェツィーリアは窓辺に座り、暗くなった庭を見ていた。


 もう待っているつもりはなかった。


 今日一日、レオンハルトから何か届くのではないかと、玄関を気にしていたわけでもない。


 たぶん。


 それでも、廊下で足音がするたび。


 ほんの少しだけ期待した。


 そんな自分が嫌だった。


 扉が静かに叩かれる。


「お嬢様」

「どうぞ」


 入ってきたのはイルゼだった。


 手には、温かな飲み物を持っている。


「眠れませんか?」

「まだ眠る時間じゃないでしょう?」

「そういうことにしておきましょう」


 イルゼがカップを置く。


 ふわりと甘い香りがした。


「蜂蜜?」

「少しだけ」

「ありがとう」


 ツェツィーリアはカップを両手で包む。


 温かい。


「イルゼ」

「はい」

「今日、楽しかったわ」

「……はい」

「お父様も、みんなもお祝いしてくれて」

「はい」


 ツェツィーリアは一度、言葉を切った。


「だから、こんなことで寂しいと思うのは、贅沢よね」


 イルゼの眉が寄る。


「こんなこと、とは?」

「……」

「レオンハルト様から何もなかったことですか?」


 名前を聞くだけで、まだ胸が痛んだ。


 ツェツィーリアはカップへ目を落とす。


「期待してなかったのよ」

「はい」

「本当に」

「はい」

「でも……覚えていてほしかったみたい」


 イルゼは何も言わなかった。


 ツェツィーリアは困ったように笑う。


「馬鹿ね」

「いいえ」

「だって、あんなことを言われたのに」


『昔、お前に優しくしたのも、その術の影響だったのかもしれない』


 忘れようとしても、その言葉だけは消えてくれない。


「まだ好きなの」


 自分でも、どうしてなのか分からない。


「お嬢様」

「なあに?」


 イルゼはしばらく黙っていた。


 それから、静かに口を開く。


「もう、待たなくてもいいのではありませんか」

「……何を?」

「レオンハルト様が、以前のように戻ってくださることをです」

「私は待ってなんて」

「待っていらっしゃいます」


 きっぱりと言われた。


「今日も。昨日も、その前も」

「……」

「いつか元のレオンハルト様に戻ってくださるのではないかと、お嬢様はずっと待っていらっしゃる」


 イルゼの声が少し震れた。


「私は、お嬢様がこんなふうに毎日少しずつ傷ついていくのを見るのが嫌です」

「イルゼ」

「好きな気持ちまで、無理になくせとは申しません」


 イルゼは少しだけ俯く。


「でも、その方を待ち続けなくてもいいのではありませんか」


 胸の奥を、強く掴まれたようだった。


 ツェツィーリアはゆっくり首を振る。


「好きなのよ」

「……はい」

「レオンハルトが私をどう思っているかとは、別なの」


 言葉にしながら、自分でも少しずつ分かっていく。


「私がレオンハルトを好きなのは、私の気持ちでしょう?」

「……」

「レオンハルトが私を嫌いでも、私がレオンハルトを好きな気持ちは、私のものだわ」


 声は少し震えた。


 それでも、きちんと言った。


 誰かに命令されて生まれた気持ちではない。


 番だからでもない。


 十五歳の自分が、少しずつ彼を知って、好きになった。


 だから、彼が否定したからといって。


 自分まで否定したくなかった。


「無理に嫌いにならなくてもいいと思うの」


 イルゼは俯いた。


「……はい」

「ごめんなさい」

「どうしてお嬢様が謝るのです」

「あなたを心配させてるから」

「それは、侍女の勝手です」


 イルゼが顔を上げる。


 ツェツィーリアは、ほんの少し笑った。


「ふふ」

「もう」


 イルゼも少しだけ表情を緩めた。


「ただ」


 ツェツィーリアは続ける。


「お父様にも言われたの」

「何をですか?」

「好きでいることと、傷つけられていいことは別だって」


 イルゼが黙る。


「あのときは、分かったつもりだった。でも、今は少しだけ違うの」

「違う?」

「私、もう少し考えないといけないのかもしれない」

「何をですか?」

「これから、どうするのか」


 好き。


 その気持ちは、変わらない。


 でも。


 だからといって、いつまでも同じ場所で待ち続けなくてもいいのかもしれない。


 今はまだ。


 そこまでしか、考えられなかった。


 翌日。


「十八歳、おめでとう」


 庭へ出たツェツィーリアに、そう声をかけた者がいた。


 振り返る。


「テオドール」

「祝いに来た」

「今日?」

「昨日来たら家族の邪魔だろ。だから一日ずらした」

「そんなこと気にしなくてもよかったのに」

「俺が気にしたんだ」


 テオドールが肩を竦める。


 ツェツィーリアは笑った。


「ありがとう」

「これ」


 差し出されたのは、小さな包みだった。


「何?」

「開けていいよ」


 リボンを解く。


 中に入っていたのは、小さな銀色の髪飾りだった。


 青い石がひとつ嵌め込まれ、鳥の羽のような形をしている。


「綺麗。翼?」

「ああ」

「青竜の?」

「そこまで考えてない」

「絶対、考えたでしょう」

「考えてない」


 少し早口になった。


 ツェツィーリアは笑う。


「ありがとう。大切にするわ」

「うん」


 テオドールも笑った。


 けれど、その目がすぐにツェツィーリアの顔をじっと見つめる。


「……何よ。じっと見て」

「痩せた?」

「え?」

「少し」

「そうかしら」

「眠れてない?」

「……どうして?」

「目の下」


 反射的に手を当てる。


「そんなにひどい?」

「ひどくはない」

「じゃあ言わないでよ」

「でも、前と違う」


 ツェツィーリアは黙った。


 テオドールとは長い付き合いだ。


 小さい頃から。


 泣いた顔も、怒った顔も、転んで膝を擦りむいた顔も、全部見られている。


 誤魔化せないのかもしれない。


「何かあった?」

「……」

「レオンハルト様と」


 名前を出されて、ツェツィーリアの表情がわずかに変わった。


 それだけで、テオドールには十分だったらしい。


「やっぱり」

「何もないわ」

「嘘つくの下手だな」

「昔より上手くなったわ」

「昔がひどすぎただけ」

「ひどい」


 いつものように返した。


 でも、うまく笑えなかった。


 テオドールも笑わない。


「歩く?」

「……うん」


 二人で庭を歩き始めた。


 幼い頃。


 何度もこうして歩いた。


 ただ、昔はもっとツェツィーリアの方が先を歩いていた。


『テオ、こっち!』

『遠く行くなって言われただろ』

『まだ遠くないもん』


 そんなことばかり言って、テオドールを振り回していた。


 今は、静かに隣を歩いている。


「覚えてる?」

「何を?」

「小さい頃、あなたの背中に乗せてもらったこと」

「忘れられると思う?」

「そんなに?」

「俺、あの日ずっと怖かったんだからな」

「私は楽しかったわ」

「知ってる。もっと高くって、うるさかった」

「だって低かったもの」

「六歳の人間を背負って、高く飛べるか」


 ツェツィーリアは少し笑った。


「今なら?」

「今?」

「今なら、もっと高く飛んでくれる?」


 テオドールが足を止めた。


 ツェツィーリアも振り返る。


「何?」

「……乗りたいの?」

「今すぐじゃないわ。そのうちお願いするかも」

「そう」


 テオドールはまた歩き始める。


「今なら、どこまででも」

「え?」


 一瞬、聞き間違えたかと思った。


「いや。昔よりは高く飛べるってこと」

「当然でしょう。あなたも大人になったもの」

「お前もな」


 十八歳。


 あの頃から、ずいぶん時間が経った。


「ツェツィーリア」

「うん?」

「本当は何があった?」


 ツェツィーリアは足を止める。


「言いたくないなら、無理には聞かない」


 その言葉に、十五歳の頃のレオンハルトを思い出した。


『何もしなくていい』


『俺はお前を急かさない』


 胸が痛んだ。


「私、偽物かもしれないんですって」


 テオドールも止まる。


「……なんだって?」

「レオンハルトの番じゃないかもしれないって」


 青灰色の瞳が鋭くなる。


「誰がそんなことを」

「レオンハルト」

「……レオンハルト様が?」

「ええ」


 ツェツィーリアは少しずつ話した。


 番の感覚が弱くなったこと。


 番を偽装する古い術があるらしいこと。


 ローゼン家まで疑われたこと。


 そして。


「あの人ね」


 声が小さくなる。


「昔、私に優しくしたのも、術の影響だったのかもしれないって」


 テオドールの顔から、表情が消えた。


「……本人が、そう言ったのか」

「うん」

「本当に?」

「うん」

「お前に?」

「そうよ」


 次の瞬間、テオドールが視線を逸らした。


 拳が強く握られている。


「テオドール?」

「ごめん」

「何が?」

「今、レオンハルト様に会ったら」


 低い声だった。


「たぶん、まともに話せない」

「……」

「何考えてるんだ、あの人」


 こんなふうに怒るテオドールは珍しい。


「番の感覚がどうとか、術がどうとか。それで、一緒に過ごしたことまで全部否定するのかよ」

「でも」

「でもじゃない」

「レオンハルトも混乱してるのよ」

「だからって、お前を傷つけていい理由にはならない」


 父と同じことを言った。


「ツェツィーリア」

「何?」

「泣いた?」

「……」

「泣いたんだな」

「少し」

「少しじゃないだろ」

「どうして分かるの」

「何年知ってると思ってるんだ」


 困った。


 そんな顔をされたら、また泣きそうになる。


「大丈夫よ」

「大丈夫じゃない」

「もう泣いてないもの」

「泣いてなければ大丈夫なのか?」

「……」

「違うだろ」


 返せなかった。


 テオドールが一歩近づく。


 けれど、触れない。


 昔なら、転んで泣けば手を引いてくれた。


 もっと小さい頃なら、泣き止むまで隣にいてくれた。


 今は、ほんの少しの距離を残している。


 いつからだろう。


 テオドールが、自分に触れなくなったのは。


「俺なら」


 ぽつりと声が落ちた。


「え?」


 テオドールは一瞬、言ってしまったという顔をした。


 でも、もう引っ込めなかった。


「俺なら、そんなふうに泣かせない」


 ツェツィーリアは目を見開いた。


「テオドール……?」


 風が吹き、木の葉が揺れる。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 やがてテオドールが息を吐く。


「忘れて」

「でも」

「今のは、忘れて」


 少しだけ笑った。


 いつもの、ツェツィーリアに何も背負わせないための笑い方。


「ただの幼馴染の愚痴」

「……そんなふうには聞こえなかったわ」

「聞き間違い」

「テオドール」

「いいから」


 それ以上、何も言わせてくれなかった。


 テオドールが帰ったあと。


 ツェツィーリアは、自室で彼からもらった髪飾りを見ていた。


 青い翼。


 昔、自分を空へ連れていってくれた翼。


『俺なら、そんなふうに泣かせない』


 あの言葉が頭から離れなかった。


 でも、どういう意味なのか。


 今は考えない方がいい気がした。


 まだ。


 レオンハルトのことで精一杯だった。


 その数日後。


 フォン・ローゼン家へ、竜族から使者が来た。


 ツェツィーリアは父の書斎へ呼ばれる。


「レオンハルト様からです」


 差し出された手紙は、見慣れた筆跡だった。


 胸が大きく鳴る。


 開くのが怖い。


 でも、開かなければ何も変わらない。


 封を切った。


 内容は短かった。


 番について確認したいことがある。


 数日後、館へ来てほしい。


 それだけ。


 誕生日については、一言もなかった。


「……行くのか?」


 父が尋ねる。


 ツェツィーリアは手紙を見つめた。


「行くわ」

「ツェツィーリア」

「ちゃんと、話さないと」


 まだ聞きたいことがある。


 そして。


 自分も言わなければならない気がしていた。


 ◇


 数日後。


 竜族の館へ着いたツェツィーリアは、庭で思いがけない二人と顔を合わせた。


「ツェツィーリア?」

「あ」


 テオドールだった。


 その隣には、ヘルムートもいる。


「今日はどうしたの?」

「ヘルムートに頼まれて、父のところから古い記録を持ってきた」

「記録?」

「昔の薬草について調べてるらしい」


 ヘルムートが軽く頭を下げる。


「まだ確かなことではありませんので」

「そうですか」

「ツェツィーリアは?」

「レオンハルトに呼ばれたの」


 名前を口にした途端、テオドールの表情が少し硬くなった。


「一人?」

「イルゼも来てるわ。今は荷物を預けに行ってる」

「そう」


 そのとき、館の扉が開いた。


「ツェツィーリア」


 レオンハルトだった。


 名前を呼ばれて、胸が痛む。


 以前なら、それだけで嬉しかったのに。


「レオンハルト」


 返す。


 レオンハルトの金色の瞳が、ツェツィーリアから隣に立つテオドールへ移る。


「……なぜ、お前がいる」

「ヘルムートに頼まれて、資料を届けに参りました」

「そうか」

「はい」


 テオドールは丁寧な声で答えた。


 レオンハルトの視線が、またツェツィーリアへ戻る。


「二人で何を話していた」

「何って」

「ずいぶん、親しそうだったな」


 今度はテオドールの目が細くなる。


「幼馴染ですから」

「お前には聞いていない」


 ツェツィーリアが眉を寄せた。


「レオンハルト。どうしたの?」

「何がだ」

「何だか変よ」

「俺はただ……」


 言葉を切る。


 苛立っている。


 それだけは分かった。


「最近、テオドールとよく会うのか」

「え?」

「聞いている」

「……たまに会うわ」

「二人で?」

「それが何?」

「別に」


 別に。


 そう言うくせに、明らかに機嫌が悪い。


 ツェツィーリアはしばらく彼を見た。


 そして、胸の奥から何かが込み上げる。


「おかしいわ」

「何がだ」

「私を番じゃないって疑ってるのに」


 レオンハルトの表情が固まった。


「どうして、私がテオドールと話していることを気にするの?」

「……」

「私が偽物なら、誰と話していたってあなたには関係ないでしょう?」

「ツェツィーリア」

「違う?」


 答えない。


「それとも」


 ツェツィーリアは一歩近づいた。


「私はあなたの番ではないかもしれない。でも、他の人と親しくするのは嫌なの?」

「……」

「そんなの、勝手だわ」

「お前には分からない」

「分からないわよ」


 少し声が大きくなる。


「だって、何も話してくれないもの。あなたが何を考えているのか。どうして私を疑うのか。どうして遠ざけるのか」

「……」

「それなのに、私が誰と話すかだけは気にするの?」

「それは」

「それは?」


 レオンハルトは口を閉じた。


 答えられない。


 ツェツィーリアには、もうそれが分かるようになっていた。


 少し離れたところにいたヘルムートが、静かに視線を逸らす。


 テオドールも何も言わない。


 ただ、ツェツィーリアのすぐそばに立っていた。


「今日は、あなたと話すために来たの」

「ああ」

「だから、話すわ」


 ツェツィーリアはテオドールを見る。


「じゃあ、その辺にいるから」

「ありがとう」

「……ああ」


 テオドールは少しだけ眉を寄せた。


 それでも、止めなかった。


「何かあったら呼べ」


 その一言だけ残して、離れていく。


 レオンハルトは、その背中をしばらく見ていた。


 けれど、ツェツィーリアはもう何も言わなかった。


 二人で館の中へ入る。


 以前なら、自然と隣を歩いた。


 今日は、少し距離があった。


「ツェツィーリア」

「何?」

「テオドールとは」

「その話をするために来たんじゃないわ」


 ぴしゃりと言う。


 レオンハルトが黙った。


 自分でも、こんなふうに言えるとは思わなかった。


 でも。


 もう全部、レオンハルトに合わせるのは疲れていた。


「あなたが聞きたいことがあるなら聞いて」

「ああ」

「私も、今日は言いたいことがあるから」

「……分かった」


 客間へ入る。


 向かい合って座る。


「何を確認したいの?」


 ツェツィーリアが先に尋ねた。


「お前の父親の書庫にある文献を調べさせてもらいたい」

「お父様には?」

「すでに頼んで、許可を得ている」

「なら、いいわ」

「それと」

「うん」

「お前自身にも、もう一度確認したい」

「何を?」

「本当に、何も知らなかったのか」


 また、同じこと。


 胸が痛んだ。


 でも、以前ほど驚かなかった。


「知らなかったわ」

「……」

「あなたに教えてもらうまで、番を偽装する術があることさえ知らなかった」

「そうか」

「私のこと、信じる?」


 聞く。


 レオンハルトは黙った。


 やっぱり。


 まだ、答えは同じだった。


「分からない」


 ツェツィーリアは目を閉じた。


 不思議だった。


 前なら、その一言だけで泣きそうになったのに。


 今日は、悲しい。


 ただ、それだけだった。


「そう」


 静かに答える。


「じゃあ、私からも言っていい?」

「ああ」


 ツェツィーリアは彼を見る。


「私ね」


 一度、息を吸う。


「まだあなたが好きよ」


 レオンハルトの表情が変わった。


「……ツェツィーリア」

「変でしょう?」

「いや」

「これだけ傷つけられても、まだ好きなの」


 ツェツィーリアは苦笑した。


「でも、この気持ちは私のものよ」


 レオンハルトの金色の瞳が揺れる。


「誰にも、偽物だなんて言わせない」

「俺は、お前の気持ちまで――」

「ううん」


 ツェツィーリアは首を振る。


「あなたは、昔私に優しくしたことまで、術の影響だったのかもしれないと言ったでしょう」

「……」

「でも、私が嬉しかったことは本当よ」


 一緒に笑ったこと。


 黒竜の背で見た空。


 青い花。


 名前を呼ぶだけで嬉しかった日々。


「私があなたを好きになったことも、私の気持ちよ」


 ツェツィーリアはまっすぐ彼を見る。


「そこは、あなたにも否定させない」


 レオンハルトは、何も言えなかった。


「それから、もう一つ」

「何だ」

「好きだからって」


 少しだけ声が震える。


「ずっと傷ついていなくてもいいと思うの」


 言葉にした瞬間、胸の奥で何かが少しだけほどけた。


「お父様に言われたの。好きでいることと、傷つけられていいことは別だって。今なら、少し分かるわ」


「ツェツィーリア」

「まだ」


 ツェツィーリアが止める。


「まだ、あなたを諦めるって決めたわけじゃない」


 自分でも、そこまでは決められていない。


「でも、私も自分のことを大事にしたいの」


 長い沈黙。


 レオンハルトは、何も言わなかった。


 ツェツィーリアは立ち上がる。


「今日は帰るわ」

「待て」


 また。


 同じ言葉。


 以前なら、その一言で足を止めた。


 今日は、振り返るだけだった。


「何?」


 レオンハルトが、何かを言おうとしている。


 でも。


 やっぱり、言葉にならない。


「……いや」

「そう」


 ツェツィーリアは少しだけ笑った。


 悲しい笑いではあったけれど。


 前より、ちゃんと立っていられた。


「さようなら、レオンハルト」


 扉へ向かう。


 その背中を、レオンハルトは止められなかった。


 館を出ると、イルゼが待っていた。


「お嬢様」

「帰りましょう」


 以前と同じ言葉。


 けれど。


 今日は泣いていなかった。


「……はい」


 イルゼが隣に並ぶ。


 馬車へ向かいながら、ツェツィーリアは一度だけ館を振り返った。


 好き。


 まだ、ちゃんと好きだった。


 だから、苦しい。


 でも。


 好きだからといって、自分のすべてを差し出さなくてもいい。


 傷つくたびに、耐え続けなくてもいい。


 誰かを好きでいることと。


 自分を大切にすることは。


 きっと、両方あっていい。


 そのことを。


 ツェツィーリアは、ようやく少しずつ知り始めていた。


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