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あなたの番は、もうどこにもいない  作者: 黒猫と珈琲


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2/19

第2話 あなたに会える日が好き

 レオンハルトの番だと分かってからも、ツェツィーリアの暮らしは驚くほど変わらなかった。


 朝起きて、イルゼに髪を整えてもらい、家庭教師の授業を受ける。午後には庭を歩いたり、本を読んだり、ときには父と一緒に領地の村へ出かけたりする。


 以前と同じ毎日だった。


 ただひとつ。


 月に何度か、竜族の領地へ行くようになったことを除けば。


「お嬢様」


 背後から声をかけられ、ツェツィーリアは振り返った。


「なあに?」

「先ほどから、同じところを三度も結び直しております」

「……何を?」

「リボンをです」


 イルゼが呆れたように指さす。


 見ると、ツェツィーリアの手の中には淡い青色のリボンがあった。


 今日つけていこうと思って、自分で選んだものだ。


 けれど確かに、結んではほどき、また結んでいたらしい。


「別に、深い意味はないわ」

「そうですか」

「そうよ」

「今日は竜族の領地へ行かれる日ですね」

「……そうだけど」

「レオンハルト様にお会いになる日です」

「分かってるわ」


 イルゼが少し笑った。


「何よ」

「いいえ。とても楽しみでいらっしゃるのだな、と」

「……楽しみにしてはいけない?」

「まさか。お嬢様が楽しみなら、それが一番です」


 図星だった。


 ツェツィーリアは鏡を見る。


 淡い金色の髪に、薄青の瞳。


 いつもと変わらない自分なのに、竜族の領地へ行く日は、なぜか少しだけきれいにしていたくなる。


 レオンハルトに褒めてほしいわけではない。


 たぶん。


 ……少しくらいは、そうかもしれない。


「イルゼ。やっぱり、この青いリボンにする」

「承知しました」

「それと、レオンハルト様にお借りした本も忘れないでね」

「すでに鞄に入れてございます」

「さすがね」

「お嬢様が昨日から三度も確認なさいましたので」

「……そんなに?」

「はい」


 イルゼは澄ました顔で答える。


 ツェツィーリアは少しだけ頬を膨らませたが、否定はできなかった。


「面白かったか」

「ええ、とても」


 竜族の館の庭。


 大きな木の下に置かれた長椅子で、ツェツィーリアは借りていた本をレオンハルトへ返した。


「竜族の昔話って、人間のものと少し違うのですね」

「そうか?」

「ええ。人間のお話だと、竜はだいたい倒される側ですもの」

「不愉快な話だな」

「でしょう?」


 ツェツィーリアが笑う。


「だから、竜が人間を助ける話は新鮮でした」

「実際、昔はそういうこともあったらしい」

「本当に?」

「ああ。山崩れから村を守った竜もいる」

「まあ」

「礼として羊を百頭もらった」

「結局、食べ物なのですね」

「竜も腹は減る」


 真面目な顔で言われ、ツェツィーリアは吹き出した。


「もっと格好いいお話かと思ったのに」

「十分格好いいだろう」

「最後の羊がなければ」

「重要なところだ」


 レオンハルトがわずかに眉を寄せる。


 それがおかしくて、また笑ってしまう。


 最初の頃は、彼の前ではひどく緊張していた。


 竜族の長で、自分よりずっと年上で、しかも生涯ただ一人だという番。


 何を話せばいいのかも分からなかった。


 けれど、何度か会ううちに気づいた。


 レオンハルトは、思っていたより話しやすい。


 口数は多くなく、愛想がいいわけでもない。


 それでも、ツェツィーリアの話をいつもきちんと聞いてくれる。


「次は何を読みたい」

「選んでくださるの?」

「ああ」

「なら……旅のお話がいいです」

「旅?」

「遠い土地へ行くお話。私、あまり遠くへ行ったことがないもの」


 ツェツィーリアは空を見上げる。


 竜なら、山も森も越えて、ずっと遠くまで行けるのだろう。


 翼があればどんな景色が見えるのか。


 考えるだけで少しわくわくする。


「竜なら、どこへでも行けるのでしょう?」

「行こうと思えばな」

「いいなあ」


 そう言うと、レオンハルトが尋ねた。


「飛んだことはあるのか」

「ありますよ」


 レオンハルトの視線が止まる。


「……あるのか」

「はい。小さい頃に」

「誰の背に乗った」

「テオドールです」


 なぜか、少しだけ声が低くなった気がする。


 けれどツェツィーリアは気にせず、懐かしくなって笑った。


「六歳か七歳くらいだったかしら。どうしても乗ってみたくて、お願いしたんです」

「テオドールが乗せたのか」

「最初はずっと駄目だと言っていました」

「当然だ」

「レオンハルト様まで」

「幼い人間を背に乗せるなら慎重になる」

「テオドールも同じことを言っていました」


 何度頼んでも断られた。


 それでも諦めきれなくてお願いし続け、ようやく根負けしたテオドールが、館の庭をほんの少しだけ飛んでくれた。


「すごく楽しかったんですよ」

「そうか」

「でも、もっと高くって言ったら怒られました」

「それも当然だ」

「お父様にも怒られました」

「伯爵が見ていたのか」

「途中から。遠くへは行っていなかったし、テオドールがずいぶん慎重に飛んでいたからって」

「そうか」


 また短い返事だった。


 ツェツィーリアは横から彼を見る。


「レオンハルト様?」

「なんだ」

「もしかして、機嫌が悪いですか?」

「悪くない」

「でも」

「悪くない」


 二度言われた。


 やっぱり、少し悪い気がする。


「……テオドールの背に乗ったのが嫌でした?」

「なぜそう思う」

「なんとなく」

「昔の話だろう」

「はい」

「なら、俺が口を出すことじゃない」


 そう言ってから、レオンハルトは少しだけ間を置いた。


「だが」

「はい?」

「次に飛びたいときは、俺に言え」


 ツェツィーリアは瞬きをした。


「レオンハルト様に?」

「ああ」

「乗せてくださるの?」

「お前が望むなら」


 顔がぱっと明るくなるのが、自分でも分かった。


「本当?」

「ああ」

「テオドールより高く飛べます?」

「……」

「レオンハルト様?」

「比較するな」

「え?」

「俺とテオドールを比較するな」


 真顔だった。


 ツェツィーリアはしばらく彼を見て、それから堪えきれずに笑った。


「ふふっ」

「なぜ笑うのだ」

「だって」

「ツェツィーリア」

「ごめんなさい」

「笑うな」

「はい」

「笑っているだろう」

「だって、レオンハルト様がそんなことを気にすると思わなくて」

「気にしていない」

「そうですか?」

「ああ」

「では、テオドールより高く――」

「ツェツィーリア」


 今度こそ声を上げて笑ってしまった。


 レオンハルトは不満そうだったけれど、本気で怒っていないことも今では分かる。


 そんなことまで分かるようになったことが、少し嬉しかった。


「そういえば」


 しばらくして、レオンハルトが言う。


「さっきから気になっていた」

「何がですか?」

「その呼び方だ」

「呼び方?」

「レオンハルト様」


 ツェツィーリアは首を傾げる。


「何かおかしいですか?」

「様はいらない」

「え?」

「レオンハルトでいい」


 思わず目を見開いた。


「でも、竜族の長でしょう?」

「ああ」

「それなら、呼び捨てなんて」

「俺がいいと言っている」

「でも……」


 父だってレオンハルトには礼を尽くしている。


 いくら番だからといって、自分だけ呼び捨てにするのは落ち着かない。


「お前は俺の番だ」

「それは、呼び捨てにしていい理由になるの?」


 思わず聞くと、レオンハルトが少し黙った。


「……俺にとってはなる」

「そうなのですか?」

「ああ。呼んでみろ」

「今?」

「今」


 ツェツィーリアは急に恥ずかしくなった。


 たった「様」を取るだけなのに、どうしてこんなに距離が近くなるように感じるのだろう。


「……レオンハルト」

「なんだ」


 すぐに返事が返ってきた。


 何でもないことのように。


 けれど、ツェツィーリアの頬は少し熱かった。


「……やっぱり、変な感じ」

「そのうち慣れる」

「そうかしら」

「慣れろ」

「命令なの?」

「頼んでいる」

「とてもそうは聞こえません」


 レオンハルトの口元が、ほんの少し緩む。


 その顔を見て、ツェツィーリアの胸も少しくすぐったくなった。


「ところで」


 ツェツィーリアは、先ほどから気になっていたことを思い出した。


「なぜ急に、飛んだことがあるか聞いたの?」

「空を見ていたからだ」

「そうだった?」

「ああ」

「なら……レオンハルトの竜の姿も、見せてもらえる?」


 今度はちゃんと、様をつけずに呼べた。


 レオンハルトがわずかに目を細める。


「今?」

「だめ?」

「だめではないが」

「私、まだ見たことがないでしょう?」

「そうだったな」

「見たいわ」


 しばらく視線が重なる。


 やがて、レオンハルトが立ち上がった。


「分かった」

「本当?」

「ああ」


 庭の奥へ歩いていき、開けた場所まで来ると、レオンハルトが振り返る。


「少し離れていろ」

「はい」

「もう少し」

「これくらい?」

「ああ」


 その直後、空気が変わった。


 風が巻き起こり、大きな影が広がる。


 ツェツィーリアは思わず腕で顔を庇った。


 次に顔を上げたとき、そこにいたのは、人の姿のレオンハルトではなかった。


 巨大な黒竜。


 ツェツィーリアは息を呑んだ。


 想像していたより、ずっと大きい。


 幼い頃に見たテオドールの青竜とも、まるで違う。


 黒い鱗は陽の光を受け、角度によって青や銀のようにも見えた。


 広い翼。


 鋭い爪。


 長い尾。


 その中で、金色の瞳だけが人の姿のときと同じだった。


 黒竜がこちらを見る。


 動かないツェツィーリアを見て、低く喉を鳴らした。


 怖がっていると思ったのだろうか。


 けれど、怖くない。


 それよりも。


「……綺麗」


 自然に声が漏れた。


 黒竜の瞳が、わずかに見開かれる。


「すごく綺麗」


 ツェツィーリアは一歩近づいた。


 もう一歩近づいても、黒竜は動かなかった。


「触ってもいい?」


 返事の代わりなのか、大きな頭がゆっくりと下がってくる。


 目の前まで来ると、ツェツィーリアは少しだけ緊張しながら手を伸ばした。


 指先が黒い鱗に触れる。


「……温かい」


 硬いけれど、冷たくない。


 ツェツィーリアはそっと撫でる。


 黒竜が目を細めたように見えて、思わず笑った。


「ふふ。レオンハルト、かわいい」


 その瞬間、黒竜の頭がぴたりと止まった。


「あ」


 まずかっただろうか。


「ごめんなさい。竜族の長に、かわいいなんて失礼だった?」


 黒竜は何も答えない。


 けれど、どう見ても少し不満そうだった。


 ツェツィーリアは思い出す。


 幼い頃、青竜になったテオドールへ同じことを言ったときも、こんな反応をしていた。


 竜族の男の人は、竜の姿をかわいいと言われるのが嫌なのかもしれない。


「では、格好いい」


 黒竜がこちらを見る。


「とても格好いいわ、レオンハルト」


 今度は満足したように、低く喉を鳴らした。


 ツェツィーリアはまた笑った。


 しばらくすると、レオンハルトは人の姿へ戻った。


「どうだった」

「綺麗だったわ」

「……そうか」

「本当に。黒いのに、光が当たると青く見えるところもあって。翼も大きくて」

「怖くなかったのか」

「全然」


 レオンハルトは少し黙った。


「黒い竜を見て綺麗と言った人間は、お前が初めてだ」

「そうなの?」

「ああ」

「みんな何て言うの?」

「怖い。大きい。化け物」


 ツェツィーリアは眉を寄せた。


「ひどいわ」

「事実でもある」

「化け物じゃないでしょう」


 レオンハルトが目を瞬く。


「少なくとも私は、そう思わないわ」


 ツェツィーリアは迷いなく続けた。


「だって、レオンハルトでしょう?」


 言ってから、なぜか少し恥ずかしくなった。


 人でも竜でも、レオンハルトはレオンハルト。


 ただそれだけの意味だった。


 けれど、彼は何も言わない。


「どうしたの?」

「いや。何でもない」

「そう?」

「ああ」


 レオンハルトは目を逸らした。


 その耳が、ほんの少し赤く見えた気がした。


 けれどツェツィーリアは、きっと見間違いだと思った。


 帰る時間になると、ツェツィーリアは少しだけ名残惜しくなった。


「次はいつ来る」

「お父様のお仕事次第だけど……二週間後くらいかしら」

「そうか」

「次の本、選んでおいてね」

「ああ」

「旅のお話よ」

「覚えている」

「本当に?」

「俺を何だと思っている」

「忘れっぽい人?」

「……そんな印象を与えた覚えはないが」


 ツェツィーリアは笑った。


「冗談よ」


 馬車へ乗る前、ふと思い出して振り返る。


「レオンハルト」

「なんだ」


 さっきよりも、少しだけ自然に呼べた。


「今日は竜の姿を見せてくれて、ありがとう」

「ああ」

「嬉しかったわ」


 レオンハルトの金の瞳が、わずかに細められる。


「次は飛ぶか」

「え?」

「乗せてやる」


 ツェツィーリアの顔がぱっと明るくなる。


「本当に?」

「ああ」

「約束よ」

「分かった」

「テオドールより――」

「比較するな」


 言い終わる前に返されて、ツェツィーリアは笑った。


「はい」

「笑うな」

「笑ってないわ」

「笑っている」


 そんなやりとりをしながら馬車へ乗り込む。


 扉が閉まり、ゆっくりと走り出した。


 窓から外を見ると、レオンハルトはまだそこに立っている。


 ツェツィーリアは小さく手を振った。


 少し遅れて、レオンハルトも手を上げる。


 それだけで、なぜか胸が温かくなった。


 ◇


 数日後。


 屋敷の庭を歩いていると、背後から声がした。


「楽しそうだな」


 振り返れば、テオドールがいた。


「テオドール! どうしたの?」

「伯爵に届け物。父から」

「そうだったのね」


 二人で庭を歩く。


 幼い頃から、こうして何度も並んで歩いた。


 昔は「テオ」と呼びながら、どこへ行くにも後ろをついていった。


 いつの頃からだろう。


 少しずつ大人になるにつれて、自然と「テオドール」と呼ぶようになったのは。


 特別な理由があったわけではない。


 ただ、それが今の二人には普通になっていた。


「この前ね、レオンハルトの竜の姿を見たの」


 テオドールが、ほんの少し目を見開いた。


「もう呼び捨てなんだ」

「本人がそう呼べって」

「……そう」

「最初は変な感じだったけど、少し慣れてきたわ」

「そうか」

「それでね、とっても綺麗だったの」

「黒竜なんて珍しくないだろ」

「でも、レオンハルトの竜は初めてだったもの」


 楽しそうに話すツェツィーリアを、テオドールは静かに見ていた。


「今度、背中にも乗せてくれるって」

「……乗るの?」

「ええ。小さい頃、あなたにも乗せてもらったでしょう?」

「覚えてるよ。お前、もっと高くってずっと言ってたから」

「だって楽しかったもの」

「俺は怖かった」

「テオドールが?」

「あんな小さい人間を背中に乗せてたんだぞ。落としたらどうするんだ」

「落とさなかったでしょう?」

「結果論だ」


 昔と同じ言い方に、ツェツィーリアは笑った。


「レオンハルトにもその話をしたの」

「……したの?」

「ええ」

「なんて?」

「なんだか少し不機嫌そうだったわ。それで、次は自分に言えって」

「……そうか」

「変でしょう?」

「別に」

「そう?」

「ああ」


 テオドールは前を向いた。


 ツェツィーリアには、その横顔がほんの少しだけ遠く見えた。


「それに、旅の本も貸してくれるって」


 話しているうちに、また自然と笑顔になる。


「竜族の昔話も面白かったし。次に会ったら――」


 そこで、テオドールが静かにこちらを見ていることに気づいた。


「何?」

「いや」

「今、笑ったでしょう」

「笑ってない」

「嘘。じゃあ何?」


 テオドールは少しだけ目を細めた。


「レオンハルト様の話をするとき、楽しそうだなと思って」

「……そう?」

「ああ」


 ツェツィーリアは瞬きをする。


 そんなつもりはなかった。


 けれど、言われてみれば、レオンハルトと会った日のことを思い出すと楽しい。


 次は何を話そう。


 どんな本を貸してくれるだろう。


 約束した通り、竜の背に乗せてもらえるだろうか。


 そんなことばかり考えている。


「……だって、楽しいもの」


 素直に答えた。


 テオドールの笑みが、一瞬だけ揺れた。


 けれど、ツェツィーリアは気づかない。


「最初は、もっと怖い人だと思っていたの」

「レオンハルト様を?」

「ええ。竜族の長だし、あまり笑わないし」

「まあ、それは分かる」

「でも、意外と優しいのよ。話もちゃんと聞いてくれるし」

「そうか」


 ツェツィーリアは、そのままレオンハルトの話を続けた。


 テオドールは黙って聞いていた。


 途中で口を挟まない。


 昔からそうだ。


 ツェツィーリアが楽しそうに話しているときは、最後まで聞いてくれる。


 だから。


 そのとき彼が何を思っていたのか。


 ツェツィーリアは知らなかった。


「次に会えるの、二週間後なの」


 そう言って、ツェツィーリアはふと笑う。


「最近ね」

「うん」

「レオンハルトに会える日が、好きなの」


 テオドールは少しだけ黙った。


「……そっか」

「変かしら」

「いや」


 彼は笑った。


 いつも通りの、優しい笑い方だった。


「いいんじゃない」


 ツェツィーリアも笑う。


 その頃にはもう、番だから会うのではなかった。


 レオンハルトだから。


 あの金の瞳を見て。


 低い声を聞いて。


 時々、ほんの少しだけ笑う顔を見ることが嬉しかった。


 まだ、これが恋なのかは分からない。


 ただ、二週間後が待ち遠しい。


 そんな気持ちを、十五歳のツェツィーリアは少しずつ知り始めていた。


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