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あなたの番は、もうどこにもいない  作者: 黒猫と珈琲


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第5話 昔のあなたまで、嘘だったのですか

 十八歳の誕生日を迎える少し前。


 ツェツィーリアは、深い青色のリボンを手に取った。


 鏡の前で髪に合わせてみる。


 レオンハルトが旅先で選んでくれたもの。


 以前なら、竜族の領地へ行く日には迷わず使っていた。


 けれど今日は。


「……やめるわ」


 ツェツィーリアはリボンを置いた。


「よろしいのですか?」

「ええ。今日はこっちにする」


 選んだのは、淡い水色の細いリボンだった。


 昔から持っている、ごく普通のもの。


 イルゼが鏡越しにこちらを見る。


「お嬢様。本日は、竜族の領地へ行かれるのをおやめになりますか?」

「どうして?」

「行きたくないように見えましたので」


 ツェツィーリアは振り返る。


 否定しようとして、できなかった。


 少し前まで、レオンハルトに会える日は朝から嬉しかった。


 何を着よう。


 どんな話をしよう。


 そんなことばかり考えていた。


 今は。


 今日はどんな顔をされるのだろう。


 また何か気に障ることを言ってしまわないだろうか。


 そんなことを考えている。


「行くわ」

「ですが」

「約束してるもの。それに、きちんと話したいの」


 最近のレオンハルトはおかしい。


 その理由が分からないまま、何もなかったふりをする方が苦しかった。


 聞けばいい。


 何かあるのなら。


 自分にできることがあるのなら。


「私、ちゃんと聞いてみる」

「……そうですか」

「大丈夫よ」


 笑ったつもりだった。


 けれど、イルゼは笑わなかった。


 竜族の館へ着いたツェツィーリアは、いつものようにレオンハルトのもとへ案内されると思っていた。


 けれど、侍従が困ったような顔で立ち止まる。


「レオンハルト様は、ただいまお客様とお話し中でして」

「そうなの?」

「はい」

「では、待っているわ」

「……少々お時間がかかるかもしれません」

「構わないわ」


 案内された客間で待っていると、やがて廊下から話し声が聞こえてきた。


「では、また後ほど」


 女性の声。


 聞き覚えがある。


 扉の前を通ったのは、ペトラだった。


 ほんの一瞬、二人の視線が合う。


「ツェツィーリア様」

「ペトラ様」

「いらしていたのですね」

「ええ」

「レオンハルト様をお待ちですか?」

「はい」

「そうでしたか」


 いつもと変わらない、穏やかな笑み。


 それなのに、その言い方に少しだけ引っかかった。


「では、失礼いたします」


 ペトラはそれ以上何も言わず、去っていった。


 その背中を見送りながら、イルゼが小さく呟く。


「……ずいぶん頻繁に、レオンハルト様のおそばにいらっしゃるのですね」

「昔からよ」

「そうなのですか?」

「ええ。レオンハルトとは古くからの知り合いみたい」

「……」

「イルゼ?」

「いいえ」


 イルゼは口を閉じた。


 ツェツィーリアも、それ以上は何も言わなかった。


 やがて、レオンハルトが客間へ入ってきた。


「待たせたな」

「ううん」


 ツェツィーリアは立ち上がる。


 彼の顔を見る。


 やはり。


 以前と違う。


 ほんの少し前までなら、会った瞬間に胸がふっと軽くなった。


 今日も来てよかった。


 そう思えた。


 けれど今は。


 レオンハルトの目が自分を見ているだけで、緊張する。


「今日はどうする?」

「……話がある」

「話?」


 レオンハルトは椅子へ座る。


「イルゼ」

「はい」

「少しだけ、席を外してもらえる?」

「……承知しました。部屋の外に控えております。何かあれば、お呼びくださいませ」

「ええ」


 イルゼはすぐには動かなかった。


 レオンハルトを見て、それからツェツィーリアを見る。


 けれど最後には一礼し、部屋を出た。


 扉が閉じる。


 二人きりになった。


「話って、何?」


 尋ねても、レオンハルトはしばらく口を開かなかった。


「レオンハルト?」

「確認したいことがある」

「私に?」

「ああ」


 いつもより硬い声。


 胸の奥がざわつく。


「ローゼン家には、竜族に関する古い文献が多く残されているな」

「ええ。お父様の書庫にもたくさんあるわ」

「番に関するものも?」

「あると思う」

「お前は読んだことがあるか」

「少しなら」

「番を偽装する術については」


 ツェツィーリアは目を瞬いた。


「……え?」

「知らないのか」

「何の話?」


 言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。


「それを」


 ツェツィーリアはゆっくり尋ねる。


「どうして私に聞くの?」


 レオンハルトは答えない。


「レオンハルト」

「お前が知っているかどうか、聞いている」

「知らないわ」

「本当に?」


 その一言で。


 胸の中が冷えた。


「……本当にって?」

「そのままの意味だ」

「私が嘘をついていると思ってるの?」

「そうは言っていない」

「同じでしょう」

「ツェツィーリア」

「どうして急にそんな話をするの?」


 声が震えそうになる。


 でも、まだ泣きたくなかった。


「私たちの番の感覚が弱くなってるから?」


 レオンハルトの表情がわずかに変わった。


 図星だった。


 ツェツィーリアも、気づいていた。


 以前より、彼を近くに感じられない。


 番としての感覚が、確かに薄くなっている。


「私も感じてたわ。前と違うって」


 ツェツィーリアは自分の胸元を押さえた。


「レオンハルトが遠くなった気がしてた」

「それなら」

「でも、それで私が偽物になるの?」

「そうは言っていない」

「じゃあ何?」

「原因を調べているだけだ」

「だったら、一緒に調べればいいでしょう?」


 レオンハルトは答えない。


「どうして私を疑うの?」


 また、沈黙。


 その沈黙の方が、どんな言葉より苦しかった。


「一つ、聞かせてほしい」


 やがてレオンハルトが言った。


「何?」

「お前の父親は、最初から何も知らなかったのか」


 ツェツィーリアは、しばらくその言葉の意味が分からなかった。


「……お父様?」

「ああ」

「何を?」

「人間が竜族の長の番になれば、ローゼン家にとって大きな利益になる」


 息が止まった。


「何を言ってるの」

「可能性の話だ」

「やめて」

「ローゼン家は代々竜族と交流がある。古い術を知る機会も――」

「やめて!」


 思わず声を上げた。


 レオンハルトが口を閉じる。


 ツェツィーリアは立ち上がっていた。


 手が震えている。


「お父様は、そんなことしない」

「……」

「私があなたの番だと聞いたときだって、最初に言ったのよ。番だからって私の人生が急に変わるわけじゃない、私が決めていいって」

「分かっている」

「分かってないわ!」


 声が響く。


 悲しかった。


 自分を疑われることも。


 でも、それ以上に。


 ずっとツェツィーリアの意思を守ってくれた父まで疑われることが、許せなかった。


「レオンハルト。あなた、本当にそんなことを考えてたの?」

「可能性を一つずつ確かめている」

「じゃあ、私も可能性の一つなのね」

「何?」

「偽物の番かもしれないって」


 レオンハルトは答えなかった。


「そう思ってるんでしょう?」

「今は、何も断定できない」


 否定してくれなかった。


 ただ一言。


 違う、と。


 言ってほしかっただけなのに。


「今日は帰るわ」


 それ以上、まともに話せそうになかった。


「待て」

「何?」


 レオンハルトが立ち上がる。


 けれど、何も言わない。


「……いや、いい」

「そう」


 ツェツィーリアは扉へ向かう。


「ツェツィーリア」


 呼び止められた。


 足が止まる。


 期待してしまった。


 ごめん。


 言いすぎた。


 お前を疑いたくない。


 何でもいい。


 以前のレオンハルトを感じられる言葉がほしかった。


「また、話そう」


 返ってきたのは、それだけだった。


「……ええ」


 ツェツィーリアは振り返らなかった。


 馬車へ乗った瞬間、イルゼが心配そうに顔を覗き込んだ。


「お嬢様。どうなさいました?」

「……何でもないわ」

「何でもないお顔ではありません」

「イルゼ」

「はい」

「今日は何も聞かないで」


 声がうまく出なかった。


 イルゼは少し黙る。


「承知しました」


 それだけ言った。


 馬車が動き出す。


 ツェツィーリアは窓の外を見る。


 泣きたくなかった。


 まだ、何かの間違いかもしれない。


 レオンハルトは体調が悪いのだ。


 番の感覚が薄れて、不安になっているだけ。


 きっと少し時間が経てば、また元に戻る。


 そう思いたかった。


 けれど。


 戻らなかった。


 それから数週間、レオンハルトはさらに距離を置くようになった。


 手紙の返事は遅くなり、会う回数も減った。


 婚約の話も止まった。


 父は何度か竜族側へ問い合わせた。


 けれど返ってきたのは、『番について確認すべきことがある』という言葉だけだった。


「お父様」


 夕食後。


 書斎で父と二人になったツェツィーリアは、小さく尋ねた。


「怒ってる?」

「誰に?」

「レオンハルトに」


 父はしばらく黙っていた。


「ああ。怒っているよ」


 穏やかな声だった。


 だから余計に分かった。


 本当に怒っている。


「でも、一番大切なのは、私が腹を立てることじゃない」


 父はツェツィーリアを見る。


「ツェツィーリア、お前はどうしたい?」

「……分からない」


 それが、今の正直な気持ちだった。


「まだ好きなの」

「ああ」

「すごく嫌なことを言われたのに」

「ああ」

「お父様のことまで疑ったのに」


 膝の上で手を握る。


「それでも、嫌いになれない」


 父は笑わなかった。


「無理に嫌いになる必要はないよ」

「……」

「好きだった時間まで、なかったことにはならないからね」


 胸が痛くなる。


 十五歳から、二年以上。


 大切に積み重ねてきた時間。


「でも」


 父は静かに続ける。


「好きでいることと、傷つけられていいことは別だよ」


 ツェツィーリアは顔を上げた。


「そこだけは、忘れないでほしい」

「……うん」


 頷いた。


 その言葉が、この先何度も自分を支えることになるとは。


 まだ知らなかった。


 決定的なことが起きたのは、十八歳の誕生日を目前に控えた日のことだった。


「どうして来た」


 レオンハルトの第一声だった。


 ツェツィーリアは足を止める。


 今日は約束をしていなかった。


 けれど、このまま誕生日を迎えるのが嫌だった。


 婚約の話も止まったまま。


 二人の間に何が起きているのかも分からない。


「話したかったの」

「今は忙しい」

「少しだけでいいわ」

「後日にしろ」

「いつ?」

「……」

「いつなら話してくれるの?」


 レオンハルトが苛立ったように目を閉じる。


 以前にも見た反応だった。


 そのたびにツェツィーリアは引いてきた。


 今日は引かなかった。


「逃げないで」


 金色の瞳が見開かれる。


「俺が逃げているとでも言いたいのか」

「私、ずっと待ってる。何があったのか話してくれるのを。どうして私を疑うようになったのか。どうして婚約まで止めたのか」

「すでに話しただろう」

「話してないわ」

「可能性を調べていると伝えた」

「それで、私が納得するとでも思ったの?」

「ツェツィーリア」

「私はあなたの番なんでしょう?」


 レオンハルトの顔から、わずかに表情が消えた。


 ツェツィーリアも気づいた。


「……違うの?」

「今、それを調べている」


 胸を、冷たい手で掴まれたようだった。


「十五歳のとき、あなたが言ったのよ。『この娘が俺の番だ』って。覚えてる?」

「ああ」

「あのとき、あなたは迷ってなかった。私よりずっと、あなたのほうが確信してた」


 そうだった。


 ツェツィーリアは何も分からなかった。


 番と言われても、どうすればいいのかさえ。


 そんな自分に。


 何もしなくていい。


 好きにならなくていい。


 そう言ってくれたのがレオンハルトだった。


「私はね。番だからあなたを好きになったんじゃない」

「……」

「あなたが待っていてくれたから」


 声が震える。


「優しかったから」


 一緒に読んだ本。


 青い花の咲く丘。


 黒竜の背から見た空。


 贈ってくれたリボン。


『今のお前のままでいい』


 あの言葉。


「私が私のままでいていいって、教えてくれたから。だから、レオンハルトを好きになったの」


 それなのに。


「どうして今は、そんな目で私を見るの?」


 レオンハルトが視線を逸らす。


「俺にも分からない」

「何が?」

「以前の自分が」


 ツェツィーリアの息が止まった。


「……どういう意味?」

「お前を見ても、以前のように感じない」

「……」

「番なら、こんなことはあり得ないはずだ」

「だから偽物だと思うの?」

「可能性はある」


 今度は、はっきり言った。


「……そう」


 ツェツィーリアの声は、自分でも驚くほど静かだった。


 聞かなければよかった。


 そう思いながら。


 それでも聞いた。


「私たちが過ごした時間は? 十五歳から、ずっと」


 レオンハルトを見る。


「あなたが私に優しくしてくれたことも、私に会える日を待っていてくれたことも、黒竜の背に乗せてくれたことも、青い花を見せに連れていってくれたことも」


 怖かった。


 次の言葉を聞くのが。


 でも、聞かずにはいられない。


「あれも全部、番だと思っていたから?」


 長い沈黙。


 そして。


「……そうかもしれない」


 世界から音が消えたような気がした。


「え?」

「もし本当に、何らかの術で俺が惑わされていたのなら」


 レオンハルトは苦しそうに眉を寄せる。


「昔、お前に優しくしたことも、その術の影響だったのかもしれない」


 その瞬間。


 何かが壊れた。


 番を疑われたときより。


 父を疑われたときより。


 ずっと深いところで。


「……あの日々まで」


 声が震える。


 レオンハルトがこちらを見る。


「偽物だったのですか」


 いつの間にか、言葉が丁寧になっていた。


 距離を置くように。


「ツェツィーリア」

「私、あなたが好きにならなくてもいいって言ってくれたから」


 息がうまくできない。


「だから、好きになってもいいんだって思ったの」


 涙が滲む。


 けれど、まだ落ちなかった。


「私にとっては、大切な時間だったのに」


 レオンハルトは何も言わない。


 違う。


 あの日々まで、否定しないで。


 そう言ってくれない。


「あなたは」


 ツェツィーリアは笑おうとした。


 できなかった。


「あの日々まで、間違いだったと思ってるのね」


「俺は――」

「もういいです」

「待て」

「今日は帰ります」


 背を向ける。


「ツェツィーリア」


 今度こそ、振り返らなかった。


 扉を出ると、廊下で待っていたイルゼがすぐに立ち上がった。


「お嬢様?」

「帰りましょう」

「ですが」

「帰りたいの」


 それだけ言うと、イルゼは何も聞かなかった。


「承知しました」


 館を出る。


 馬車へ乗る。


 扉が閉じ、ゆっくりと動き始める。


 竜族の館が、少しずつ遠ざかっていく。


 ツェツィーリアはずっと窓の外を見ていた。


「お嬢様」

「……」

「こちらへ」


 優しい声だった。


 それだけで、もう駄目だった。


「イルゼ」

「はい」

「私ね」


 涙が落ちる。


「ずっと、大事だったの」

「はい」

「十五歳のときから」


 ひとつ落ちると、止まらなくなった。


「好きにならなくていいって言ってくれたことも」

「はい」

「初めて竜の姿を見せてくれたことも」

「はい」

「私が綺麗って言ったら、驚いた顔をしたことも」


 イルゼが隣へ座る。


「全部、覚えてるの」


 声が崩れる。


「全部、大切だったのに」


「お嬢様」


「レオンハルトは」


 息を詰まらせる。


「全部、術のせいだったかもしれないって」


 イルゼの表情が変わる。


「そんな」

「私が偽物なら、昔優しくしたことまで偽物だったかもしれないって」

「……」

「そんなこと言われたら」


 ツェツィーリアはとうとう顔を覆った。


「私は、何を信じたらいいの」


 次の瞬間、イルゼが強く抱きしめた。


 子どもの頃から知っている腕だった。


「お嬢様。泣いてください」

「……」

「今日は、我慢しなくていいです」

「イルゼ……」

「大丈夫だなんて、無理して言わなくていいんです」


 その言葉で。


 ツェツィーリアは初めて、声を上げて泣いた。


 その夜。


 ツェツィーリアは部屋に戻ってからも、長いあいだ眠れなかった。


 机の引き出しを開ける。


 奥には、深い青色のリボンが入っている。


 朝、今日はつけていかないと決めたもの。


 手に取る。


『お前に似合うと思った』


 あのときの声を、今でも覚えている。


 嬉しかった。


 あの瞬間の自分の気持ちまで、疑いたくはなかった。


「……なかったことにはしない」


 誰もいない部屋で呟く。


 レオンハルトがどう思っていても。


 自分が好きだったことまで、消えるわけではない。


 リボンを握る。


 涙が、また一粒落ちた。


 それでも。


 ツェツィーリアはリボンを捨てなかった。


 ただ丁寧に畳んで、引き出しの一番奥へしまった。


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