第3話 十八歳になったら
十七歳になった頃、ツェツィーリアは竜族の領地へ行く日に何を着ようか迷うことを、もうイルゼに隠さなくなっていた。
「今日は白にするわ」
「昨日までは淡い青とおっしゃっていませんでした?」
「白の方が、このリボンに合うもの」
「なるほど」
イルゼが髪に結ぼうとしているのは、深い青色のリボンだった。
少し前、レオンハルトが旅先で見つけて持ち帰ってくれたものだ。
『お前に似合うと思った』
それだけ言って渡された。
たったそれだけなのに、ツェツィーリアはそれから何度も使っている。
「……何?」
「いいえ」
「また笑ったでしょう」
「笑っておりません」
「絶対に笑ったわ」
「ただ、お嬢様もずいぶん変わられたなと思いまして」
鏡越しにイルゼを見る。
「何が?」
「二年前は、レオンハルト様に会うだけであんなに緊張していらしたのに」
「そうだったかしら」
「ええ。今では、明日はレオンハルト様のところへ行くからこの服は着ない、と三日前から予定を立てていらっしゃいます」
「……それは言わなくてもいいでしょう?」
イルゼがとうとう笑った。
「お嬢様が楽しそうなので、私は嬉しいですよ」
ツェツィーリアは少し頬を膨らませてから、鏡へ視線を戻した。
二年。
十五歳で番だと分かってから、レオンハルトとは何度も会った。
一緒に本を読み、庭を歩き、竜族の町へ連れていってもらったこともある。約束どおり、黒竜の背にも乗せてもらった。
最初に飛んだ日、「もっと高くても平気よ」と言ったら、
『お前は昔からそればかりだな』
と呆れられた。
どうして知っているのかと聞けば、
『テオドールの背に乗った話を、自分でしただろう』
そう返され、さらに、
『今日は比較するな』
と付け加えられたから、思わず笑ってしまった。
今ではもう、レオンハルトの前で笑うことも、名前を呼ぶことも、すっかり自然になっている。
「できました」
「ありがとう」
「お気をつけて」
「ええ」
扉へ向かいかけたところで、イルゼが声をかけた。
「お嬢様」
「なあに?」
「今日は帰りが遅くなっても構いませんよ」
「……何を言っているの」
「旦那様にもお伝えしてあります」
「イルゼ!」
笑い声を背中で聞きながら、ツェツィーリアは部屋を出た。
◇
竜族の館へ着くと、玄関前にレオンハルトが立っていた。
「遅い」
開口一番そう言われて、ツェツィーリアは目を瞬く。
「時間通りよ」
「そうか?」
「そうよ」
二年前と変わらない漆黒の髪に、金色の瞳。
けれど、ツェツィーリアの方はずいぶん変わった。
十五歳だった少女は十七歳になり、背も少し伸びた。髪も長くなり、社交界へ出る機会も増えた。
だからなのか。
最近、レオンハルトが時折、自分を見る目が以前とは違う気がする。
その意味を、ツェツィーリアはまだよく分かっていなかった。
「待っていたの?」
「たまたま外にいただけだ」
「本当に?」
「ああ」
「ヘルムートに聞いてみようかしら」
「やめろ」
間髪入れずに返ってきた。
「やっぱり待ってたのね」
「……行くぞ」
「どこへ?」
「見せたいものがある」
「何?」
「来れば分かる」
レオンハルトが先に歩き出し、ツェツィーリアはその背中を追う。
以前なら、彼の少し後ろを歩いていた。
けれど今は、自然と隣へ並ぶ。
それも、いつの間にか当たり前になっていた。
向かったのは、館の裏手にある小高い丘だった。
「ここ?」
「ああ」
丘を登りきったところで、ツェツィーリアは足を止める。
「わあ……」
一面に、淡い青色の花が咲いていた。
風が吹くたび、小さな花が一斉に揺れていく。
「綺麗。こんな場所、あったのね」
「普段はあまり来ない」
「どうして今日ここへ?」
「今が一番咲く時期だからだ」
ツェツィーリアは振り返った。
「私に見せようと思ったの?」
「ああ」
あまりにも普通に答えられたせいで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……そう」
「何だ」
「何でもないわ」
二人で花の間を歩く。
「昔、館の庭でこの花を一緒に見たでしょう?」
「ああ」
「私、あの頃から好きだったの」
「覚えている」
「覚えていたの?」
「お前が何度もかわいいと言っていたからな」
「よく覚えてるのね」
「お前の話は、妙に頭に残る」
「それ、褒めてる?」
「一応」
「一応なのね」
笑いながら歩いていたけれど、ふと気づく。
レオンハルトが、さっきから何度かこちらを見ている。
「何?」
「何がだ」
「さっきから見てるでしょう」
レオンハルトが少し黙った。
「……髪」
「髪?」
「そのリボン」
ツェツィーリアは手を伸ばして触れる。
「ああ、これ」
「使っていたんだな」
「レオンハルトからもらったものだもの」
「そうか」
「似合う?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、レオンハルトはすぐには答えなかった。
金色の瞳が、じっとこちらを見る。
十五歳の頃なら、もっと気軽に答えていた気がする。
その沈黙の長さに、ツェツィーリアまで妙に落ち着かなくなる。
「……似合う」
ようやく返ってきた声が、少し低かった。
「ありがとう」
それだけ答えた。
なのに今度は、自分の方が彼の顔を見られなくなった。
丘の端には、大きな木が一本立っていた。
二人でその下に座る。
遠くには山が見え、空には一頭の竜が飛んでいた。
「ねえ、レオンハルト」
「なんだ」
「覚えてる? 最初に会った日のこと」
「ああ」
「私、すごく緊張してた」
「知っている」
「そんなに分かりやすかった?」
「ドレスを握り潰しそうだった」
「そんなに?」
「ああ」
ツェツィーリアは笑った。
「私ね、あの日、あなたがもっと怖い人だと思ってたの」
「失礼だな」
「だって竜族の長よ? 黒い服で、全然笑わなくて」
「今も大して変わらないと思うが」
「今は違うもの」
「何が」
「笑うでしょう?」
「……たまにな」
「優しいし」
「そうか?」
「そうよ」
「自覚はない」
ツェツィーリアは膝を抱えた。
「私は、優しいと思ってる。十五歳の私に、何もしなくていいって言ってくれたでしょう?」
「ああ」
「好きにならなくてもいいとも」
「言ったな」
「だから安心したの」
もしあの日、レオンハルトが、番だから自分のものだと決めつけるような人だったなら。
きっと、今の二人にはなっていなかった。
急かされなかったからこそ、彼を知る時間があった。
「ちゃんと、レオンハルトのことを知る時間があったの」
風が吹き、青い花が揺れる。
「それで?」
「ん?」
「知って、どうだった」
聞かれて、ツェツィーリアは言葉に詰まった。
レオンハルトの目は真っ直ぐだった。
「……それを聞くの?」
「ああ」
「ずるいわ」
「何がだ」
「分かってるくせに」
「分からない」
「本当に?」
「ああ」
嘘だ。
きっと。
けれど、ツェツィーリアは少し俯いた。
二年前なら言えなかった。
一年前でも、きっと。
でも今なら。
「好きよ」
小さく答えた。
レオンハルトが動かなくなる。
「……もう一度」
「嫌」
「なぜ」
「聞こえたでしょう?」
「聞こえなかった」
「絶対に聞こえてた」
「もう一度言え」
「嫌よ」
「ツェツィーリア」
「言わない」
頬が熱い。
「……そうか」
レオンハルトが、少しだけ残念そうに前を向いた。
それを見たら、仕方なく、ほんの少しだけ彼の方へ身を寄せる。
「好き」
今度は、さっきよりはっきりと言った。
レオンハルトがこちらを見る。
「番だからじゃないわ」
ツェツィーリアは続けた。
「レオンハルトだから好きなの」
言ってしまった。
恥ずかしくて、今すぐ逃げたくなる。
けれどレオンハルトは笑わなかった。
からかいもしない。
ただ、とても大切なものを見るような目で、ツェツィーリアを見ていた。
「……そうか」
「それだけ?」
「何と言えばいい」
「知らないわ」
「俺もだ」
思わず笑ってしまう。
「変なの」
「ああ」
レオンハルトも、わずかに笑った。
そして。
「嬉しい」
低い声で言った。
たった一言。
それだけで、ツェツィーリアには十分だった。
しばらく二人で花を眺めていると、レオンハルトが静かに口を開いた。
「来年だな」
「何が?」
「お前が十八になる」
「ああ」
ツェツィーリアは頷く。
人間の貴族社会では、十八歳になれば正式に婚姻する者も珍しくない。
レオンハルトとのことも父とは何度か話している。
けれど、まだ何も決めてはいなかった。
「怖いか」
「何が?」
「俺のところへ来ることが」
ツェツィーリアは少し考えた。
「最初は、怖かったかもしれない」
「今は?」
「怖くないわ」
「そうか」
「でも」
「なんだ」
「私、人間よ」
「ああ」
「レオンハルトは竜族で、しかも長でしょう?」
「ああ」
「私にできるのかなって、時々思う」
「何を」
「あなたの隣にいること」
正直な気持ちだった。
好きだからといって、それだけですべてがうまくいくとは思っていない。
寿命も違う。
種族も違う。
立場だって違う。
レオンハルトはしばらく黙っていた。
「ツェツィーリア」
「うん」
「俺は、お前に竜族になれとは言わない」
静かな声だった。
「俺の隣に立つために、別の誰かになる必要もない」
ツェツィーリアは彼を見る。
「今のお前のままでいい」
目を瞬いた。
「本当に?」
「ああ」
「私、失敗するかもしれないわ」
「その時は俺がどうにかする」
「そんな簡単に?」
「俺は長だ」
「こういうときだけ便利に使うのね」
レオンハルトが少し笑う。
ツェツィーリアも笑った。
それから、ほんの少し迷って口を開く。
「十八歳になったら」
「なんだ」
「あなたの隣にいてもいい?」
レオンハルトの表情が変わった。
一瞬だけ目を見開き、それから金色の瞳が柔らかくなる。
「お前がそれを望むなら」
「望んでるわ」
今度は迷わなかった。
「私、レオンハルトの隣にいたい」
長い沈黙のあと、大きな手がそっとツェツィーリアの頭に触れた。
子ども扱いされているようで、以前なら文句を言ったかもしれない。
けれど今日は、その手が嬉しかった。
レオンハルトの指が、深い青のリボンへ一度だけ触れる。
「十八になっても、同じことを言え」
「言うわ」
「約束できるか」
「できる」
ツェツィーリアは笑った。
「だって、今もそう思ってるもの」
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
ただ、その手をすぐには離さなかった。
◇
丘から戻る途中、一人の女性とすれ違った。
「レオンハルト様」
赤みのある黒髪に、赤茶色の瞳。
凛とした顔立ちの竜族の女性だった。
レオンハルトが足を止める。
「ペトラ」
「お戻りだったのですね」
「ああ」
ペトラの視線が、ツェツィーリアへ移る。
一瞬、何かを探るような目をしたが、すぐに穏やかな笑みに変わった。
「ツェツィーリア様」
「ペトラ様。こんにちは」
「お久しぶりです」
ペトラとは、これまでにも何度か顔を合わせている。
レオンハルトの近くにいることが多く、古くから彼を知る女性らしい。
「今日はお二人で?」
「ああ。丘へ行っていた」
「そうでしたか」
ペトラは笑う。
けれど、その視線が一瞬、ツェツィーリアの髪へ向いた。
「そのリボン、よくお似合いですね」
「ありがとう」
「レオンハルト様がお選びになったものですか?」
「ええ」
答えると、ペトラはほんの少しだけ目を細めた。
「……そうですか」
それだけだった。
「では、私はこれで」
「ああ」
ペトラが去っていく。
ツェツィーリアは、その背中を少しだけ見送った。
「どうした」
「ううん。何でもないわ」
隣には、レオンハルトがいる。
来年、十八歳になったら。
きっと今よりもっと近くにいられる。
これから先も、この人の隣で同じように笑える。
ツェツィーリアは、そう信じていた。
疑ったことなど、一度もなかった。




