第2話 あなたに会える日が好き
レオンハルトの番だと分かってからも、ツェツィーリアの暮らしは驚くほど変わらなかった。
朝起きて、イルゼに髪を整えてもらい、家庭教師の授業を受ける。午後には庭を歩いたり、本を読んだり、ときには父と一緒に領地の村へ出かけたりする。
以前と同じ毎日だった。
ただひとつ。
月に何度か、竜族の領地へ行くようになったことを除けば。
「お嬢様」
背後から声をかけられ、ツェツィーリアは振り返った。
「なあに?」
「先ほどから、同じところを三度も結び直しております」
「……何を?」
「リボンをです」
イルゼが呆れたように指さす。
見ると、ツェツィーリアの手の中には淡い青色のリボンがあった。
今日つけていこうと思って、自分で選んだものだ。
けれど確かに、結んではほどき、また結んでいたらしい。
「別に、深い意味はないわ」
「そうですか」
「そうよ」
「今日は竜族の領地へ行かれる日ですね」
「……そうだけど」
「レオンハルト様にお会いになる日です」
「分かってるわ」
イルゼが少し笑った。
「何よ」
「いいえ。とても楽しみでいらっしゃるのだな、と」
「……楽しみにしてはいけない?」
「まさか。お嬢様が楽しみなら、それが一番です」
図星だった。
ツェツィーリアは鏡を見る。
淡い金色の髪に、薄青の瞳。
いつもと変わらない自分なのに、竜族の領地へ行く日は、なぜか少しだけきれいにしていたくなる。
レオンハルトに褒めてほしいわけではない。
たぶん。
……少しくらいは、そうかもしれない。
「イルゼ。やっぱり、この青いリボンにする」
「承知しました」
「それと、レオンハルト様にお借りした本も忘れないでね」
「すでに鞄に入れてございます」
「さすがね」
「お嬢様が昨日から三度も確認なさいましたので」
「……そんなに?」
「はい」
イルゼは澄ました顔で答える。
ツェツィーリアは少しだけ頬を膨らませたが、否定はできなかった。
「面白かったか」
「ええ、とても」
竜族の館の庭。
大きな木の下に置かれた長椅子で、ツェツィーリアは借りていた本をレオンハルトへ返した。
「竜族の昔話って、人間のものと少し違うのですね」
「そうか?」
「ええ。人間のお話だと、竜はだいたい倒される側ですもの」
「不愉快な話だな」
「でしょう?」
ツェツィーリアが笑う。
「だから、竜が人間を助ける話は新鮮でした」
「実際、昔はそういうこともあったらしい」
「本当に?」
「ああ。山崩れから村を守った竜もいる」
「まあ」
「礼として羊を百頭もらった」
「結局、食べ物なのですね」
「竜も腹は減る」
真面目な顔で言われ、ツェツィーリアは吹き出した。
「もっと格好いいお話かと思ったのに」
「十分格好いいだろう」
「最後の羊がなければ」
「重要なところだ」
レオンハルトがわずかに眉を寄せる。
それがおかしくて、また笑ってしまう。
最初の頃は、彼の前ではひどく緊張していた。
竜族の長で、自分よりずっと年上で、しかも生涯ただ一人だという番。
何を話せばいいのかも分からなかった。
けれど、何度か会ううちに気づいた。
レオンハルトは、思っていたより話しやすい。
口数は多くなく、愛想がいいわけでもない。
それでも、ツェツィーリアの話をいつもきちんと聞いてくれる。
「次は何を読みたい」
「選んでくださるの?」
「ああ」
「なら……旅のお話がいいです」
「旅?」
「遠い土地へ行くお話。私、あまり遠くへ行ったことがないもの」
ツェツィーリアは空を見上げる。
竜なら、山も森も越えて、ずっと遠くまで行けるのだろう。
翼があればどんな景色が見えるのか。
考えるだけで少しわくわくする。
「竜なら、どこへでも行けるのでしょう?」
「行こうと思えばな」
「いいなあ」
そう言うと、レオンハルトが尋ねた。
「飛んだことはあるのか」
「ありますよ」
レオンハルトの視線が止まる。
「……あるのか」
「はい。小さい頃に」
「誰の背に乗った」
「テオドールです」
なぜか、少しだけ声が低くなった気がする。
けれどツェツィーリアは気にせず、懐かしくなって笑った。
「六歳か七歳くらいだったかしら。どうしても乗ってみたくて、お願いしたんです」
「テオドールが乗せたのか」
「最初はずっと駄目だと言っていました」
「当然だ」
「レオンハルト様まで」
「幼い人間を背に乗せるなら慎重になる」
「テオドールも同じことを言っていました」
何度頼んでも断られた。
それでも諦めきれなくてお願いし続け、ようやく根負けしたテオドールが、館の庭をほんの少しだけ飛んでくれた。
「すごく楽しかったんですよ」
「そうか」
「でも、もっと高くって言ったら怒られました」
「それも当然だ」
「お父様にも怒られました」
「伯爵が見ていたのか」
「途中から。遠くへは行っていなかったし、テオドールがずいぶん慎重に飛んでいたからって」
「そうか」
また短い返事だった。
ツェツィーリアは横から彼を見る。
「レオンハルト様?」
「なんだ」
「もしかして、機嫌が悪いですか?」
「悪くない」
「でも」
「悪くない」
二度言われた。
やっぱり、少し悪い気がする。
「……テオドールの背に乗ったのが嫌でした?」
「なぜそう思う」
「なんとなく」
「昔の話だろう」
「はい」
「なら、俺が口を出すことじゃない」
そう言ってから、レオンハルトは少しだけ間を置いた。
「だが」
「はい?」
「次に飛びたいときは、俺に言え」
ツェツィーリアは瞬きをした。
「レオンハルト様に?」
「ああ」
「乗せてくださるの?」
「お前が望むなら」
顔がぱっと明るくなるのが、自分でも分かった。
「本当?」
「ああ」
「テオドールより高く飛べます?」
「……」
「レオンハルト様?」
「比較するな」
「え?」
「俺とテオドールを比較するな」
真顔だった。
ツェツィーリアはしばらく彼を見て、それから堪えきれずに笑った。
「ふふっ」
「なぜ笑うのだ」
「だって」
「ツェツィーリア」
「ごめんなさい」
「笑うな」
「はい」
「笑っているだろう」
「だって、レオンハルト様がそんなことを気にすると思わなくて」
「気にしていない」
「そうですか?」
「ああ」
「では、テオドールより高く――」
「ツェツィーリア」
今度こそ声を上げて笑ってしまった。
レオンハルトは不満そうだったけれど、本気で怒っていないことも今では分かる。
そんなことまで分かるようになったことが、少し嬉しかった。
「そういえば」
しばらくして、レオンハルトが言う。
「さっきから気になっていた」
「何がですか?」
「その呼び方だ」
「呼び方?」
「レオンハルト様」
ツェツィーリアは首を傾げる。
「何かおかしいですか?」
「様はいらない」
「え?」
「レオンハルトでいい」
思わず目を見開いた。
「でも、竜族の長でしょう?」
「ああ」
「それなら、呼び捨てなんて」
「俺がいいと言っている」
「でも……」
父だってレオンハルトには礼を尽くしている。
いくら番だからといって、自分だけ呼び捨てにするのは落ち着かない。
「お前は俺の番だ」
「それは、呼び捨てにしていい理由になるの?」
思わず聞くと、レオンハルトが少し黙った。
「……俺にとってはなる」
「そうなのですか?」
「ああ。呼んでみろ」
「今?」
「今」
ツェツィーリアは急に恥ずかしくなった。
たった「様」を取るだけなのに、どうしてこんなに距離が近くなるように感じるのだろう。
「……レオンハルト」
「なんだ」
すぐに返事が返ってきた。
何でもないことのように。
けれど、ツェツィーリアの頬は少し熱かった。
「……やっぱり、変な感じ」
「そのうち慣れる」
「そうかしら」
「慣れろ」
「命令なの?」
「頼んでいる」
「とてもそうは聞こえません」
レオンハルトの口元が、ほんの少し緩む。
その顔を見て、ツェツィーリアの胸も少しくすぐったくなった。
「ところで」
ツェツィーリアは、先ほどから気になっていたことを思い出した。
「なぜ急に、飛んだことがあるか聞いたの?」
「空を見ていたからだ」
「そうだった?」
「ああ」
「なら……レオンハルトの竜の姿も、見せてもらえる?」
今度はちゃんと、様をつけずに呼べた。
レオンハルトがわずかに目を細める。
「今?」
「だめ?」
「だめではないが」
「私、まだ見たことがないでしょう?」
「そうだったな」
「見たいわ」
しばらく視線が重なる。
やがて、レオンハルトが立ち上がった。
「分かった」
「本当?」
「ああ」
庭の奥へ歩いていき、開けた場所まで来ると、レオンハルトが振り返る。
「少し離れていろ」
「はい」
「もう少し」
「これくらい?」
「ああ」
その直後、空気が変わった。
風が巻き起こり、大きな影が広がる。
ツェツィーリアは思わず腕で顔を庇った。
次に顔を上げたとき、そこにいたのは、人の姿のレオンハルトではなかった。
巨大な黒竜。
ツェツィーリアは息を呑んだ。
想像していたより、ずっと大きい。
幼い頃に見たテオドールの青竜とも、まるで違う。
黒い鱗は陽の光を受け、角度によって青や銀のようにも見えた。
広い翼。
鋭い爪。
長い尾。
その中で、金色の瞳だけが人の姿のときと同じだった。
黒竜がこちらを見る。
動かないツェツィーリアを見て、低く喉を鳴らした。
怖がっていると思ったのだろうか。
けれど、怖くない。
それよりも。
「……綺麗」
自然に声が漏れた。
黒竜の瞳が、わずかに見開かれる。
「すごく綺麗」
ツェツィーリアは一歩近づいた。
もう一歩近づいても、黒竜は動かなかった。
「触ってもいい?」
返事の代わりなのか、大きな頭がゆっくりと下がってくる。
目の前まで来ると、ツェツィーリアは少しだけ緊張しながら手を伸ばした。
指先が黒い鱗に触れる。
「……温かい」
硬いけれど、冷たくない。
ツェツィーリアはそっと撫でる。
黒竜が目を細めたように見えて、思わず笑った。
「ふふ。レオンハルト、かわいい」
その瞬間、黒竜の頭がぴたりと止まった。
「あ」
まずかっただろうか。
「ごめんなさい。竜族の長に、かわいいなんて失礼だった?」
黒竜は何も答えない。
けれど、どう見ても少し不満そうだった。
ツェツィーリアは思い出す。
幼い頃、青竜になったテオドールへ同じことを言ったときも、こんな反応をしていた。
竜族の男の人は、竜の姿をかわいいと言われるのが嫌なのかもしれない。
「では、格好いい」
黒竜がこちらを見る。
「とても格好いいわ、レオンハルト」
今度は満足したように、低く喉を鳴らした。
ツェツィーリアはまた笑った。
しばらくすると、レオンハルトは人の姿へ戻った。
「どうだった」
「綺麗だったわ」
「……そうか」
「本当に。黒いのに、光が当たると青く見えるところもあって。翼も大きくて」
「怖くなかったのか」
「全然」
レオンハルトは少し黙った。
「黒い竜を見て綺麗と言った人間は、お前が初めてだ」
「そうなの?」
「ああ」
「みんな何て言うの?」
「怖い。大きい。化け物」
ツェツィーリアは眉を寄せた。
「ひどいわ」
「事実でもある」
「化け物じゃないでしょう」
レオンハルトが目を瞬く。
「少なくとも私は、そう思わないわ」
ツェツィーリアは迷いなく続けた。
「だって、レオンハルトでしょう?」
言ってから、なぜか少し恥ずかしくなった。
人でも竜でも、レオンハルトはレオンハルト。
ただそれだけの意味だった。
けれど、彼は何も言わない。
「どうしたの?」
「いや。何でもない」
「そう?」
「ああ」
レオンハルトは目を逸らした。
その耳が、ほんの少し赤く見えた気がした。
けれどツェツィーリアは、きっと見間違いだと思った。
帰る時間になると、ツェツィーリアは少しだけ名残惜しくなった。
「次はいつ来る」
「お父様のお仕事次第だけど……二週間後くらいかしら」
「そうか」
「次の本、選んでおいてね」
「ああ」
「旅のお話よ」
「覚えている」
「本当に?」
「俺を何だと思っている」
「忘れっぽい人?」
「……そんな印象を与えた覚えはないが」
ツェツィーリアは笑った。
「冗談よ」
馬車へ乗る前、ふと思い出して振り返る。
「レオンハルト」
「なんだ」
さっきよりも、少しだけ自然に呼べた。
「今日は竜の姿を見せてくれて、ありがとう」
「ああ」
「嬉しかったわ」
レオンハルトの金の瞳が、わずかに細められる。
「次は飛ぶか」
「え?」
「乗せてやる」
ツェツィーリアの顔がぱっと明るくなる。
「本当に?」
「ああ」
「約束よ」
「分かった」
「テオドールより――」
「比較するな」
言い終わる前に返されて、ツェツィーリアは笑った。
「はい」
「笑うな」
「笑ってないわ」
「笑っている」
そんなやりとりをしながら馬車へ乗り込む。
扉が閉まり、ゆっくりと走り出した。
窓から外を見ると、レオンハルトはまだそこに立っている。
ツェツィーリアは小さく手を振った。
少し遅れて、レオンハルトも手を上げる。
それだけで、なぜか胸が温かくなった。
◇
数日後。
屋敷の庭を歩いていると、背後から声がした。
「楽しそうだな」
振り返れば、テオドールがいた。
「テオドール! どうしたの?」
「伯爵に届け物。父から」
「そうだったのね」
二人で庭を歩く。
幼い頃から、こうして何度も並んで歩いた。
昔は「テオ」と呼びながら、どこへ行くにも後ろをついていった。
いつの頃からだろう。
少しずつ大人になるにつれて、自然と「テオドール」と呼ぶようになったのは。
特別な理由があったわけではない。
ただ、それが今の二人には普通になっていた。
「この前ね、レオンハルトの竜の姿を見たの」
テオドールが、ほんの少し目を見開いた。
「もう呼び捨てなんだ」
「本人がそう呼べって」
「……そう」
「最初は変な感じだったけど、少し慣れてきたわ」
「そうか」
「それでね、とっても綺麗だったの」
「黒竜なんて珍しくないだろ」
「でも、レオンハルトの竜は初めてだったもの」
楽しそうに話すツェツィーリアを、テオドールは静かに見ていた。
「今度、背中にも乗せてくれるって」
「……乗るの?」
「ええ。小さい頃、あなたにも乗せてもらったでしょう?」
「覚えてるよ。お前、もっと高くってずっと言ってたから」
「だって楽しかったもの」
「俺は怖かった」
「テオドールが?」
「あんな小さい人間を背中に乗せてたんだぞ。落としたらどうするんだ」
「落とさなかったでしょう?」
「結果論だ」
昔と同じ言い方に、ツェツィーリアは笑った。
「レオンハルトにもその話をしたの」
「……したの?」
「ええ」
「なんて?」
「なんだか少し不機嫌そうだったわ。それで、次は自分に言えって」
「……そうか」
「変でしょう?」
「別に」
「そう?」
「ああ」
テオドールは前を向いた。
ツェツィーリアには、その横顔がほんの少しだけ遠く見えた。
「それに、旅の本も貸してくれるって」
話しているうちに、また自然と笑顔になる。
「竜族の昔話も面白かったし。次に会ったら――」
そこで、テオドールが静かにこちらを見ていることに気づいた。
「何?」
「いや」
「今、笑ったでしょう」
「笑ってない」
「嘘。じゃあ何?」
テオドールは少しだけ目を細めた。
「レオンハルト様の話をするとき、楽しそうだなと思って」
「……そう?」
「ああ」
ツェツィーリアは瞬きをする。
そんなつもりはなかった。
けれど、言われてみれば、レオンハルトと会った日のことを思い出すと楽しい。
次は何を話そう。
どんな本を貸してくれるだろう。
約束した通り、竜の背に乗せてもらえるだろうか。
そんなことばかり考えている。
「……だって、楽しいもの」
素直に答えた。
テオドールの笑みが、一瞬だけ揺れた。
けれど、ツェツィーリアは気づかない。
「最初は、もっと怖い人だと思っていたの」
「レオンハルト様を?」
「ええ。竜族の長だし、あまり笑わないし」
「まあ、それは分かる」
「でも、意外と優しいのよ。話もちゃんと聞いてくれるし」
「そうか」
ツェツィーリアは、そのままレオンハルトの話を続けた。
テオドールは黙って聞いていた。
途中で口を挟まない。
昔からそうだ。
ツェツィーリアが楽しそうに話しているときは、最後まで聞いてくれる。
だから。
そのとき彼が何を思っていたのか。
ツェツィーリアは知らなかった。
「次に会えるの、二週間後なの」
そう言って、ツェツィーリアはふと笑う。
「最近ね」
「うん」
「レオンハルトに会える日が、好きなの」
テオドールは少しだけ黙った。
「……そっか」
「変かしら」
「いや」
彼は笑った。
いつも通りの、優しい笑い方だった。
「いいんじゃない」
ツェツィーリアも笑う。
その頃にはもう、番だから会うのではなかった。
レオンハルトだから。
あの金の瞳を見て。
低い声を聞いて。
時々、ほんの少しだけ笑う顔を見ることが嬉しかった。
まだ、これが恋なのかは分からない。
ただ、二週間後が待ち遠しい。
そんな気持ちを、十五歳のツェツィーリアは少しずつ知り始めていた。




