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あなたの番は、もうどこにもいない  作者: 黒猫と珈琲


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3/15

【挿話】テオの翼

 ツェツィーリアが初めてテオドールと出会ったのは、まだ六歳の頃だった。


 その日も父に連れられ、竜族の領地へ来ていた。


 大人たちが館の中で話をしているあいだ、ツェツィーリアは父の隣でおとなしく座っていた。


 最初のうちは。


 けれど、大人の話というものは長い。


 しかも難しい。


 領地の境界がどうとか。


 交易路がどうとか。


 六歳のツェツィーリアには、さっぱり分からなかった。


 とうとう椅子の上で足をぶらぶらさせ始めたところで、父がこちらを見る。


「退屈か?」

「……ちょっとだけ」

「ちょっとだけ、か」


 父が笑った。


 ちょうどそのとき、開いた扉の向こうを一人の少年が通り過ぎた。


 ツェツィーリアより少し年上。


 深い青の髪に、青灰色の瞳。


 少年もこちらに気づき、足を止める。


「あ」


 目が合った。


 少年は少し困ったような顔をした。


「テオドール」


 父が声をかけると、少年は室内へ入ってきた。


「ローゼン伯爵」

「ちょうどよかった。今日は父上と一緒か?」

「はい。父は向こうに」

「そうか」


 父はツェツィーリアを見る。


「ツェツィーリア。こちらはテオドールだ」

「テオドール?」

「竜族の子だよ」


 言われなくても、それくらいは分かる。


 ツェツィーリアは椅子から降りると、少年の前まで行った。


「わたし、ツェツィーリア」

「知ってる」

「知ってるの?」

「ローゼン伯爵の娘だろ」

「そう」


 ツェツィーリアはにこっと笑う。


「あなた、何歳?」

「八歳」

「わたし六歳」

「それも聞いた」

「なんでも知ってるのね」

「なんでもじゃない」


 テオドールが少しだけ眉を寄せる。


 その顔がなんだかおかしくて、ツェツィーリアは笑った。


「お父様。この子と遊んでもいい?」

「この子って……」


 テオドールが小さく呟く。


 父は苦笑した。


「テオドールがいいと言うならな」


 ツェツィーリアはすぐに彼を見る。


「遊ぶ?」

「……いいけど」

「やった」


 父が声をかける。


「ただし、遠くには行くなよ」

「はーい」

「森の奥も駄目だ」

「分かった」

「川にも近づくな」

「分かったってば」


 父は今度はテオドールを見る。


「悪いが、少し見ていてやってくれるか?」

「はい」

「ツェツィーリアは興味を持つと、すぐ走っていくから」

「お父様!」

「事実だろう」

「今日は走らないもん」


 父は楽しそうに笑った。


「では、行っておいで」

「うん!」


 ツェツィーリアはテオドールの手を取った。


「行こう!」

「ちょ、ちょっと」


 そのまま庭へ走り出す。


「走らないって言ったばかりだろ」

「まだお庭だから大丈夫!」

「そういう問題じゃない」


 後ろから、父の笑い声が聞こえた。


 竜族の館の庭は広かった。


 人間の屋敷のように花壇がきれいに並んでいるわけではない。


 大きな木や岩、草原があり、自然の形がそのまま残されている。


 ツェツィーリアには、それが面白かった。


「ねえ、テオドール」

「なに」

「竜になれる?」

「なれるよ」


 ツェツィーリアは目を輝かせる。


「今?」

「え、今?」

「見たい!」

「嫌だ」

「どうして?」

「急すぎる」

「でも竜なんでしょう?」

「竜族だからって、ずっと竜でいるわけじゃない」

「見たいなあ」

「嫌だ」

「ちょっとだけ」

「嫌だ」

「お願い」

「……嫌だ」


 言いながら、テオドールの声が少し弱くなった。


 ツェツィーリアはじっと彼を見る。


「テオドール」

「なに」

「テオって呼んでもいい?」

「……なんで急に」

「テオドールって長いから」

「別にいいけど」

「じゃあ、テオ」

「うん」

「竜になって」

「それとこれとは別」

「けち」

「けちじゃない」


 ツェツィーリアは、さらにじっと見つめる。


「お願い、テオ」


 テオドールはしばらく耐えていたけれど、やがて大きくため息をついた。


「……怖がらない?」

「怖くないよ」

「本当に?」

「うん」

「泣かない?」

「泣かないもん」

「大きいよ」

「見たい!」


 もう一度、ため息。


「分かった」

「やった!」

「でも、少し離れて」

「うん」


 ツェツィーリアは言われた通り、何歩か後ろへ下がった。


 次の瞬間、風が吹く。


「わあ……!」


 目の前に現れたのは、大きな青竜だった。


 まだ成竜ほど大きくはない。


 けれど、六歳のツェツィーリアから見れば十分に巨大だった。


 青い鱗。


 広い翼。


 陽の光を受けるたび、青銀色に輝いている。


「すごい!」


 青竜が少し身じろぎする。


 怖がられないか心配しているようだった。


 けれど、ツェツィーリアは駆け寄った。


「テオ!」


 青竜がびくりとする。


 その首元へ手を伸ばし、鱗をそっと撫でる。


「きれい。つるつるしてる」


 青竜が喉を鳴らした。


「翼も見せて」


 テオドールは片方の翼を少し広げる。


 ツェツィーリアの目が、さらに輝いた。


「大きい!」


 翼へ触れようとして、寸前で手を止める。


「触っていい?」


 青竜が少しだけ翼を下げた。


 いいということらしい。


 ツェツィーリアは指先でそっと触れた。


「すごいね、テオ」


 青竜が少し誇らしげに胸を張る。


 その仕草がおかしくて、ツェツィーリアは笑った。


「かわいい」


 途端に青竜が固まった。


「テオ、かわいい」


 ぶん、と尾が地面を叩く。


「あれ?」


 どうやら怒ったらしい。


「かわいいの嫌なの?」


 青竜はぷいと顔を背ける。


「じゃあ、格好いい」


 ちらりとこちらを見る。


「格好いいよ、テオ」


 今度は満足したらしい。


 ツェツィーリアは声を立てて笑った。


 それから何度か竜族の領地へ遊びに来るうちに、ツェツィーリアとテオドールはすっかり仲良くなった。


 木の実を拾ったり。


 小さな川で魚を見たり。


 草原を走ったり。


 ツェツィーリアが来る日には、いつの間にかテオドールも庭へ来るようになっていた。


 ある日。


 いつものように青竜になったテオドールのそばで遊んでいたツェツィーリアは、ふとその背中を見た。


「テオ」


 青竜がこちらを見る。


「そこ、乗れる?」


 ぴたりと動きが止まった。


「乗ってみたい」


 大きく首を振る。


「どうして?」


 また首を振る。


「大丈夫だよ」


 さらに首を振る。


「落ちないようにするから」


 青竜が人の姿に戻った。


「駄目」

「なんで?」

「危ないから」

「テオが落とさなければ大丈夫でしょう?」

「そういう問題じゃない」

「じゃあ、低いところだけ」

「駄目」

「飛ばなくてもいいから」

「……飛ばないなら、乗る意味ないだろ」

「じゃあ飛んで」

「駄目!」


 ツェツィーリアは頬を膨らませる。


「テオのけち」

「またそれ」

「ちょっとだけなのに」

「落ちたらどうするんだよ」

「テオが助けて」

「最初から落ちない方がいいだろ!」


 正論だった。


 けれど、ツェツィーリアは諦めない。


「お願い」

「駄目」

「お願い、テオ」

「……」

「一回だけ」

「……」

「ね?」


 テオドールはじっとツェツィーリアを見る。


 それから、深いため息をついた。


「本当に少しだけだからな」

「やった!」

「大声出すな」

「うん!」

「絶対に俺から手を離すなよ」

「分かった」

「ふざけて立とうとしたりするな」

「しないよ」

「本当に?」

「本当!」


 明らかに信用していない顔だった。


 それでもテオドールは青竜へ姿を変え、できるだけ体を低くした。


 ツェツィーリアは翼の付け根に手をかける。


「よいしょ」


 思ったより高い。


 なんとか背中へよじ登る。


「わあ……」


 地面に立っているときとは、景色が違う。


「高い!」


 青竜が振り返った。


「大丈夫!」


 首元にしっかりつかまる。


「行って!」


 ゆっくりと、青竜が翼を広げた。


 一度。


 二度。


 大きく羽ばたく。


 体が浮いた。


「わあああ!」


 ツェツィーリアは目を見開く。


 風が頬を撫で、地面が少しずつ遠くなる。


 けれど、テオドールは本当に低いところしか飛ばなかった。


 大きな木よりも、ずっと下。


 館の庭からも出ない。


 それでも、ツェツィーリアには十分だった。


「すごい!」


 青竜の首元にしがみつきながら笑う。


「テオ、すごい!」


 風で髪が後ろへ流れる。


 庭が小さく見えた。


「もっと高く!」


 青竜が大きく首を振る。


「もうちょっと!」


 また首を振った。


「けちー!」


 今度は尾が大きく揺れる。


 ツェツィーリアは笑った。


「でも、楽しい!」


 青竜の羽ばたきが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


 しばらくして地面へ降りる。


「もう一回!」


 人の姿へ戻ったテオドールは即答した。


「駄目」

「ええー」

「一回だけって言った」

「明日は?」

「明日も駄目」

「じゃあ次に来たとき」

「……」

「ね?」

「考えとく」

「やった」

「まだいいって言ってない」


 ツェツィーリアは笑った。


 そこへ。


「ツェツィーリア」


 聞き慣れた声がした。


「あ、お父様」


 少し離れたところに父が立っていた。


 腕を組んで、こちらを見ている。


 ツェツィーリアは固まった。


「……いつからいたの?」

「『もっと高く』の辺りからかな」

「……」


 父がテオドールを見る。


 テオドールの顔が青ざめた。


「す、すみません」

「いや」


 父は苦笑する。


「庭からは出ていないようだし、ずいぶん慎重に飛んでいたのも見ていた」


 テオドールがほっと息を吐く。


「ただ」


 父は娘を見る。


「ツェツィーリア」

「はい」

「もっと高く、と言うのはやめなさい」

「……はい」

「テオドールが困っていただろう」

「だって楽しかったんだもの」

「楽しくてもだ」

「はーい」

「返事だけはいいな」


 以前と同じことを言われて、ツェツィーリアは笑った。


 父もつられて笑う。


「そろそろ帰るぞ」

「もう?」

「ああ」


 ツェツィーリアはテオドールを見る。


「テオ」

「なに」

「次も乗せてね」

「考えとくって言っただろ」

「絶対ね」

「だから」

「約束!」


 ツェツィーリアは小指を差し出した。


 テオドールは困ったようにそれを見る。


「なに、それ」

「約束するときは、こうするの」

「人間はそうするの?」

「うん」

「……変なの」


 そう言いながら、テオドールも小指を出した。


 二人の指が絡む。


「約束ね、テオ」

「……うん」


 ツェツィーリアは満足すると、父のところへ走っていった。


「お父様、帰ろう」

「ああ」


 父の手を取る。


 少し歩いてから、ツェツィーリアは振り返った。


「テオ!」


 少年はまだ、そこにいた。


「またね!」


 大きく手を振る。


 テオドールも、少しだけ手を上げた。


「またな、ツェツィーリア」


 幼い二人は、まだ知らなかった。


 これから何年も。


 何度も一緒に遊んで。


 何度も笑って。


 少しずつ大人になっていくことも。


 いつかツェツィーリアに、たった一人の番が現れることも。


 そのとき。


 テオドールが、自分から彼女の手を離すことになることも。


 この頃はまだ。


「テオ」


 そう呼べば。


 いつだって彼は、振り返ってくれた。


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